乗り越える時まで
学校に通っていた。
簿記を習うために。
社会人1年目の私は、会社の仕事が、右も左も判らない。
新人の中でも、ダントツに覚えが悪いと自覚している。
はっきり云って簿記は好きではない。
と、云うよりかなり嫌いだ。
それでも仕事をする上で、必要だから、私は書店で初心者向けの本を、5冊買った。
でも、読んでる内に眠くなり、さっぱり進まないし、頭に入らない。
ある日、上司が私のデスクに3冊の本を置いた。
「これを読んでみなさい」
そう云って。
「これ以上の簡単な簿記の本は、無い(らしい)から、沖くんでも理解出来るはずだ。だが、万が一、判らないようなら学校に通いなさい」
そして私は週2回、会社が終わると学校に通うことになってしまった。
周りを見ると、私と同じに社会人が多い気がする。
この日も授業が終わり、20時23分の電車に乗る為に、私は小走りで駅に急いでいた。
なんとか間にあい、私は電車に乗ることが出来た。
8月の暑さは、夜になっても熱気が凄くて、私の体はベタベタだ。
冷えた車内は、まるで天国に思える。
いつもなら、ラッシュで満員なのに、今夜は割と、空いていた。
「25日の金曜日。だからか」
運良く空席があったので、私は座ることが出来た。
「あ〜疲れた。早く帰ってシャワーを浴びたい。こんな思いをするくらいなら、いっそのこと転職を考えた方が……ううん、絶対だめ!」
そんなことを思っていたら、なんだか視線を感じる。
隣りを見たら、中年の女性がニコニコと、笑顔で私を見ている。
知り合いでもないし、関わらない方がいいだろうと思った私は、本を読むことにした。
バックから、授業で使っている教材を取り出すと、ページを開く。
「あなた、爽やかねぇ」
そう声がして、私はさっきの女性のことを見た。
その女性は、やっぱり笑顔で私を見ている。
私は勇気を出して、訊いてみた。
「爽やかって、私のことでしょうか」
「そう、貴女のこと」
爽やか……いったいどこが。
そう思ったが、口には出さず、黙って本に目をやった。
「学生さん?」
「いえ、働いています。仕事に必要なので、帰りに学校で勉強しています」
「偉いわねぇ」
女性は頷きながら、感心している。
私は思った。
もしや、この人は、自分の息子さんの、嫁に来てくれないかしら。
そう云いたいのでは、ないだろか。
どうしよう。
なんて断ろう。
(次は月野〜月野〜。お忘れ物のございませんように)
良かった、私の降りる駅だ。
私は本をバックにしまうと、席を立った。
「あら、降りる駅なの?」
「はい。そうなんです」
「そう。残念だわぁ。また会えたら話しましょうね」
駅に着き、ドアが開いた。
「お先に失礼します」
私はお辞儀をすると、ホームに降りた。
涼しくない夜風だったけど、今の私には気持ちいい。
とにかくホッとした。
本当なら、会社を辞めて、結婚するのもいいかもしれない。
だけど私には好きな人がいる。
片思いだけど。
その人も、この服の私を見て、「その服装、沖に似合ってる。白いブラウスに、水色のジーンズ。なんていうか、爽やかな感じで、凄くいいよ」
そう云ってくれた。
「その人が、わたしの生きがいなんだ」
途中でコンビニに寄る。
外には、不安な表情をしたコーギーが繋がれていて、飼い主が出て来るのを、ドアを見つめて待っていた。
「誰かに連れて行かれたら、とか考えないのかな。実際、そういう事件がおきてるのに」
私はコーギーの傍で、飼い主が出て来るのを、一緒に待つことにした。
不安な表情を、放っておけなかった。
「心細いよね。私も同じだよ」
最初は、私を怪しんでたコーギーだったが、人懐っこい犬種なので、
嬉しそうな表情に変わってくれた。
飼い主は、中々出て来ない。
「大丈夫だよ」
コーギーに声をかける。
30分が経った頃、ようやく飼い主が出て来た。
かなり派手な風貌の女の子。
そして彼氏らしい男。
女の子は、私を見て眉間に皺を寄せ、「アンタなんで、ここにいんの」
と云った。
(あなたがこの子を、放ったらかしにしてたからだよ)
よっぽどそう云おうかと思ったが、
たぶん話しの通じないタイプだと思った私は、
「可愛いので」とだけ云った。
彼氏(らしき)男は、ニヤニヤしながら、「あぶねーやつじゃん」
そういうと、女の子とコーギーとで
その場を離れた。
酒とタバコ臭がひどく匂っていた。
「あぶねーのは、どっちよ!」
家に帰れば、夕飯があるのは判ってる。
けれどこの時の私が求めているのは、気が狂いそうな甘さだった。
店内に入り、スイーツのコーナーに直行した。
どれも美味しそうだが、求めているのとは違う。
考えた末に、私はシフォンケーキと、生クリーム、メイプルシロップを買うことに決めた。
それとバニラアイス。
レジを済ませて外に出る。
相変わらずの、ムッとした熱気が私にまとわりつく。
「ただいま」
私は靴を脱ぎ、短い廊下を歩くと、居間に入る白い扉を開けた。
「お帰り未菜。お腹空いたでしょう。今日は簡単に、そうめんにしたんだけど」
「じゅうぶんよ。暑いものね。着替えてる来る」
コンビニの袋をぶら下げて、私は自分の部屋に行った。
ドアを閉めると、その場に座り込んだ。
過呼吸が襲って来る。
一人になると、いつもそうだ。
(堤と連絡が取れません!)
(あいつは無断欠勤をするようなヤツじゃない。今日で2日だ。仕方がない。不動産屋に話して、鍵を開けてもらおう。大野、小山、俺と一緒に来い)
堤さんは、自分の部屋にいた。
ビリビリに裂かれたカーテンが、いかに苦しかったかを語ったいた。
作りかけの野菜炒め。
飲みかけの炭酸水。
健康で、どこも悪くなかったのに。
心臓発作だった。
(沖は、本当に簿記に弱いのな。
でも頑張れ。必ず出来るようになるから。俺も協力する。判らなかったら訊いていいから)
私は、いつになったら忘れられる?
忘れることなんか無理だ。
だって堤さんは、存在してた。
確かにいたんだ。
次に誰かを好きになれば、いいの?
そんなに簡単に、人を好きになれたら苦労はしない。
あのコーギーは可愛がってもらってるかな。
不安そうな顔を、してないといいな。
「そうめんが、延びちゃうわよ。
早く食べなさい」
「はーい、今行くから」
私は鏡を見た。そして
「よし!」
そう云うと、部屋を出てドアを閉めた。
了
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