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阪神タイガース 詳細年表③

前回は1940年(昭和15年)までを掲載させていただきました。
今回はその後の5年間、1941(昭和16年)~1945年までを掲載させていただきたいと思います。
阪神タイガースに関するトリビア等を盛り込む等読んで楽しめる年表を作っていきたいと思っています。
よろしくお願い致します。

1941年(昭和16年)

1月1日

6日まで関西正月大会開催。
阪急が首位、阪神はライオンとともに2位。
この大会中の5日、木下勇が南海戦で無安打無得点試合を記録。 

1月11日

13日まで第二回関西三電鉄リーグ戦開催。
南海が3勝1敗で優勝、阪神は2勝2敗で2位。 

1月13日

セネタースと金鯱が対等合併、「大洋」となり、8球団となった。 

1月17日

ライオンが「朝日軍」と改称。 

2月4日

取締役支配人・中川政人、辞任。 

2月5日

日本野球連盟、結成5周年の祝賀会を東京・丸の内の日本工業会館で開催。
席上、5年間同一チームに所属していた21選手が永年勤続表彰を受けた。
阪神からは松木、若林、伊賀上の3選手が表彰を受けた。
この頃、主力は入隊している選手が多く、開幕時のメンバーは22人であった。 

2月26日

日本野球連盟の会長制採用が決まり、東京・星ヶ丘茶寮で開かれた首脳会議で初代会長に森岡二朗が承認された。 

3月1日

第十回対阪急定期戦が4日まで開催され、3勝1敗で勝利。

3月5日

連盟会長・森岡二朗就任発表。 

3月6日

関西で連盟5周年祝賀会が新大阪ホテルで開かれた。 

3月9日

巨人、阪神、阪急三球団による二回総当たりのリーグ戦開催、阪急が優勝。 

3月15日

朝日軍改名披露試合開催。
3戦3敗に終わった。 

4月14日

黒鷲戦で亀田忠にノーヒット・ノーランを喫し敗戦。 

5月20日

阪急戦(後楽園)で盗塁の審判の判定変更から荒れ1時間余もめた末、プロ野球初の無効試合となった。 

5月24日

前記の試合の池田、島両審判に処罰が通告された。 

5月26日

前記の再試合、3対2で阪神が勝利。

公式戦は長期1シーズン制を春夏秋の3季に分けて行われた。
春季戦は入隊する選手が更に増え、苦しい陣容で戦い、チーム打率は8球団中最下位の.189となるも、投手陣の踏ん張りで巨人、大洋が合併)に次ぐ3位となる。 

6月1日

第五回大毎杯争奪戦開催、1回戦で優勝した巨人に4対2で敗退。 

6月14日

米国籍の日系2世、亀田敏夫、堀尾文人が日米関係悪化のため、米国政府の帰国命令に従い横浜港から「鎌倉丸」でハワイに向け出港した。
若林、田中義雄は二重国籍から日本人になることを選択。 

7月13日

夏季戦での大洋戦(西宮)、連盟新記録(当時)、球団史上最長20回の延長戦となる。
若林が完投するも、20回裏、0対1でサヨナラ負けを喫した。 

7月

文部省は次官通達として夏の甲子園大会の中止を決定。
日中戦争が長引き、日米交渉が緊迫するなか学徒の移動を制限したのが直接の理由であった。 

7月15日

連盟理事会で7月25日から8月12日まで予定されていた満州シリーズが巨人の反対により中止となる。 

7月29日

若林が米国籍離脱と日本国籍回復届を提出。
日本政府が二世に米国か日本かの国籍選択を迫る通告を行ったことによる。

夏シーズンは東京、大阪で開催され、阪神は11勝17敗。 

8月30日

後楽園スタヂアム創立5周年記念、上位4チーム争覇戦、開催。
大洋が全勝優勝。

阪神は春夏通算で27勝29敗と負け越し、零敗が11試合を数えた。 

9月12日

新愛知杯争奪の名古屋優勝大会開催、一回戦で阪急に1対0で敗退、南海が優勝。

秋季は14勝14敗で、通算41勝43敗となり、球団創設以来初の負け越しで5位、初のBクラス転落となった、優勝は巨人。
この年は前年から導入された決着が着くまで行う制度により、延長戦が全試合の15%近い50試合にのぼった。
他にも理由として「飛ばないボール」があった。
国家総動員法の節約品にゴムや皮が含まれており、連盟内に「野球用具代用品研究会」が設けられ、ボールは反発力が弱く粗悪なものになっていった。
ボール中心には古ゴムが使われ、巻き糸も毛糸にスフ糸が混ぜられ、傷んでも繰り返し使用されていた。 

11月21日

第十一回対阪急定期戦がこの日から4日間開催。
第一戦で延長17回を日没で引き分け、第二戦から第四戦まで定期戦の歴史で唯一となる3試合連続完封勝利、38イニング無得点を記録した。 

11月29日

読売新聞社が優勝旗をつくり東京で初の東西対抗争戦である「東西対抗争覇戦」が開催された。 

12月8日

オールスター東西対抗戦最終戦が甲子園で行われた。
この日、選手たちの多くはラジオで日本軍の真珠湾攻撃、日米開戦を知った。
監督・松木は辞任・退団を決意、チーム不振、徴用を受ける危険を理由に既にシーズン終了後、辞表を提出していた。
病床にあった球団会長・松方正雄から慰留されたが大東亜戦争に突入したため決心を固めた。
円満退社で退職金7千円、功労金千円の2年分の給料相当の大金が支給され、球団後援会員の紹介により大同製鋼(現大同特殊鋼)に入社した。
後任には助監督であった若林が選手兼任で第4代監督に昇格、主将にはカイザー田中が就任した。

この年、入営した主な選手は伊賀上良平、岡田宗芳、富松信彦、釣常雄ら。

1942年(昭和17年) 

3月1日

第十二回対阪急定期戦開幕、3勝2敗で阪神が優勝。 

3月20日

第六回読売優勝大会開幕、翌日巨人に4対1で敗れる、優勝は巨人。 

3月25日

連盟副総裁を兼ねていた初代オーナーの松方正雄会長が他界、享年75。 

4月18日

米軍機による初めての東京空襲を受け、後楽園で行われる巨人対黒鷲戦が中止となり、数日後には甲子園の阪神対名古屋戦も中止された。 

4月21日

甲子園での大洋戦延長11回表、が午後4時45分空襲警報により中止とな 
り、引き分けとなった。 

4月27日

連盟が、基本的に警報が出た際は試合中止の旨の「警報発令の際の処置」を各球団に通告。 

5月27日

連盟が戦時委員会をおくことを決定。 

5月31日

第六回大毎杯争奪戦が4日間開催。
南海が初優勝、最後の開催となった。 

8月22日

第二回新愛知杯争奪戦が4日間開催、3位。 

9月12日

「黒鷲軍」が「大和」と改称。 

9月24日、25日

大和戦、朝日戦が二日連続の無得点引き分けという珍しい記録となった。 

9月27日

朝日戦、13回室脇に打たれサヨナラ負け、若林の連続無失点記録は52イニングでストップした(日本記録)。 

10月15日

大和戦で、阪神27、大和25、両軍計52の最少打数記録。

シーズンは52勝48敗5分けで巨人、大洋に次ぐ3位、Aクラスに返り咲いた。
ボールが粗悪になり反発力が低下、選手の出入りが激しくチーム力が減退し極端な打高投低となり三割打者は一人も出ず、首位打者の呉波(巨人)でも.286、阪神のチーム打率は2位で.204だった。

この年、中等野球は文部省と学徒体育振興会が主催した新しい形の大会の一環として甲子園で行われたがこの一回限りで中止された。 

11月21日

第十三回対阪急定期戦開幕、3連敗を喫した。

この年、入営した主な選手は皆川定之、宮崎剛、本堂保次、村瀬一三、松下繁二、森国五郎、中田金一ら。

1943年(昭和18年) 

2月22日

大洋野球倶楽部が「西鉄野球倶楽部」と改称。 

3月5日

軍部による野球への圧力が強まり、野球用語全てを日本語化するよう通達があった。
連盟から各球団に次のような新用語を通達した。
ストライク→正球、ボール→悪球、フェアヒット→正打、ファウルボール→圏外、セーフ→安全等。
隠し玉は武士道精神に反する為禁止、敬遠は結論を持ち越した。
第十四回対阪急定期戦開催(甲子園)、阪神が優勝

3月13日

第七回読売優勝大会開催(後楽園)。
戦前最後となった大会で3位、優勝は南海。 

3月14日

連盟理事会でユニフォームの改革を発表。
原則国防色(カーキ色)、帽子は軍帽(戦闘帽)とすることを決定した。
この頃は選手の出入りが激しくなっていた。 

3月31日

産業戦士慰安試合開催(甲子園)、朝日と対戦。 

3月

文部省が「戦時学徒体育訓練実施要綱」を発表、野球は戦時下にあって戦争に不要なスポーツに分類され敗訴され、多くの学校で野球部が解散された。 

4月9日

試合中空襲警報が発令された場合の処置が選手に通達された。 

4月

文部省から東京六大学野球リーグに中止の通達が出された。 

5月末

景浦が帰還。 

6月12日

連盟と日独伊親善協会共催の「空の戦力増強推進大会」開催。(後楽園)
阪神は1回戦で巨人に1対5で敗れ敗退。 

7月6日

巨人戦(西宮)、沢村から5点を奪い攻略した。
これが沢村の生涯最後の登板となった。 

7月13日

名古屋戦で失点、対名古屋戦連続無失点が58イニングでストップ、若林の対名古屋戦連続無失点も連続49イニングでストップした。 

7月

藤村が従軍生活から復帰。 

7月16日

西鉄戦(後楽園)で途中防空演習のため1時間23分中断。  

8月6日

戦前の甲子園球場名物の大鉄傘、軍事供出のための撤去作業始まる。
1941年(昭和16年)から金属供出として海軍に何度も迫られ、渋ってきた阪神電鉄本社も「もう抵抗することができなかった」と後の球団社長(球団オーナー)・野田誠三が語っている。 

8月17日

チーム初の6連敗を喫する。 

8月18日

名古屋戦で若林が1対0で完封勝利。
この日は本格的な大鉄傘取り壊し作業に入る前日で、試合は場内に金づちやハンマーの音が響くなか行われた。 

8月21日

連盟主催「報国号飛行機献納日本野球優勝大会」が4日間開催(西宮)。
1回戦で優勝した巨人に1対5で敗れ敗退。 

8月28日

第三回名古屋優勝大会(鳴海)。
1回戦で西鉄に5対9で敗れ敗退、朝日が優勝。 

9月4日

第十五回対阪急定期戦開催(西宮)、阪急が優勝。 

9月15日

巨人戦で12連勝の藤本を攻略、4対0で勝利、藤本の無失点記録が62イニングでストップ。 

10月1日

鈴木龍二専務理事が中心となり、戦局に対応して勤労報国会を結成、選手は産業戦士として軍需工場で働き、休日だけ試合を行うことを決めた。 

10月21日

神宮外苑競技場で出陣学徒壮行会が行われた。
出陣学徒は陸軍に8万人、海軍に2万人が入隊していったが、その中には夜間部に籍を置いていた職業野球選手も含まれていた。 

10月23日

大和戦(西宮)で若林が77球で完封勝利、1シーズン「10完封勝利」を記録。 

10月24日

巨人戦(西宮)、沢村が代打で出場し若林と最後の対決、三塁ファールフライとなった。
これが沢村の生涯最後の試合になった。 

11月4日

西鉄・野口二郎に昭和17年から通算9連敗を喫する。

公式戦は春夏秋とも4回総当たりで、1チーム84試合と大幅に減少した。
公式戦は41勝36敗7分けで朝日と並び3位、連覇した巨人には6勝5敗1分けと4年振りに勝ち越した。
この年、藤村、御園生、景浦、山口正信、門前真佐人らの主力組が戦地から帰還したが、長い軍隊生活で体力が衰え、往時の力が無かった。
それでも若林の24勝15敗は3位の原動力になった。
この年、プロ野球は何度も「産業戦士」の慰問試合を行った。
元日の呉海軍工廠、中島飛行機製作所、兵庫、大阪、愛知の産業報国会等、入場無料、旅費負担のうえで試合を行った。 

11月13日

この日より第三回オールスター東西対抗戦、開催(後楽園)。
西軍大敗のなか、景浦が2試合連続ホームランを放った。 

11月20日

大鉄傘撤去工事終了、神戸製鋼が「千トン=9万円」の安値で資材を買い取った。 

11月21日

第七回オールスター東西対抗戦、開催(甲子園)。
東西対抗戦は6試合開催され東軍が5勝1敗で圧勝し、これが戦前最後の東西対抗戦となった。

公式戦終了後、関西4球団は「職業野球関西報国団」を結成、選手たちは二式飛行艇」の製造や戦闘機「紫電改」を開発していた兵庫県の川西航空機で働いた。
この工場では巨人・沢村や当時大相撲の力士だった力道山らも働いていた。 

12月

西鉄、大和が解散となり選手は他球団に割り振られた。

この年、入営した主な選手は景浦、土井垣武、藤村隆男、山口政信、松尾五郎、三輪裕章ら。

1944年(昭和19年) 

1月13日

日本野球連盟が「日本野球報国会」と改称。
選手も「産業戦士」となって働き、土・日のみ試合をする方針となった。
阪神の選手たちは尼崎の阪神電鉄浜田車輌部へ動員された。
背番号もプロでない印象とするために廃止となり、プロ野球の歴史のなかで背番号がない唯一の年となった。 

4月

参加出来た選手は残った6球団合計で74人、すべて20人に満たなくなり、阪神も監督兼投手の若林以下総勢14名であった。
名古屋は「産業」と改称。

春季は11勝13敗1分けで巨人と同率首位。 

6月10日

第十六回対阪急定期戦開催(西宮)。
戦前最後の開催となり、阪急が2勝1敗で6度目の優勝。 

7月9日

巨人戦で3回、呉昌征、御園生、本堂による三重盗を記録。
10回には無死満塁からインフィールドフライで飛び出し三重殺された。 

7月15日

若林、5月1日からこの日までのチーム14試合に連続登板。 

8月27日

若林が7月31日から7試合1人で投げ抜いた(6勝1敗)。

夏季は16勝3敗1分けと他球団を寄せ付けず首位。
サイパン島守備隊玉砕、グアム島への米軍上陸等により、各チームの応召者が続出し、秋季戦は中止、8月末でシーズンは打ち切られた。 

9月9日

戦局が激しくなり単独チームでの試合開催不可能となり、残っていた6球団で3チームを編成し「日本野球総進軍優勝大会」を開催。
この日から甲子園、17日から後楽園、24日から西宮3球場で大会を開催。
阪神は産業と組み3大会すべて優勝、通算11勝1敗であった。
若林が大会全12試合中9試合に登板し全勝した。 

9月26日

秋季戦中止のため、春・夏の成績で阪神が優勝。
阪神は春夏の成績で27勝6敗2分け、勝率.818で、巨人に8.0ゲームの大差をつけ、6年ぶりの優勝。
若林がチーム全35試合中31試合に登板し、22勝で当時36歳での獲得は長らくプロ野球最年長記録となる最多勝、1.56で最優防御率のタイトル獲得、勝率.814、14試合連続登板も記録し、戦中最後の最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。
藤村が25打点で打点王、呉昌征が19個で盗塁王(巨人・呉新亭と同数)。
呉は前年戦線の悪化で故郷に帰るため巨人を退団したが、帰りの便が取れず、滞在していた大阪で阪神関係者から声を掛けられ入団していた。 

9月

藤村が再び応召され戦地に向かった。 

11月13日

オーナー会議で「戦力増強に資するため、野球を一時休止する」との声明を発表。
日本野球報国会も事実上消滅となった。

この年、入営した主な選手は田中義雄、西村、三輪八郎、玉置玉一、渡辺誠太郎、中原宏、仁科栄三ら。
三輪は中国山東省で戦死。

1945年(昭和20年) 

1月1日

阪神常務・田中義一の呼びかけで、5日まで甲子園、西宮球場で戦前最後となったプロ野球、関西正月大会開催。
「プロ野球の灯を消したくない」と4球団27選手が集まり、阪神・産業で「猛虎」、阪急・朝日で「隼」の2チームを編成し9試合を行った。
現存する3日のスコアには5回裏途中「警戒警報発令ノタメ中止」とある。 

1月5日

この日の試合終了をもって戦前のすべてのプロ野球が終わり、ノンフィクション作家・鈴木明は「小説新潮」に発表した「分裂」で「プロ野球が死んだ日」と称した。
田中は「もう一度、3月に会おう」と約束、3月14日再集合を予定し解散となった。 

3月13日

この日夜半の大阪大空襲以後、甲子園球場グラウンドは食糧増産のためのイモ畑となる。 

3月14日

西宮でプロ野球試合が予定されていたが、前夜からの大阪大空襲で中止。
この3月、最後まで踏ん張っていた阪神だったがついに解散。
大阪・梅田の阪神電鉄本社に集まった選手たちに、副社長・石井五郎、専務・細野躋が最後の挨拶をし、辞める人には適当な職を与え、要らなくとも選手には年末までの給料を渡した。
選手たちは互いに手を取り合い、再会・再起を誓い合った。 

4月~

戦時中の甲子園球場は軍需工場として徴用された。
グラウンドにはイモが植えられ、三塁側アルプススタンド下の室内プールは大阪帝国大(現大阪大)・水中音波研究所が潜水艦来襲を音で知る研究に使用された。

4月3日

西村、フィリピン・バタンガスで戦死。 

5月10日

甲子園球場周辺にB29の爆撃があり、球場北東の「野球塔」の先端がもぎ取られる。 

5月20日

景浦がフィリピン・カラングランで戦死、29歳。 

8月6日

早朝の空襲で焼夷弾攻撃を受け、甲子園球場グラウンドに約6千発が落ちた。
外野部分が軍用トラック置場となっていたので空襲の標的になった。
一塁側アルプス席上部が被弾し、焼夷弾の火とトラックの燃料に引火した火が合わさり球場は火の海と化して三日三晩燃え続けた。
2008年(平成20年)暮れの改修で撤去されるまで、球場北側、関係者出入り口・6号門の鉄扉には機銃掃射の弾痕が残っていた。 

8月15日

終戦。
戦場に駆り出され、生きて帰れなかったプロ野球選手の名前は東京ドーム敷地内「鎮魂の碑」に刻まれている。
戦死の事情が分からず、現在も名前は増え続けている。 

9月

早くも職業野球の再建について、鈴木龍二と阪急・村上実が話し合い、同じ頃、巨人・鈴木惣太郎、名古屋・赤嶺昌志、南海・松浦竹松らが会合を持っていた。
阪神は、疎開先の山形県米沢で電鉄本社から「チーム再建に取り掛かれ」との電報を受けた球団専務・富樫興一が、宝塚にいた球団常務・田中義一と連絡を取り、軍需要員として仕事に携わっていた藤村、門前真佐人、本堂保次、土井垣武、呉昌征らを集め、さらに選手の消息をたどり、復員を待った。

10月3日

進駐軍・接収部隊第一陣が甲子園球場に入り込み、接収した。
貴賓室は司令官室、各部屋は事務室、廊下・通路に兵士の折り畳み式ベッドが並び、一塁側二階食堂はバー、一階食堂は物品提供の売店となった。
この年イモ畑となったグラウンドのイモは収穫期に入るまでに終戦を迎えた。
このため選手は西宮・今津にあった合宿所近く空き地でキャッチボールをやるだけの日々が続いた。 

10月25日

阪神、阪急、南海、朝日の在阪4球団の幹部が大阪梅田・阪急百貨店8階食堂で「大日本野球連盟」(仮称)結成のため会合を開いた。
阪神は石井五郎、細野、冨樫が出席。
この後、関西から東京プロ野球再開を呼びかける文書が送られた。 

10月28日

東京六大学OBによる紅白試合開催(神宮)。
これが戦後野球再開とされる。 

11月6日、7日

巨人、阪神、阪急、南海(近畿グレートリンク)、産業(中部日本)、朝日(パシフィック)の存続6球団の代表者が集まり、日本野球連盟の復活を決定。
新球団セネターズの加盟も承認。 

11月23日

占領軍の許可がおり、神宮球場でプロ野球復活を告げる「日本職業野球連盟復興記念東西対抗戦」開催。
この日藤村が戦後のプロ野球初本塁打といわれているセンターオーバーのランニングホームランを放った。
阪神からは西軍へ藤村、呉、土井垣、本堂、富樫、門前の6人が出場、東西対抗戦はこの後、桐生・新川、西宮で4試合行われた。

この年、阪神の主な選手として、景浦がフィリピン・カタングランで食料調達に出向き旗艦せず、三輪が中国山東省、小川年安が中国、岡田宗芳がニューギニア、野口昇がフィリピン移動中に戦死した。

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