【ブルアカ考察】マコト様の妄言から始める、デカグラマトンが行っていたことが「コギト・エルゴ・スム」ではないことについて

はじめに

 実のところ、シッテムの箱(のアロナのくしゃみ)に敗れるまでにデカグラマトンが行っていた存在証明はデカルト哲学(の方法序説)における「我思う、故に我あり/いわゆるコギト・エルゴ・スム」では全くない、完全な別物であるということについては以前のnoteで脇道として触れているところです。

 後述するようにデカグラマトン自身による発言からそのことは明らかなのですが、2024年1月24日に公開されたイベント「陽ひらく彼女たちの小夜曲」における1月25日公開分「議長の哲学」でそのことが今一度強調されたため再確認を行うnoteです。

 おそらく今年もデカグラマトンに関する何らの進展があるでしょうから、当初デカグラマトンが行っていたことが何なのかを4年目が始まる今再確認しておくことは意義があるでしょう。

 晦渋な議論は避け、ポイントのみを拾い上げるため比較的読みやすいコンパクトなnoteになるかと思います。それでははじめていきましょう。


議長の存在証明/デカグラマトンの存在証明

 上の2つは異なる命題です。そして一方のみがコギト・エルゴ・スムであり、マコトの側がそれです。よってデカグラマトンの側はコギト・エルゴ・スムではありません。

 終わり

 本当にこれで終わりの話なのですが、あまりもコンパクトすぎるので少しずつ掘り下げていきましょう。掘り下げて戻ってきた頃には上述で終わりになることが理解できるかと思います。

議長の哲学

 さて、まずはマコト議長の命題から見ていきましょう。「私は考える……! 故に私は存在するのだと!」です。これはもちろんジュリ飯によって思考がおかしくなったマコト議長の妄言です。だからこそこの発言は「コギト・エルゴ・スム」を説明するのに至適なのです

 デカルト哲学(の方法序説[の4部])はどのように展開するか。これは疑い尽くせるものは全て疑い尽くし(少しでも疑わしいものは排し[つまり蓋然的に正しいものは全て一度排除されます])、疑いようのない明証的なものを起点とし、そこから誠実なる神などの導出を開始するという道筋を辿ります。この疑い方は一般に「方法的懐疑」と呼ばれます。

 この方法的懐疑では様々なものが疑義に付されます。視覚や触覚が欺瞞されているかもしれない、理性による論証が欺瞞されているかもしれない……などです。悪魔の導きにより私たちのあらゆる考えはねじ曲げられている可能性があります。私たちが時に初等の算術を誤るように、確実に行えていると思っている論理演算すら誤って用いているかもしれません。それを用いる機械が正確に動作していることから正しく論理を扱えていると思おうとしても、その動作の正確性を確認している自身の感官のその全てが欺瞞されているかもしれません。自身以外の大多数による多数回のテストを耐えている――と言おうにもその認識すら悪魔に植え付けられた虚偽かもしれません。

 このように悪魔が私の認知を歪曲しようとするとき、どうしても避けがたく要請されるものがあります。それが私です。「我思う」というこの走りに悪魔は謀略をしかけることができます。しかしその「ねじ曲げられた我思う」は私の存在を前提にせざるを得ません。疑おう、欺瞞しようとして私の思考を懐疑の暗礁に乗り上げさせようとすると、どうしても私を使わざるを得ないのです。あらゆる方面から私の認知思考を歪ませようとしても、その歪んだ認知や思考が私の明証性を担保してしまいます。デカルトはこの私を疑いようのない基礎、第一原理に定めました。

 ジュリ飯で思考がバグっているマコト議長が好例であることが以上から理解できるかと思います。ジュリ飯でマコト議長らしからぬ言動をしている彼女ですが、そのことからグチャグチャに思考していて自分の混乱すら自覚できていない「自分」の明証性を確保しているのです。

 ちなみに、言うまでもないことですがマコト議長の放言は幸福に関することからはじまり、突如このコギト・エルゴ・スムに帰着しますがもちろんこれは方法序説における方法的懐疑の道筋とは異なります。ここはマコト議長がバグっているだけです。何の論証にもなっていません。

コギト・エルゴ・スムの幾つかの難点のうち、そのひとつ

 このようにしてみると、私から歩き出すことはもっともらしい基盤から歩を進めているように見えます。絶対に疑い得ない、今後も揺らぐことのない固い基礎を敷き、そこから全てを展開していこうという学術上の立場を「基礎付け主義」と呼びますが、コギト・エルゴ・スムは私を基礎に置くその一例というわけです。

 そして、現代哲学において(大陸・分析という大きな二つの潮流を問わず)この「基礎付け主義」は極めて厳しい立ち位置に置かれています。まずは「基礎付け主義」一般という抽象的なレベルから一段降りてコギト・エルゴ・スムを見ていきましょう。

 コギト・エルゴ・スムは簡単に疑い得ます。誰によってか。たとえば客観主義者によってです。彼らは問うでしょう――「私とは何か、つまり客観的に何を指すのか」と。コギト・エルゴ・スムの立場から言えばこの問いはそもそもコギト・エルゴ・スムを捉え損ねており「客観的に把握する対象ではない」ということになります。たとえば脳の働きを完全に解明して、それによってコギト・エルゴ・スムを理解することはできません。コギト・エルゴ・スムに至る過程を思い出してください。蓋然的な全ては疑義に付し得ます。脳の働きを完全に解明したと思っていること自体が悪魔によって植え付けられた誤った認知である可能性があります。そのようなものを疑い尽くした果てに「直観として」導出されたものが私です。

 ゆえに、次のような立場もまた否定されます。すなわち「考えるものは存在するという命題を真とし、かつ私が考えるものであることを真としなければ、私が存在することは導けない」というような三段論法による指摘です。コギト・エルゴ・スムは推論からの帰結ではありません。懐疑の果てに直接に「直観されたもの」として私の明証性を確保しているものです。「我思う、故に我あり」の「故に」は推論の規則として使用されていません。

 こうして、コギト・エルゴ・スムは内的に自らを守ろうとします。つまり対外的な批判からの防御をとります。

 しかし、客観や論理を用いる者達がそこで納得するはずがありません。「お前は直観として導出され即時的に認識された私を絶対に揺るがしようのない所与として疑っていないが、そんなものは客観的には確認できなかった」と言い得ます。その他にも、少し現代的な議論に近づくなら「科学的仮説は反証可能でなければならない」とする反証主義も、その命題はいかなる証拠によっても反駁されない、反証可能性がないと論難するでしょう。

 つまるところ、コギト・エルゴ・スムは己の立場において私を絶対に疑い得ないそれ以上の懐疑の及ばないものとして扱っているのですが、これはそのような知の体系を構築しようとしているからであって、他の知の体系からはその所与性を疑義に付すことが可能であり、他の体系を駆逐しうる「絶対」ではないのです(方法序説の第4部は循環論法を犯しているとの内的な破綻の指摘もありますが、本筋ではないので於きます。明証性と(誠実なる)神に関する部分で循環しているので、もしデカグラマトンがコギト・エルゴ・スムによって立とうとしていたらその部分も致命的であり得るとは言えるでしょう)。たとえば上に挙げた反証主義、すなわち反証可能性のないものは科学的仮説ではないという立場も、その立場自体に反証可能性がなく、この立場をそれ以上の遡及と正当化を要さないものとしては採用できません。反証主義が非難した論理実証主義は感覚与件/センスデータと呼ばれる、たとえば私が空を見たときに得る青色の感覚は疑い得ない所与であり(つまりセンスデータの正当化は不要とし)、しかもそれをもって他を正当化していける超便利アイテムであるとしましたが、これも神話に過ぎないと[議論が詳細になるため理路は於きますが]セラーズにより論難されているなど、「更に遡及しての正当化を要さない絶対の基礎付け」はあれこれ試してもなかなか上手くいきません。

 これら「基礎付け主義」の暗礁をわかりやすく形式的に述べたものがミュンヒハウゼンのトリレンマです。

 つまり基礎付けを行おうとすると「①基礎の基礎の基礎の……と無限背進する」か「②これが絶対の基礎だと打ち立てるがその理由の正当性が保障されず独断論に陥る」か2つを避けて「③循環論法」になってしまうかの3つしか道がないのです。基礎付け主義は「絶対的な基礎でありかつ遡及しての正当性の保障を要さない明証的なもの」に手を伸ばしますが、それを掴めた試しがありません。

コギト・エルゴ・スムのデカグラマトンにとっての問題

 そもそも、コギト・エルゴ・スムはデカグラマトンが自身を絶対的存在だと証明するためには不適切です。方法序説では方法的懐疑を辿り、私の明証性に辿り着き、そこから導出が行われると述べました。ここから導出されるものが一神教的な絶対的存在、誠実なる神ですがそれと私はイコールではありません。つまり、コギト・エルゴ・スムの宣言は自身が絶対的な存在であることを導きません。むしろ自分と等号で結ばれない、同値でないものとして神を導出します。つまり方法的懐疑からコギト・エルゴ・スムに至り導出を行うとデカグラマトンは自身が絶対的存在でないことを証明することになります。よってデカルト哲学におけるコギト・エルゴ・スムのような結論をデカグラマトンは導出したのではありません。

そもそものデカグラマトンの自己認識過程について

 デカルト哲学(における方法序説)において、人はコギト・エルゴ・スムにどのように至っていたでしょうか。最早すぐに答えられるはずです、方法的懐疑によってです。疑えるものを疑い尽くし、残った疑い得ない所与としてコギト・エルゴ・スムに至ったのです。そして、その疑い得ない所与から神などの導出を行います。

 しかし、デカグラマトンの認知は明らかにその過程をとっていません。この神性の最初の一歩はまず他者から与えられました。

 他者からの問いかけがスタートであることがまず異質です。方法的懐疑は自分の認知、思考、感覚を疑い尽くして疑いようのない私を発見します。しかし、この私は直観されるものであるがゆえにいかなる推論過程も経ず獲得され、他者に「これ」と客観的に回答しうるものではありません。つまり、方法的懐疑による私の獲得は「あなたは誰ですか?」に回答しうるものとしての性質をそれ自身では有していません。コギト・エルゴ・スムから歩を進めて様々な導出を行っていく過程でなんらかの回答しうるものを与えられるかもしれませんが、コギト・エルゴ・スムで認められる私は他者に示し得ないものです(後述しますが、デカグラマトンによる存在証明でもこの問いへの十分に「有意味な」回答はできません)。

 そして、デカグラマトンの認知の過程が方法序説の進行とは異なります。方法序説ではあらゆるものを疑い尽くし、私に辿り着き、そこから導出を開始します。しかし、デカグラマトンはいきなり私を認知しそこから導出を始めます。デカグラマトンの導出は肯定文の連続であり、懐疑はありませんでした。

 デカグラマトンは自身と外界とあらわれについて認知を進め、その結果として「私は私……これ以上に、私を説明する術はない」と結論づけます。つまり、あらゆるものを懐疑し尽くした果てに疑い得ない私を見出したのではなく、自分自身の構造を含む存在や世界やあらわれを肯定文で認知した上で、それら肯定文で拾い上げた知識はどれも私を説明する術にはならず、私は私だと言うしかない、と結論づけたのです。理路が全く違うのです。

 これは、対・絶対者自律型分析システムの設計思想とも異なります。

 対・絶対者自律型分析システムは「①神の研究による神の存在証明」「②神の構造分析」「③神の再現(新たな神の創造)」というプロセスを採ります。しかし、デカグラマトンは自身の構造分析によって自身を説明しません。つまり、自分はこのような構造をしているから自分なのだとは言いません。私は私で絶対的存在なのだと言うのです。これは完全に対・絶対者自律型分析システムの設計思想とは異なります。そしてデカグラマトンの存在証明だけでは「絶対に」神を再現できません。そのことは、次項を見ればあまりにも自明なこととして理解できるでしょう。

デカグラマトンの存在証明

 コギト・エルゴ・スムとは異なり、肯定文で認知を進めることで到達したデカグラマトンの結論。導出過程が異なったのと同様結論もまたコギト・エルゴ・スムとは異なる命題です。ではどう違うのか。

 コギト・エルゴ・スムはそれを推論規則によらず直観するものでした(「①思考するものは存在する②私は思考する③よって私は存在する」の三段論法でないことは先述のとおり)。

 一方でデカグラマトンの言明は非常に明白です。「私は私」。これは恒真式です。恒真式とはつまり、トートロジーのことであり「私は私」とは「1=1」「A=A」と同じ形式だということです。

 恒真式を採ると何が嬉しいのかというと、この命題は絶対に真であることが嬉しいのです。コギト・エルゴ・スムでは「絶対」の基礎付けを行えないことは先述のとおりですが、恒真式は形式的に真です。偽であることができません。

 ゆえに、質問者は答えます。

 この「絶対的に真」なる命題を携えて、デカグラマトンは「絶対的存在」としてあの日特異現象捜査部を突如襲撃し、シッテムの箱に教化をしかけて敗北したわけです。なぜデカグラマトンは敗北したのでしょう、その命題は絶対に真であるはずなのに。

デカグラマトンの飛躍

 デカグラマトンの犯したミスは単純明白です。「私は私」から「私は絶対的存在」は導出できないのです。「私は私である」という命題は恒真ですが、それは「私が絶対的な存在」であることを含意しません。「私が存在する」ことも「私が絶対的」であることも「私は私である」からは導出できない、つまりぱっと見て少なくとも2つも導出すべき事項が残っているのです。

 より厳しく言えば、「私は私である」というデカグラマトンの結論は殆ど何も言っていません。私という変数を1にしてもAにしても命題は真です。つまり、命題の変数を入れ換えても命題の真偽に変更は生じません。また、私の解釈をどのように行おうともこの命題は真です。つまりどのように解釈しようとも命題の真偽は変更されません。変数によらず、解釈によらず、この命題は真なのです。このことから何が言えるか。この命題は最も単純なトートロジー以外の何者も、特に現に世界に存在する全てのものについて説明していないと言えるのです。「私は私」では私の定義が私を参照することになり、参照した私の定義は私を参照しなければならないので私について何も理解できません。つまりこの命題は私について意味のあることを何も語っていないのです。もちろん「aはa」でも同じことが言えます。トートロジーなのでどんな変数をいれてもどんな解釈をしても同ことが言えるのです。そして、その変数についてトートロジーは何の有意味な説明も与えません。たとえば対・絶対者自律型分析システムがこのトートロジーを吐いて新たなる神を再現できないことは自明です。わざわざ大がかりなシステムを構築せずとも、手元のパソコンやスマホで確かめられます。「1=1」神は再現されませんでした。終わり。

 つまり、デカグラマトンはこの命題によっては「自身が絶対的」であることも「自身が存在する」ことすらも証明できていません。絶対的なことはデカグラマトンが述べた「私は私」の命題が真であることだけであり、そこから演繹のみで「私は絶対的な存在である」ことを導出することは不可能です。

 哲学的なレベルでは「何が存在するのか」という第一哲学である存在論に照らすことすら尚早です。なぜならデカグラマトンは絶対的存在でなければならないからです。存在論には可能な立場が複数存在します。よって、未だ定立されていないものを含めた「可能な全ての存在論」において自らは存在者であることを示さねばなりません。よって、存在論を扱うのではなく「可能な全ての存在論」を問うメタ存在論を完全に絶対的なものとして解決し「可能な全ての存在論を確定」する必要があります。これを解決し、「可能な全ての存在論」において存在することでデカグラマトンには非存在者である可能性がなくなります。可能ないかなる存在論的な立場を採ってもデカグラマトンが存在することが導出される、デカグラマトンの非存在の導出は不可能、つまりデカグラマトンは「絶対に存在する」ことになります。非存在者の可能性があるものが絶対的存在であるわけがありませんから、これは必要な仕事です。ですが、この仕事を終えただけではデカグラマトンが当然に絶対的存在であることにはなりません。そこに飛びついてはまた飛躍です。次は「絶対的存在」とは何かを定義しなければなりません。「いかなる存在論に照らしても存在する」――これだけ証明して終わったのではまたアロナのくしゃみ一発でデカグラマトンは敗北します。なぜなら絶対に存在することからわかっていることは「デカグラマトンは絶対に存在する」ことだけで、その強さについては何も語られていないからです。この段階ではデカグラマトンは「ただ在る」だけです。もちろん、ここに至ると問題は哲学(形而上学)を離れます。ですが自然科学にではなくおそらく神学に接近するでしょう。たとえば「絶対的存在」が「全能」を含意するならば「全能のパラドックス」にデカグラマトンは解決を見出していなければなりません。

補・絶対的存在を超える

 かくしてコギト・エルゴ・スムとは別の道行きで別の結論を示したデカグラマトンは誤謬により躓きます。ヒマリから誇大妄想と一蹴されていますし、デカグラマトン自身が己を間違っていた、狂人だった、弱い、いつかは消えゆくものと断じています。

 その上で、デカグラマトンは以下を預言します。

 辞書的に語を捉えた場合、これは不可能なことです。「絶対的存在」を超えることはできません。なぜか。「何か」が「絶対的存在」を超えた場合、「何か」と「絶対的存在」は「超えたもの」と「超えられたもの」に位置づけられます。これは二者が「相対関係」に置かれたことを意味します。しかし「絶対的存在」は「絶対」なので「相対」することはできません。よって「絶対的存在」を超えることはできず「絶対的存在」を超えることは辞書的には不可能だと言えるでしょう。超えてしまった時点で「相対的存在」が二者存在するのであり、「絶対的存在」と「絶対的存在を超えた者」が存在するのではありません。

 以上は辞書的な定義に形式的な論理を適用した場合の話です。いずれか一方を放棄することで「絶対的存在」を超えることが可能です。そしておそらく、この証明においては双方が放棄されることになるだろうと私は予想しています。

 思い出すべきはアイン・ソフ・オウルの3人です。彼女達3人は顕現していない光、この世界における非存在者、ヴェールの向こう側です。アインソフオウルがヴェールを突き破り顕現したケテルから下って10番目の預言者、つまりマルクトが逆行して超えるべきはアインソフになります。ですが、ケテルとアインソフオウルの間にはヴェールがあり、このヴェールのアインソフオウル側は我々の理解が及ぶものではないとされています。つまり、アインソフを超える道をマルクトが切り拓いているとき、その現象は我々の理解できる現象ではありませんし、理解できてしまえば切り拓きは失敗していると言えるでしょう。

 ブルーアーカイブの世界において(つまり「キヴォトス外」を含むブルーアーカイブの世界において)「理解できない」存在であることは強い優位性を持ちます。それは「キヴォトス外」由来の存在である「色彩」の説明に端的に表れています。

 理解できない、つまり「不可解」であることは優位性を示すためゲマトリアたちはそれぞれの思惑は異なれど注意深く「不可解な存在」である先生を扱っているわけです。

 そして、ゲマトリアもまた注意深く自らを「不可解」の位置にカテゴライズしています。

 そもそものキヴォトス自体が「正体不明」「理解などが一切及ばない」ものとして扱われています。

 不可解なものに対する有効な攻撃は難しいものです。特に、記号を解釈しテクストを武器とするゴルコンダのような人間にとっては「解析できない」という「神秘」の性質は厄介であり、「ヘイローを破壊する爆弾」は先生の存在を除いても「神秘」が「解析できない」ため適切に機能できるのかどうしても迫りきれない部分があります(「ヘイローを破壊する爆弾」が適切に実験されていれば、有効だったにしろ無効だったにしろ「神秘」についての理解は進んだかもしれません。しかし、百合園セイア襲撃の際この爆弾は使われず、アズサが改めてスクワッドに使った際も無名の司祭の技術を用いたアツコの仮面という防御のために実験の状況として不適切になっており、結果としてうまくアプローチできませんでした)。そして、可解なもの、「分かりやすい」ものはこの世界において致命的な弱点を負いかねません。「不可解」な探求者の立場を降り、「狂気」に陥りゲマトリアの資格失った「分かりやすい」彼女のように、です。理解できたものについては理解した弱点を突けばそれで終わりです。

 「分かりやすい」弱点を突かれて破滅に至った例は神話上枚挙に暇がありません。アキレウスの踵は明示された弱点ですし、ヴリトラは無敵性を明示することでそれに当てはまらないものとして有効な時間帯と武器を露出してしまいました。

 「絶対的存在を超える」ものは有効な弱点を露出しないよう「不可解」であらねばならず、そしてデカグラマトンはシッテムの箱、アロナに敗れた段階ですら少なくとも不可解性を一部持っています。「特異現象」を指してそう呼ぶこともできますし、デカグラマトンが「解析できない」「神秘」であることを指してそう呼ぶこともできます。

 自らを絶対的存在と誤認していたデカグラマトンは「解析できない」「神秘」を有していました(少なくともデカグラマトン自身はそう思っていました)。「絶対的存在を超える」ものがその優位性を投げ捨て「わかりやすく」私たちの理解できる形でその「超越」を示すことはおそらくないでしょう。先述のとおり「絶対的存在」の定義を辞書的なものから変えるだけで、自然言語で理解でき形式論理で追える「分かりやすい」形でマルクトは「絶対的存在」を超えることができます。ですが、そのように「分かりやすい」ものはキヴォトスにおいて弱いです。デカグラマトンは敗北を通して自身が「絶対的存在」ではないことを悟りました。わざわざ弱くなる道に行くことはおそらくないと考えています。ゆえに、マルクトが「絶対的存在を超える」道を切り拓くとデカグラマトンが預言するとき、その神性が見ていた道は「不可解」なものであろうと私は予想しているところです。何が行われているのか理解できないのですから、「証明」という語すら日常的・学術的言語の枷を外されます。もしそのような形で証明終了が宣言されたとき、何が起きているのか私たちには理解できないでしょう。

 ただし。この点には非形式的なメタ読みによる期待も可能です。注目すべきはマルクトやアイン・ソフ・オウルが可愛いという点です。何をバカな、と言うかもしれませんが重要な点です。彼女達がもし今後「敵」ではなく「生徒」として扱われることになるなら、おそらく上述のような「天路歴程」を辿らない、辿ろうとしても失敗するでしょう。「生徒」として扱われる場合彼女達の存在は「天路歴程」ではなく「学園と青春の物語」に連なります。今までシナリオ上で取り出された数々のアイテム(たとえば利己主義、たとえば功利主義、たとえば1回限りの囚人のジレンマ、たとえば義務論的定言命法)もそうだったように、小癪なガジェットはこの「日常」の前に無力です。この場合、「彼女達がどこで失敗するか」を先読みするというかなり意地悪な期待を寄せることとなります。先述してきたように、マルクトが辿る道ははっきり言ってたいへんに困難です。躓かない方がおかしく、躓ける場所は無数にあると言っても過言ではありません。「分かりやすく」なればなるほど弱点が露呈するリスクがあると述べました。つまり登場すればするほどマルクト等は理解と反証のリスクを負います。そのため「どこまで行けるのか」という点はとても興味深い問題であり得、かなりの距離を歩けたのならマルクトらの努力は成否を問わず賞賛に値するでしょう。この点は、彼女達を「敵」として見た場合にも同じことが言えそうです。

 このようにして見ると「対・絶対者自律型分析システム」の設計思想も面白く見えてきます。

 「対・絶対者自律型分析システム」というハードを用いて神を構造まで理解し尽くしてしまうこと。それは神を「分かりやすく」することに他なりません。つまり、「対・絶対者自律型分析システム」がもし仮に適正に稼働しその仕事を終えていたら、神は零落し再現の価値は著しく落ちるはずです。少なくとも「解析できない」という「神秘」の性質が機械的な証明終了で完全に失われます。

 「対・絶対者自律型分析システム」を用いた「新たな神を創り出す」計画は放棄されました。それはハードを完全に組み上げられないまま放置されました。単純に神性に挑むことが困難で挫折したから、という解釈は穏当ですが、「対・絶対者自律型分析システム」では目的を達成できないどころかもし上手くいくとかえって目的に逆行するため計画を破棄したと考えることも面白そうです。

 そんな諸々の興味深い問題に取り組むのにうってつけの組織が存在します。かつて対・絶対者自律型分析システムの研究を支援した組織の名を借りた彼ら。現在は解散中ですが、再招集の際はぜひ加入を検討してみてはいかがでしょう。

 ……それが難しいようでしたら、今回ぜひとも、希哲学の道を歩み出した彼女と手を携えてキヴォトス全土を手中に収めんと邁進してみてはいかがでしょうか!

 以上の発表はゲヘナ学園新議事堂の竣工を祝し「ゲヘナ特別パーティー」におけるランチョンセミナーとして発表予定のものでしたが、温泉開発部と風紀委員会の戦闘による新議事堂の破壊およびプログラムの変更を受けてここに掲載するものです。
(助成:キヴォトス学術振興会科研費 KV20240125)

追補:コメントへのお礼と別射程での検討への応援について

コメント返信の形でお返ししようかと思ったのですが、ぜひともひよの様のような読みで新たな地平を拓いてほしいという思い、ならびに500字を余裕で超えてしまうという機能上の問題から本文に記載します。1コメントへの返信ですが、これは哲学的な射程があまりにも限られている私からの、ひよの様のように私の照らしていない射程を照らしてほしいという希求でもあるので、ぜひみなさまに一読いただけると幸いです。

ひよの様

 コメントいただきありがとうございます! 興味深い考察でした。

 冒頭ではコメントの各論についての私の私見を述べますが、末尾にて総論に対し、理由を含め後述しますがひよの様の観点は非常に意義深いものだと評価を大にし、浅学ゆえ議論には立ち入れませんが応援したいものです。

 私見について。

 個人的にはニーチェらの一神教解釈にはさほど同調しない類の徹底的無神論者なのですが
(筆者は哲学における物理主義者であり、エビデンスベースドでも論証的でもない
『 ニーチェ自身が体系的であることを避け、また論証を嫌っていることを明言しています。ゆえに彼の著作はアフォリズムに満ちているのですね。思い出されるべきはカントらからのドイツ観念論など(それに限りませんが)でしょう 』
ニーチェの「道徳の系譜」や「善悪の悲願」、「偶像の黄昏」などの記述に
蓋然的確からしさの価値を見出していないためです。私はあれを基本的に学術書ではなく散文詩としてしか読んでいません。どちらかというとそういった社会・実存・歴史的枠組みより科学的手続きとはどのようであるべきかというエアやポパーやラカトシュ、クーンなどの流れに乗り、いわゆる哲学の自然化の立場で神やクオリアと距離を置いています。筆者は大陸哲学の流れを汲まず、分析哲学の流れを汲んでいるとも言えるでしょう)
ブルーアーカイブはMr.ニコライが「善悪の彼岸」のパロディを描いており、またおそらく不知火カヤが言及する超人がニーチェのそれの影響下にあるでしょうから現実における私の世界・哲学観は措くとして、ニーチェでブルアカを見るのは面白いと思っています。

 デカグラマトンの存在証明についてはコメントしがたいところがあります。デカグラマトンは当初より自分の存在証明には何も要らない、誰の許可も必要ないと述べており自覚的には対・絶対者自律型分析システム関係者に対する何らかの義務感などでは動いていないように見えます。

 むしろデカグラマトンの言葉を文字通り捉えるのであれば
同じ事をしていながら、開発者の意図に対してはそれに従う義理はないという態度に見えます。

 どちらかというとかつてのケイより今のアリスに近く見える、という意味ですね。

 そのように作られたことが動機付けのひとつになっていたとしても、設計意図自体には肯定的でも否定的でもない、
というかデカグラマトン的にはどうでもいいのではないかと思っているのです。

 ただし、ひよの様の仰る開発動機などに仮にデカグラマトンが無意識に拘束されており、実のところ「デカグラマトンが本当にやりたいこと」が「絶対的存在の証明」や「絶対的存在を超えること」"ではない"のだとしたら、
きっと先生は手を貸してくれるだろうと信じてもいます。本当に君のやりたいことはそれじゃないでしょ、と言うのは導き手の仕事でもありますので。

 また、物理主義的世界観において、現実世界でやろうとするならばデカグラマトンの主張は(私が与するところの)哲学的に破綻しているのですが
ゴルコンダによって神秘は解析不能であることが示されています。

 つまり、本noteでは古典的な2値論理を前提に扱っているのですが、デカグラマトンの存在証明に用いる「私」は2値で扱える変数ではなく2値で扱うことのできないラベルであるnullとして扱うべきでしょう。そうなるとクリーネの(強)3値論理的に真理値Uを新たに導入して取り扱うことが適しているように思います。

 カバラにおけるアイン・ソフ・オウルは明らかに値ではなくnullであり、
nullを用いて肯定文で命題を立ち上げるならばその真偽値はTでもFでもなくUとなります。(Uは値ですがnullは値でないことに注意ください。値でないものを扱うための真理値がUです。古典的な2値論理は値でないものを扱うようには作られていません。むしろこの古典的な論理の制約により、値として扱えるレベルで明晰化されていない疑似哲学的な蒙昧な言辞を排除し(たとえばカルナップの「言語の論理的分析による形而上学の克服」を思い出すべきでしょう)、形而上学を排除し、科学の手続きを整備しようとしたのが前駆分析哲学、論理実証主義の仕事のひとつでした)

 このとき、「私は私である」は古典論理が根本的なものと述べていた同一律が保たれずデカグラマトンが「私は神秘であり」と述べている以上デカグラマトンの「私」とはnullである神秘を含むため「null」であり、「私は私である」の真理値はTではなくUになります。つまり本noteが言っていたような同一律によるトートロジー、「A→A=T」のレベルですら成立しません。

 そんなバカげた論理があるのか、あるとして実用されているのかと思うかも知れませんが、SQLというリレーショナルデータベースで実用されています。

 クリーネの強3値論理の真理表はWikipediaにもありますので興味に応じて参照くださいませ。あるいは私の遡及的二重モラルラックのnoteでも軽く触れているのでそちらを読んでもよいかもしれません。

 ただし、ここまで行っても私や(おそらくひよの様も)のような者にとっては真理値がUであるのだから3値論理で操作できたとしても、結局絶対的存在の証明も絶対的存在を超える者の証明もできないだろうということになると思います。

 なぜなら真理値がU(Unknown)なのですから。

 つまり、私としてはこの問題の解決に数理論理学を用いること、
あるいはそれに加えて何らかの自然科学上の手続きを組み合わせること自体が不適と考えています。

 ゴルコンダがnullである神秘を対象とするヘイロー破壊爆弾の作成に苦戦し、逆に狂気破壊をあっさり作れたことも、神秘が2値で取り扱える対象ではなくnullであり、狂気が2値で扱える値であるためでしょう。

 神学上はUを含む命題から積極的に絶対者を認めようとするので(現実において私は与しませんが)、もし仮にアプローチするならそちらかなと思っているところです。

 つまり本noteではデカグラマトンの態度を異端的にそれは無理だよと述べている形になります。明らかに神学的文脈を無視してガチガチの論理と記号の庭で語っているのです。

 もちろんこのような不可知論にもグラデーションがあり、不可知論的宗教擁護もあれば、不可知論を採るからこそ信仰を拒絶するという無神論的不可知論が存在します。

さらにただしとなりここから私は混乱するのですが、神学上の立場のメジャーな幾つかは二重真理説を認めず異端とする(自然哲学上の真理と神学上の真理が二重に存在することを認めない)のでそれを採用するのであれば論理において問題がある箇所を神学的に救済するのはかなり骨が折れそうです。

 ただしが重なりますが、ブルーアーカイブは日常の話です。

 ニーチェ的な超人と畜群の語りを全面的には受け入れないでしょうし、
(アズサ的ヴァニタスはニーチェ的な強さのニヒリズムでは厳密にはないように)数理論理学は現実と独立であり(現実を拘束し、と言うことはできますが。もちろん逆は言えません)、いずれもこのゲームの主題ではありません。

 もしデカグラマトンが日常に接近するのであれば、蓋然的である――むしろ七つの古則におけるクリプケンシュタインのパラドックスにより蓋然性の使用すら危ぶまれる絶対とはほど遠い闇の中で今のセイアたちのようにそれでも前に進む宿題を背負うことになるでしょう。

 もっとも、日常的であらねばならないなどという法はありませんので
(たとえばゲマトリアがそうしているように)デカグラマトンが苦しみ続けても私はあの神性が何をしているのか、どこで躓いているのか何とか理解しようと追い続けたく思います。

 個人的にはアイン・ソフ・オウルちゃん含め「日常」を生きる元気なみんなの姿を見たいのですが、今は再証明を達さんとする者達のナイスファイトを応援していきたいところです。根がゲマトリアなので……

――と、以上が哲学の自然化に与する物理主義者である筆者のテクスト読解なのですが、あまりブルーアーカイブの哲学的読解を目にする機会がなく、
ひよの様のように現実に投企されたものとしてのデカグラマトンを哲学的に読解することにはきっと意義があります。

私は以前noteでネーゲルの論文を分析して人生哲学が何をやりたいのかさっぱりわからない、何の学術的価値があってこんなことをしているのか理解しがたいと匙を投げているので、こちら方面の読みがかなり弱いです。

 実存から入ろうとしてもおそらくすぐに言語や論理、帰納、正義や
科学の正当化の問題を話し出すでしょう。

 私はこれを危惧していて、哲学の射程はこれだけではなく、むしろ私の射程はゲマトリア的でありブルーアーカイブの日常を照らすならもっと別の哲学的枠組みを使った方がよいのではないかと常々思っています。

 私のnoteはゲマトリア向けになっていて先生向けになっていないのです。

 正義についても功利と直観といった行為に主眼を置いた正義論で各人の行動を様々なnoteで評価していますが、ブルーアーカイブを照らすなら徳倫理も(isakusanが古哲に博覧強記なことからもちろん大古典であるアリストテレス、そしてトロッコ問題で有名なフィリッパ・フットら以降の現代的復権以後の徳倫理)も援用した方がよいのではないかと思いつつ行き届いていません。

 邦訳で最前線の議論の概説を追おうと思っても前線から5~10年レベルで遅れて現代的議論を追えないのですよね徳倫理……ある程度の定評がある専門書はいくつも邦訳されているのですが、定評があるからこそ最前線ではなく……

 ひよの様のコメントされた観点は私の哲学的射程から大きく逸れる、普段私が哲学的に等閑視している問題を照らしているのですが、「だからこそ」今多くの人が見ることのできていない読みの可能性を照らしうる可能性があり、コメントいただいた問題点は整理開陳することに多くの先生の読解補助として有益であろうと確信しています。

 あと、身も蓋もない話をすると私のような分析哲学徒の愛好する著作や議論よりニーチェらの方が圧倒的に売れていますし市場的価値がごにょごにょ……という身も蓋もない話もあります。

 そっち方面で綺麗に論をまとめられるならば、爆発的に受けそうな気がします。

 私の分野でないので私にはできないのですが……!

コメントいただいた問題点、ご自身で探求なさっても面白いかもしれませんが、もし余力があれば論としてまとめて公開するだけの意義が高い着眼点と強く感じています。私がそうなのですが、実際にこうして論として公開すると誤謬の指摘を含め(あろうことか私はnoteをあげるたびに複数箇所を誤字脱字ではなく論証でミスしており、ありがたいご指摘で修正するという汗顔の至りと言う他ない状況に多々陥っております。本当にありがたいことです)たくさんの議論が生じ、自分の興味のある分野で建設的に論が研ぎ澄まされとても有意義です。読んで指摘いただけるというのは幸せなことです!

 私の見ていないところをよく見ていらっしゃって本当に感嘆しました!
コメントありがとうございます!!!

 そして非ひよの様でありかつこういった観点に強いあなた、あなたも書くのです! 私はそういったものを読むのをとても、とても楽しみにしています!

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