見出し画像

正木ひろしの思い出

 誰でも名高い人物と、その程度はどうであれクロスする経験が人生でひとつやふたつ、あるいはそれ以上あるだろうが、私の場合を言えば、正木ひろしもそのひとりである。正木ひろしは八海事件・チャタレイ裁判などで有名な反権力派の弁護士だった。そのひとが、こどもの頃のわたしの家の目と鼻の先に住んでいた。母が「有名な弁護士さんがつき当たりの家にいる」と教えた。
 
 今でもふつふつとその正木家と正木氏の様子がよみがえる。その家はいつも入り口のガラス戸が開けっ放しで廊下から家の中が丸見えだった。丸見え、といってもろくに見るべき家財などなく「隠すものなど何も無いから、勝手に見てくれ。盗んでくれ」というような開き直った感じだった。アオキの垣根を無造作に廻らせただけで庭木もなく、ともかくかまわない家である。ランニングを着た年若いこどもたちが騒いでいた。最高に「かまわない」のは奥さんのなりで、夏はシュミーズとも服ともつかない白い木綿の「あっぱっぱー」を着て、髪も梳かさず、化粧もせずにいた。愛想はまったくない。生活がぎりぎりでとても他人に微笑むような義理も余裕もない、といった様子である。
 正木氏は、というとこれもまた真っ白な木綿の開襟シャツに黒いビニールカバンを斜めがけにし、口を引き結んでまっ直ぐ前を見て歩く。その当時、カバンを斜めにかけて歩く「大人」は稀だった。真剣そのものの様子で、肌が張りつめて艶がある。メガネの底には、ひかる目が潤ってすわっていた。えらい弁護士というものは、このように峻厳な顔つきで出歩き、清貧そのものの生活をするのだ、とそれを見て思った。
 
 ところで過日、伊藤礼の「伊藤整氏奮闘の生涯」を読んだ。伊藤整といえばチャタレイ。この中でわたしは正木ひろしについての意外なエピソードを知ることになる。わたしは伊藤礼の書くエッセイの愛読者だが、これは氏の作品のなかで、やや異色の作と言えるだろう。それはそうと、伊藤礼は北杜夫と似ていないだろうか。双方とも世間的に十分高名な、そして実際にも偉大な父を持ち、次男坊だ。家庭の中での立ち位置は、社会と早めに折り合いをつけて自立している長男に較べて「いつまでたっても自立しないこまった輩」。それを韜晦とユーモアで乗り切ろうという作戦に出ているところもそっくりである。ところが北杜夫が人生のある時期に韜晦を振り捨て「真顔になって」父斎藤茂吉に取り組んだように、伊藤礼もこの本で「真顔で、真摯に」伊藤整の濃くてやや短い生涯、そしてその唐突な死によって家族が壊れていく様をも包み隠さず描いていく。これは伊藤礼の他のエッセイにはないストレートな真剣さと、それが生み出す清々しさにあふれた力作である。
 
 この書の「チャタレイ裁判」の章には、正木ひろしの特異な性格が活写されている。それはわたしがこどもの頃受けた印象とはかなり違ったもので興味深い。以下、引用しよう。

裁判がはじまる前後から家の郵便物の中に正木昊という人のハガキが混ってくるようになった。そのハガキはかなり頻繁に来た。差出人の名前はたいてい「弁護士 正木昊」とゴム印で押してあったが、「正木ひろし」、「まさき・ひろし」というのもあった。ひどいのはただ「ひろし」とだけ書いてある。そういうのはゴム印を押す間もないほど急いで出したハガキのように見えた。弁護士からこんなハガキが来るようでは、これはなかなか大変な裁判らしいと私は思ったが、そんなことにはかまわずに正木氏はどんどんハガキを発送してきた。
 私はこのハガキの主、正木氏を一度だけ眺める機会があった。父の用事で私がこの弁護士の家になにかを届けに行ったときだ。その家は市ヶ谷の駅のすぐそばにあった。市ヶ谷駅のすぐ近くだからすぐ分かる、と父は言ったが、尋ねあてたその家はまさにそのとおりで、むしろ拍子抜けするほど駅のそばにあった。わたしの家のように駅から遠いのも困るが、この弁護士は駅に近すぎて奥ゆかしさがない感じがするということなどものともせず、実用一点張りでやってるようだった。彼のよこすハガキのゴム印に「省線市ヶ谷駅前」と刻んであったが、弁護士は不動産家とちがってこういうことでは嘘をつかないものらしい。

 伊藤礼が正木弁護士を訪ねたのは何年頃だろうか。チャタレイ裁判は1951年(昭和26年)に始まり1957年 (昭和32年)に終結した。おそらくその間のいずれかの時期だろう。伊藤礼の年齢を当てはめると、18歳から24歳。彼はその間に結核で三年間療養生活を送っているが、病気が一応癒えてしかしまだぶらぶら暮らしているといった時期であろうと推測される。一方わたしが正木ひろしを始終目撃していたのは1965年以降で、場所は西武池袋線の江古田から北へ10分ほどの住宅街である。江古田というのは空襲で焼けてない地域で、当時はかすかに戦前のにおいのしのばれる落ち着きのある家並が残っていた。(そのあたりの様子について書かれたものに独文学者高橋康雄による 「羽沢の家」という一文がある。)その高橋氏の羽沢の家と至近の距離ではあったが、先に書いたように正木氏の家は「赤貧洗うがごとく」といった案配で、一方我が家は当時最先端だったセントラルヒーティングを装備した、いやに近代的な家だった。

正木氏の家は宮城のお堀の石垣と同じ種類の堂々たる石垣のうえに建っていた。しかし家そのものは、私の家とは性質は違うが要するに同じようなひどいバラックだった。戸を開けるとそこがそのままこの弁護士の居室らしく、紙屑問屋の倉庫ふうの部屋の中に当人がいた。私がしどろもどろに何か言うと正木氏は大変に機嫌が良くて、「お父さんによろしく」と言い、それで用事は全部終わった。私が届けたのは小切手かなにかだったのかもしれない。

 正木氏は市ヶ谷とはいえ、やはりバラックに住んでいた。ここは予想通りである。

正木氏のハガキは私の家にいまも山のように残っている。いまこれを眺めてみると、これはむかし私が想像していたような重苦しいものではなくてなかなか面白い。裁判中の私の父は癌になりそうな表情で暮らしていたが、ハガキの正木氏はそれどころではなく、この裁判が面白くてたまらないという調子だった。第一審の証人手続きを終えた頃のハガキに、「これで小生はホットいたしました。全く完璧の陣となりました」、「私は敵側証人の矛盾無学非論理をカンプなきまでやっつけますから、、、、」などという文字が躍っている。

 道ですれ違う正木弁護士にわたしは外見から「濡れた冷たい情熱」を勝手に感じていたが、その内面はこのようなものだったとは。さらに記述は続く。

「ミヤギさんに会うとき、阿部真之助の調書も見せてください。あの中の人類性生活史は出鱈目だと思います故、それを学問的にバク論してあいつの面の皮をヒンむいてやりたいです」という猛烈なのもある。こういう戦闘的な文章を書くとき、正木氏は2Bぐらいの鉛筆で横書きに、ナグリ書きで書いている。ハガキは力いっぱいの大きな文字で数行で埋まってしまう。
 

 正木ひろしは、「冷たい情熱」どころか「沸騰する激情」をハガキにぶちまけている。伊藤礼も「父は神経質だったから、陽気で楽天的な正木氏とはよい組み合わせだった」と書いている。しかし「陽気」「楽天的」、どうも「あの」印象とは違う。わたしが子供心に勘違いしていたのか。それとも数々の裁判の結果や歳月が彼を変容させたのか。ともあれ正木氏は「裁判」の結果に勝算を持っていた。その結果は周知のごとくなのだが。

二十七年一月の第一審判決のあと、第二審に入り、それが終わるころのは正木氏はもう有頂天になっていた。「十二月十日(注、半径津尾)をタノシミにしています、、、、九時半に一般傍聴人は入廷します故、それらの人々へのサーヴィスをします。この日が恐らく千秋楽になると思います故、当日の来廷者の芳名録を作ってはいかが」とまるでお祭りである。
 とはいうものの正木氏も裁判結果について手放しに楽観的であったわけではない。

  高裁での敗訴の後も正木ひろしの伊藤家へのハガキ攻勢は続いたようだ。引用はこの辺でやめるが、それにしてもあの「チャタレイ裁判」とは何だったのだろうか。「文字による猥褻」など、今の世では「何のこと?」であろう。好色心を満足させるために「字面を追う」辛抱など、今の人間たちはするまい。「チャタレイ」から時代はくだって、わたしが成年した当時も「サド裁判」「四畳半襖の下張」「愛のコリーダ」などさかんに猥褻論争があったことを思い出す。現在「何が猥褻か」「猥褻は取り締まるべきか否か」について議論するひとはいない。当時「猥褻」が指さしていたものはあたりまえに氾濫し、眉をひそめることでも、うっひっひと喜ぶ事でも無くなった。

 正木ひろしのあの粗末な家は今どうなっただろう。母ははじめ「偉い弁護士さんの家」があるとしていたが、あるときからにわかに態度をかえた。「チャタレイ裁判」の弁護士だとわかったからだったらしい。かすかに「怒って」いるのがわかり、わたしはしらじらとした気持ちがした。「母とのわかれ」がその時じわりと始まった。正木ひろしを思い出すとき、同時にまた、この気分をどうしても思い出すのである。


この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?