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サンクチュアリ・聖域

朝5時

僕は日課のウォーキングに出発する。

妻の純子はまだ夢の中だ。

祖父母の残した古い平屋の自宅を出ると、先ずは深呼吸を数回する。

体中の酸素が、澱んだものから清々しいものに入れ替わる。

そんな気がするから好きだ。


何の変哲も無い、昔からの住宅が並ぶ道を、数メートル歩いたところで、右の掌を見ている自分に気付く。

以前は、この手でリードを握っていた。

「福松……」

犬を飼っていた。名前は“福松”。

雑種だと思う。

日に二回は福松を散歩に連れて行くのは自分の楽しみであり、福松との約束でもあった。


旅立ってから、二ヶ月になる。

元気にしていたのに、急に具合が悪くなり、数日後には、呆気なく天に昇って行った。

「だめだ」

福松のことを思い出す度に、僕は泣いている。

涙を拭うと、自分はまた歩き始めた。

10分ほど歩くと、お寺へ続く、長い階段がある。

かなり、しんどいのだが僕はこの階段が好きで必ず登ることにしている。

階段の両側には、シダの仲間らしい植物が、他の草に混ざって、たくさん茂っていた。

そして今朝も階段は緑色をしている。


「さぁ、今日も行くか!」

なるべく早いテンポで上がって行くことにしている。

最初の頃は、きつくて脚に応えた。

福松は、そんな僕を応援するかのように、

先に登って、尻尾を最速で振りながら待っててくれた。


ん? 誰かが階段に座ってる。

初めてのことに、僕は多少、戸惑った。

何となく、引き換えすのも気が引けたので、このまま階段を登ることにした。

初老の男性が猫を膝に乗せて座っている。


僕は、その男性の横を通る時、軽く会釈をして上がって行った。

「あなたのワンちゃんは、大丈夫だ。心配しなくていい」

僕は驚いて、振り返った。

その男性は、黙って僕を見詰めている。


何なんだこの人。からかってるのか?

何故、福松のことを知ってるんだ?

「あなたは僕が飼っていた犬のことを、ご存知なんですか」


「キミがワンちゃんと散歩をしているのを、何回か見かけただけだ」

そして男性は膝の猫を撫でた。

「大丈夫ってどういう意味ですか。あなたはいったい……」


「脚を止めてしまったな、悪かった。続けてください。よいしょっと」

その人は、立ち上がると猫を抱いて階段を降りて行った。


「変な人だな」

僕は苔にびっしり覆われた、緑色の階段を再び登り始めた。


何となく苔は好きだ。

全く詳しくはないけど、好きだ。

一番上まで、階段は緑色をしている。

最近になって知ったのだが、この上にある寺は「苔寺」として有名らしい。


階段も、その周りも草が茂る、ここは緑色の世界だ。

登り切った僕の膝は、以前ならカクカク笑っていたが今では何とも無い。

継続することは、やはり鍛えられるようだ。


そのまま手水舎に向かい、龍の口から出ている水で、手と口を清める。

寺の本堂で、神様に挨拶をしてから僕は来たコースを戻ることにしている。

「さっきの男性は、また来てるかな」

そう思いながら階段を降りて行く。

しかし誰も居なかった。


帰宅すると、妻の純子が朝食を作っていた。

「ただいま」

「お帰り智史。お味噌汁も出来上がるから」

「ありがとう」

僕は“福松”の、骨壷の入った骨袋と福松の写真に手を合わせる。


「智史、お待たせ」

「よし!福松、聴いてろよ!」

僕と純子は、せーので歌い出す。

飛び跳ね、エアーギターを弾き、目の前の

福松に向けて、歌いまくる。

朝から汗だくになって。


 ♬ シュールな夢を見ていたい

   見えない自由が欲しくて

   見えない銃を撃ちまくる

   本当の声を聞かせておくれよ

「行くぜ福松!」

 ♬ TRAINーTRAIN走っていく

        TRAINーTRAIN どこまでも  

  TRAINーTRAIN走っていく

  TRAINーTRAINどこまでも♬

「福松、聴いたか?大好きだった歌だぞ」

「さて、食べましょう!仕事仕事」


僕と純子は朝食を食べると、会社に向かった。

通勤時間、福松が家に来た時のことを、僕は思い出していた。


十年前、僕と純子は二人で少し遠出のドライブをしたことがあった。

まだ20代で、結婚したばかりの時だ。

下調べもせず、もちろん目的も無い。

気ままなドライブをしようと思い立った。

「そろそろ降りてみない?」

純子の声に僕らは車から降りて、知らない土地を、ぶらぶらと歩いた。

田舎というほどではないが、歩いている人が居ない街だな、とは感じた。


その時、僕は古びた一軒家の玄関傍にある犬小屋に目が行った。 

あの場所じゃ、一日中陽が当たらないぞ。

犬の姿は見えない。

僕と純子は近づいてみた。

覗いてみたら小屋の中に、二歳くらいの仔犬がいた。

僕らに怯えることもなく、だからといって近づいても来ない。

ぼんやりとした顔をしている。


その時、玄関から中年の男が出て来た。

僕らのことを、まるで睨むかのような鋭い視線で一瞥すると、何も云わずに出かけようとした男に僕は話しかけた。

「あの失礼ですが、この犬の飼い主さんですよね」

「だから何だ」

「散歩に連れて行ってますか?」


「散歩?行かねえよ」

吐き捨てるような言い方だった。

「……ワクチン接種は」

「そんなこと知らねぇな。コイツは野良だったんだ。腹が減ってるようだから、晩飯の残りをやったら、そのまま居ついた。メシと水は毎日やってんだから、いいだろうが」

僕は頭に来て怒鳴りそうになっていた。


「もし良かったら、この犬を家で飼わせてもらえませんか?」

純子が、ハッキリした口調でそう云った。

男は関心が、無さそうに、

「好きしな」

そう云いながら背中を向けて、行ってしまった。

 

僕らは仔犬から首輪と、短い鎖を外した。

少し戸惑っている様子の仔犬だったが、瞳はみるみる輝き出して尻尾を振り、純子に抱きついた。

僕にも抱きつき、顔中ペロペロ舐めてくれた。

純子は笑いながら見ている。

「よし!車に戻ろう。途中でホームセンターに寄って、この子の物を色々と買わないとな」


キャリーバックが無いので、車の中では、

純子がずっと抱いていた。

ホームセンターには僕が一人で買い物に行く。

車の中に、仔犬を置いていけない。

とにかく買う物が多くて、時間もお金もかかった。


両手に大きな買い袋を持ち、駐車場に戻ると、純子と仔犬は眠っている。 

そぉーとドアを開けたが、やはり起こしたようだ。

「お帰り。疲れたでしょう」

「確かに店内を、かなり歩き回ったな。でも平気だよ。それより名前を決めないか」


しばし二人で黙って考えた。

最初に僕が考えた名前は純子によって、即座に却下された。

「男の子だし、うんと幸せになれるように、

[福松]なんてどうかしら」

「福松かぁ。何だか落語が浮かぶような。

でもいい名前だ。福松に決めよう」



こうして僕らの家に縁起のいい名前の仔犬がやって来た。

初めての家。

僕は福松が緊張するものだと思い込んでいた。

だが見事に裏切られた。

部屋に入るや否や、ところ狭しと走り回る福松。

出されたご飯も、モリモリ食べて、足りないような顔をする。

「今まで人間の残りを食べていたから、犬用のが珍しいんじゃない。やっぱり美味しいのよ、福松も」

そしてパタッと寝た。

電池切れみたいだ。


「疲れたんだろうな」

「福松を見ているだけで、自然と笑みが溢れるわ、可愛くて」

「うん、癒されるよ」

「明日から、散歩をさせてあげようね」

「そうだった!僕も寝ないと」


翌朝から、福松の散歩が始まった。

朝は僕が仕事に行く前に連れて行く。

純子も働いてるので、福松は留守番になる。

そして二回目の散歩は、仕事から帰宅した純子が連れて行く。

犬の散歩は日に三回がいいと訊いた。

夜は僕が散歩係になった。

が、疲れてヘトヘトな時は福松には勘弁してもらっている。


まだ仔犬なのに、福松は決して散歩を要求しなかった。

それは最後まで続いた。


ある晩、僕はうなされていたらしく、純子に起こされた。

「額に汗をかいているわよ。これで拭いた方がいいわ」

そう云ってハンドタオルを渡してくれた。

「なにか怖い夢?」

「いや……」

「……じゃあ寝るね。おやすみ智史」

僕の様子を見て、察した純子はそれ以上は何も訊かずにいてくれた。


僕は喉が渇いて仕方がなかった。

キッチンに行き冷えたレモネードを冷蔵庫から出し、喉に流し込んだ。

飲み終えてもベットには戻らず、椅子に座った。

寝ようとしても無駄なことが分かってた。


忘れるのは無理な出来事があった。

自分が小学五年の時のことだ。

塾の帰り道、一台の車とすれ違った。

見ると父が運転している。

去って行く車を目で追っていたら、後部座席にいる何かが、こっちを見ている気がした。

「あっ!」


僕は急いで家に向かった。

胸騒ぎがして、心臓のドキドキが増して行く。

そしてそれは……。


「お母さん!お母さん!」


窓から母が顔を出した。

「騒々しいわね、外で大声出してないで家に入りなさい」

「シュウは?」

僕がそう云うと母の顔色が変わった。

「ねえ!シュウはどこに行ったの?車に乗ってるのを僕は見たんだ。お父さんが運転してた」


母は何も云わずに窓を閉めた。

僕は空っぽのシュウの小屋を見て、必死に祈った。

「神さま、シュウが帰って来ますように。神さま、お願いします!お願いします!シュウが無事に戻って来ますように!」


一時間は経った頃、暗闇から足音が聞こえた。

「智史!なにをしてるんだ?」

「シュウは、どこ」

「なに?」

「お父さんは、シュウをどこに連れてったの?

何で一緒に帰って来なかったの、ねえ!」


「うるさい!お前が悪いんだ!」

「僕が?」

「犬と遊んでばかりいるから、智史の成績は下がる一方なんだ!お前は中学を受験するんだぞ?犬と戯れ合ってる暇は無いはずだ!」


「だからって、シュウに何をしたの?どこに連れてったの」

「……」

「ねえってば!お父さん!」

「捨てたよ。遠くの山に」

父はそう云うと、家に入っていった。


どうして……

お父さん、どうして……シュウを

捨てた?

遠くの山の中 シュウ、シュウ!


ごめんなシュウ。

僕がもっと勉強すれば良かったんだ……

だからお父さん、間違えてる

遠くの山に捨てるのなら、それは

シュウじゃないよ……僕だよ

勉強しなかったのは僕だ、シュウじゃない


純子を起こすまいと、声を押し殺して僕は泣いた。

その時、気配を感じて足元を見た。

お座りしている福松が、僕を見上げている。

僕は福松を持ち上げた。

膝の上の福松は、心配そうに僕を見ている。


僕は笑顔で福松のことを撫でた。そして訊いた。

「僕は私立中学に合格したと思うか福松」

福松は小首を傾げている。

「結果は、残念だったよ、だってさ」

「僕は受験会場に行かなかったんだもんね〜」

誰が行くか。あんな氷より冷たい父親のプライドの為に、受験なんかするかよ。

だって僕は地元の公立中学校に行きたかったんだ。

「夢って叶うんだね、福松さん。そうだ今から散歩に行こう。純子にはメモ書きを置いて出かければいい。真夜中の散歩だ」


僕と福松は深夜二時の散歩に出た。

晩秋の夜の空気は冷んやりしている。

僕が小声で歌いながら歩いていたら、

福松が嬉しそうに僕を見上げて尻尾を振っている。

「福松もこの歌が好きか?僕の大好きな、

ブルーハーツの歌だよ。

[TRAIN—TRAIN]って曲なんだ」


試しに別の曲も歌ってみたが、何の反応も無い。福松にもハッキリとした好みがあ

るらしかった。


  ♬ 栄光に向かって走る

   あの列車に乗って行こう

   はだしまま飛び出して

   あの列車に乗って行こう  ♬


そう、僕はいつだって父の元から離れたかった。

父に何も云わずに、ただ云う通りにしているだけの、そんな母にも馴染めなかった。

親なのに馴染めないって変かもしれないけど、でもそうだった。


そんなことを話ながら歩いていたら、急にリードがピーンと張ったので見たら福松が、歩くのを止めて、ジッと何かを見ている。

僕も同じ方向を見てみたが、何も見えない。

動物にはそう云った、人間には見えないものが見えると訊いたことがある。

きっと福松には、何かが見えているのだろう。


そうは云っても怖いものは怖い。

「福松、帰るぞ」

小さくワン!と吠えると福松は素直に歩き出した。

その晩から僅か数日後、食欲旺盛な福松は、ほとんど食べないようになった。

家に来て、12年が経っていた。

僕と純子で動物病院に連れて行き、獣医さんに診てもらったが、特別問題は無いということだった。


僕らは別の病院に診てもらおうと話していた。

その晩、寝ている僕のベットに福松が、飛び乗り布団の中に入って来た。

そして少しの間、僕の胸に顔を付けると、

布団から出て、僕の顔をペロペロと舐めた。

次に福松は純子のベットに行き、驚いている彼女の布団に潜った。


純子の胸に顔を埋めるようにして、福松は、動かなくなった……。


いつも通りの朝5時。

僕は散歩をしている。

そして苔で緑色の階段を、登って行った。


「おはよう」と、声がした。

あの初老の男性が階段に座ってた。

「おはようございます。今朝は猫ちゃん、一緒じゃないんですね」

男性は笑顔になった。

「今朝はもっとたくさん連れて来たよ。キミは知ってますか? 動物たちにとって、飼い主さんは『サンクチュアリ』なんですよ。神聖な場所なんです」


「僕が聖域……ですか? そんなこと」


「いいえ。決して大げさなことではないのです。住まいも、食べ物も与えられ、何より一番は、飼い主さんから、『愛情』という光が彼らに、降り注いでいる。

だから、キミと、その周りは、神聖な場所なのですよ」


「なんだか、照れますね」


「さて、今日は連れて来た中に、どうしてもキミに会いたいと云ってるのが2匹いてね」

僕は不思議なことを云う人だな、と思った。

そして失礼だが、大丈夫なのか?とも。

だが次の瞬間。


シュウ?……シュウなのか?

男性の横に居るのは、確かにシュウだ。


!ふく……まつ

やはり男性の傍には福松の姿も見えた。


「この2匹が、どうしてもキミに話したいことがあるそうだ」

「話しと云っても、言葉が」


 〈智史くん、シュウだよ〉

シュウ!何で分かるんだ?シュウが……


   〈こっちの世界に来ると、話せなくても

 想いを伝えることが出来るんだよ〉


そうなんだ。シュウ、あの……。

 〈智史くん、ボクは智史くんと遊ぶのが

 大好きだったんだ。だからね、ありがと

 うって伝えたかったの。お父さんに

 は嫌われちゃったけど、そのことで

 智史くんは自分の責任だって思って

 るでしょう?それは違うよ。だから、

 もう自分を責めたりしないで〉


シュウ……。

  〈智史くん、ボクのことを、たくさん

  可愛がってくれて、嬉しかったよ。

  じゃあね、バイバイありがとう〉

僕は恥ずかしいくらい泣いていた。

僕の方こそありがとうシュウ。楽しかったよ。

「良かったな、シュウ。じゃあ次は、福松からだよ」

 

  〈智史、僕を連れて来てくれて、本当

  に、ありがとう。繋がれてるばかりで

  辛かった、とっても。智史と純子さん

  が助けてくれたんだ〉


福松、純子には“さん”を付けるくせに、

僕は呼び捨てかよ。いいけどさ。

  〈智史は仲間だもん。純子さんは

   毎日、ご飯をくれた優しい人〉

やっぱり食い気か。

  〈散歩も楽しかったし嬉しかった。

  あと、智史の下手な歌も好きだ〉

悪かったな、下手で。

  〈毎朝、楽しみに聴いてるよ。無理し

  なくていいから、歌える時は聴かせ

  てね。たくさんありがとう智史、

  バイバイ〉

僕も楽しかったよ、バイバイ福松。

 

「シュウも福松も、良かったな。ワシからも

礼をいいたい。智史くん彼等を愛してくれて感謝します」

そう云って男性はお辞儀をした。

「愛してもらったのは、僕の方も同じです。僕からも、ありがとうございました」


  〈この人はね、動物たちの神様なんだ

  よ。偉いんだ、お爺ちゃんだけど〉


「福松、余計なことを云わんでいい。確かにワシは爺さんだがな。そろそろ帰るぞ」

動物たちは神様と空に上がって行った。


「さて、僕も戻らないと。会社に行かなきゃ。

それにしても不思議なことって、あるもんだな」

僕は嬉しかった。

彼等に出会えて良かった。


  ♬ 世界中にさだめられた

   どんな記念日なんかより


《♬ あなたが生きている今日が

  どんなに素晴らしいだろう  ♬》


空を見上げて僕は笑った。


       了





























  














  




















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