【エッセイ】”捨て鉢になる”の捨て鉢の部分
みなさんは、”捨て鉢になる”という言葉を聞いたことがあるだろうか。
捨て鉢になる、とは”やけくそな様”のことをいう慣用句である。
人間、やけくそになった時に火事場の馬鹿力が炸裂するし、逸脱した行動をとってしまう。
そんな人間味に溢れる様を形容したのが、この”捨て鉢になる”だ。
だが実際に”捨て鉢になっている”人に「捨て鉢になるなよ。」などと声をかけてはいけない。
捨て鉢になっている人の中には、捨て鉢になっていると伝えることで、より深く捨て鉢になる人間がいる。なんなら、捨て鉢になっている矛先が、捨て鉢を伝えたサイドに向くことだって珍しくはないのだ。
やけくそになった人間ほど、攻撃性も脆弱性も晒している様はないからである。
しかし、と私は思う。
捨て鉢になる、という言葉を聞いた日からずっと考えていることがのだ。
それは、”捨て鉢になる”の『捨て鉢』の気持ちになったことあるか、ということだ。
ねえ、あるかい?
捨て鉢側の気持ちになったことが。
鉢として生まれもったからには飾られるにせよ、盛られるにせよ、役割を全うしようとしていた鉢。
きっと、ろくろに回されている時は生への喜びと、全能感、そしてこれからの夢にフチが高鳴っていたに違いない。
世界は素晴らしいもので溢れている。
僕は、鉢。
何かを盛ったり植えたりした存在。
ねえ、世界。
僕は、この素晴らしい世界に見合うような鉢になれるかなあ。
ねえ、世界。
ろくろも地球も回り続けるや、みたいなね。
ところが。
ところがですよ。
捨てられるわけですね。
真相はわからないですよ。
丁重に扱われていたけれど、近所の野良猫が通った時に割れたのか。
それとも購入したてにも関わらず、床に落としてしまったのか。
夫婦喧嘩の投げ専アイテムとして消費されたのか。
隣の空き地で野球をやっていて、そのホームランボールが直撃したのか。
わからないです。わからないですが。
ただ一つわかることは、鉢がその役割を担うことができなくなってしまったということで。
どれだけ鉢が深い悲しみに落ちたか。
人生の意味を自身の気持ちなんて置き去りにして神様から反故にされて。
ああ、私は、いったい、なんのために生まれたのか。
私は、鉢。
何かを盛られたり、何かを埋めたりするための存在。
私は、鉢。
心のろくろも回転をやめてしまって。
私は、ただじっと、ひび割れた私の身体を静かに眺めるだけ。
風が吹きすさび、日々の間から漏れ出る際の、悲しみとどうしようもなさ。
そうして、役割を全う出来ない鉢は、しばらくの間仕舞われる訳ですよ。そんな簡単に捨てられるものではないから。
きっと、その間に鉢は、哲学者や詩人のように人生の意味や、深さ、切なさについてありとあらゆる理論や言語で表現したりすることだろう、と。
自分がもしも健康であれば、なんて可能性を朝も昼も晩も夢見ながら、日々とのひびを見つめ直す。
思考する無機物が宇宙にたどり着くか否かのその時間の重なりを経て、とうとう捨てられる時がやってくる。
きっと鉢は何年かに一回の大掃除か何かで捨てられるのかもしれない。
ふとした瞬間に捨てられるのかもしれない。
永い思考を経た鉢は、捨て鉢へと名を冠するのだ。
しかし!
ここで!
何か!
唐突に!
やってくる!
捨て鉢になるという形容句を考えた!
誰か!!
なんか!
わからんけど!
長い細い!
帽子を被っている!
イメージ!!
こいつが!
鉢のことなど!
一切考慮せずに!!
鉢など!
ただの鉢だろうと!
のたまい!!
捨て鉢になることを”ヤケクソになる”と意味づける!!
おい!
おい!!
おい!!!
思考する鉢の様を見たか?
なあ、見たのか聞いてくれ。
哲学者になった鉢の様。
詩人になった鉢の出たち。
何がヤケクソか。
捨てられた鉢の、その風格漂う、捨てられたからこそ極められたその姿。
むしろ気品があり、気高くはないだろうか。
彼らは捨てられたことに絶望はしただろうが、魂を無下にすることは最後までなかった。
例え、埋められなくても盛れなくても、鉢は鉢として終わりまで生き続けたのである。
捨て鉢になるが、ヤケクソ?
違うね、広辞苑にこう記し直してくれよ。
”最後まで考え抜き、諦めない様”と。
鉢を生み出した陶磁器の職人さん。
あなたたちに最後の願いがある。
聞いてくれないか。
捨てられた鉢を、ぎゅっと抱きしめてあげてほしい。
「よく頑張ったね」「素晴らしい人生だったよ」
それだけで、きっと彼らの人生には幸せなエンドマークが付随すると思う。
そして、世に言う”捨て鉢になって”しまっている人間の皆さん。
捨て鉢になるは、”最後まで考え抜き、諦めない様”という意味。
なら、あなたたちがやることはもう、わかっているはずだ。
捨て鉢になろうが、鉢であることに変わりはない。
ならば、最後までもがき足掻こうじゃないか。
捨て鉢になってからこそが、思考する人生の始まりなのだから。
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