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広島水辺探訪② 夜の広島城とデジタルアート そして広島クロニクル

広島水辺シリーズ

ジョグの後は広島城で開催されている『チームラボ 広島城 光の祭』へ。

■『チームラボ 広島城 光の祭』
光が映えるのは良いキャンバスがあればこそ

広島城は1589年に築城。広島藩主浅野長晟が入城して400年を迎えることを記念し、広島城を人々の存在により変化するインタラクティヴな光のアート空間に変える催し。中学高校で日本史を放棄したので、『浅野長晟』がどんな人か分からないので、良い機会だから調べてみた。後半に長々と記載します。

広島城という素晴らしいキャンバスのおかげで、彼らのデジタルアートの色付けも映えていたように感じる。


特に印象に残ったのが『水面に立ち続ける呼応する生命』。 広島に水道が引かれたことを記念して作られた「桜の池」で、リフレクションを用いた光と影のコントラストが良い味を出していました。


城内には、日清戦争の際に城内に設置された「大本営跡」もある。


■広島城クロニクル

広島城の歴史から、広島の街の歴史についても知ることが出来ると思うので少し調べてみる。ムラカミハルキさんが、オリンピックエッセイSydney!で、豪州の歴史を振り返り『豪州の英国に対するアダルトチルドレン論』を書かれていたけど、これをモチーフにする。「毛利」・「福島」・「浅野」→「日露戦争での大本営」→「8月6日以降」の5章で構成。

改めて見ると、アンコントロールな「外の力」の影響を受け続ける中でも、地理的なメリットを生かしつつ発展を続けてきた歴史が分かる。この「エネルギー」こそが、8月6日以降復興を成し遂げた背景にあるのかもしれない。

①神奈川がルーツの「毛利」時代
戦国武将として名を馳せた毛利元就が、デルタの干拓を推進。厳島の合戦で陶氏を打ち破ったのちに広島湾頭を確保し、中国地方の領有化を急速に進めていた。その孫である輝元が太田川デルタ周辺の山々から城地を見立て、築城を開始。1591年に入城するも、輝元は1600年関ヶ原の合戦において敗れた西軍の総大将であり、家康によって「周防・長門」(山口)へ転封となった。

※「毛利」姓のルーツは神奈川に。
毛利の名前のルーツ『相模国毛利荘』(現在の神奈川県厚木市)にある。
「毛利」の姓を初めて名乗ったのが毛利季光(すえみつ)。季光の父親は、公家の大江広元(おおえのひろもと)。源頼朝が鎌倉幕府を開府し武士が初めて政治を行うにあたり、朝廷の内情に精通し、法律などの知識が豊富な大江広元を京都から呼び寄せた。広元は政治の中枢を担う政所の初代別当を務めるなど幕府に大きく貢献し、資源豊かな要地である「相模国毛利庄」(現在の厚木市)を領地として与えられた。広元の四男に生まれた季光は、毛利庄に居住。父親の姓であった「大江」を「毛利」に改めた。
厚木市のHPより)

②秀忠にヘソを曲げられた「福島」時代
関ケ原合戦後、徳川家康は関ケ原合戦の功を称え、旧毛利領の安芸・備後両国(広島県)を福島正則に与えた。

正則は尾張出身の武将。豊臣秀吉と親戚の関係にあり幼少の頃から秀吉に仕えた。福島正則は、羽柴秀吉と柴田勝家の戦いである賤ケ岳合戦で、一番鑓・一番頸の活躍をし、正則をはじめ七名は「賤ケ岳の七本鑓やり」 として称賛される。特に正則の働きは他の面々より上とされ別格の扱いを受け、その後伊予国今治や尾張国清洲の城主となる。
秀吉の死後は石田三成と対立し、関ヶ原の合戦では、豊臣恩顧の大名でありながら東軍に属し先陣を勤めるなど、東軍勝利の功労者となり安芸・備後両国が与えられた。

福島氏は毛利氏と同様に広島城を居城とし領国支配の中心としたほか、広島市内や周辺地域の整備を進めた。同時に広島城の普請も行い、外郭部分の整備や、洪水に備え広島城外周部の川沿いの堤防を対岸より高くしたと伝えられるそう。
大洪水で破損をした広島城の改修普請や、櫓台石垣、本丸・二の丸・三の丸のほか惣構において普請が行ったが、幕府が制定した武家諸法度により、大名の居城の普請は幕府への事前の届出が必要となっていた。
無断普請を知った二代将軍徳川秀忠はこれに怒り、一旦は正則を身分を平民に落とし家禄・屋敷を没収しようとしたが、他の大名への影響を考慮し新たに修復した石垣・櫓やぐらの破却、子の忠勝の上洛等の条件付で罪を許すことに。

しかし正則は諸条件を十分に実行せず、怒った秀忠は城地引き渡しの軍勢を派遣。家臣は広島城や三原城等にいったん籠城するも、正則の指示を受け引き渡すことに。この時に家臣団が取った行動は賞賛され、後に大名改易時の国元家臣団のとるべき行為・作法として見なされた。
その後、信濃川中島 (長野県長野市)に転封され、正則は10月初めに信濃高井野(長野県上高井郡高山村高井)へ退去した。
https://ameblo.jp/senjp/entry-11989334732.html


③11代続く「浅野」時代
二代将軍徳川秀忠は、紀伊和歌山城主の浅野長晟を広島城主に配置することとした。これは、長晟と徳川家康の娘振姫との婚姻関係が重視されたものとされるが、福島氏と同様毛利氏に対する牽制も期待していたと考えられているそうだ。

浅野氏は尾張国出身の武将。父長政は、はじめ信長に後に秀吉に仕え、豊臣政権では五奉行を勤める。早くから徳川家とも親交があり、関ケ原合戦では東軍に属し、その功績によって長政と嫡子幸長(長晟の兄)には紀伊国 (和歌山県、及び三重県南部)が与えられた。幸長が後継無く死したため、備中足守の城主として別家を建てていた弟の長晟が、家督を継いだ。
長晟が広島城へ入城したのは、元和5年(1619) 8月8日のことと伝えられている。浅野の藩主は浅野長晟から11人続くことになる。
ようやく『チームラボ 広島城 光の祭』の開催きっかけに辿りついた

江戸時代の広島の人口は約4万8千人、武家・寺社の推定人口2万人を加えると、城下の総人口は7万人前後で、江戸・大坂・京都・名古屋・金沢に次ぐ大都市。また内海航路沿いの港町として賑わい、城下近郊では沿岸地域で綿が、太田川流域では麻・紙・竹細工・野菜が、広島湾では海苔・かきなどが生産され多くが上方へ積み出された。

④日清戦争
1871年の廃藩置県により、旧広島藩領は全域「廣島縣」となる。日清戦争が始まると、明治天皇と共に大本営(天皇の本営で戦争時の最高統帥機関)が広島城内に移り、広島で臨時帝国議会が召集された。広島が大本営に選ばれた理由には、宇品港が開港していたこと、鉄道が広島まで開通していたことで、軍事輸送が容易になったことがあったようだ。

⑤8月6日以降
昭和24年に公布された、日本初の特別法「広島平和記念都市建設法」により道路・橋梁・住宅などの整備が本格的に進み、東京五輪が開催された1964年には人口は50万人を超える。1994年にはアストラムラインが開通(建設中に、設置作業中の橋桁が落下し15人が死亡し8人が負傷した事故が発生)、首都以外での開催は初めてとなる広島アジア大会が開催された。また1994年までに、原爆で焼失した二の丸の表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓は、戦前の写真・図面や発掘調査の成果を元に、木造で江戸時代の姿に復元された。

豪雨・台風に伴う太田川の氾濫・洪水はじめ、水害が何度も起きている。原爆投下1ヶ月後に襲った枕崎台風では原爆で建造物がダメージを受けていたところに太田川の堤防決壊が加わり、数百人の死者・行方不明者を出す惨事に。近年でも、1999年・2014年・2018年と台風による大きな被害が発生している。

<参考文献>
広島城のHP
広島市HP
厚木市のHPより

また以前、高山村にもスキーで何度も訪れたことがあり、また厚木に住んだこともあるので色々と縁を感じる。時間をかけていろいろ調べて勉強になった。


"ヨコハマ良いよなあ"、"SUPやってみたいなあ"と感じていただけたら嬉しいです。いろいろありますが、みなさまにとっての毎日が「タフで優しい」時間でありますように。