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みんなが好きの「みんな」に私は含まれていない

世界中の人の「スキ」「キライ」が可視化される世の中になった。

見る映画を探すとき、読む本を探すとき、食べるものをさがすとき、着る服をさがすとき。私はついついスマホをあけて見てしまう。そうレビューを見てしまうのだ。

失敗するのが怖い。お金や時間を浪費したくない。どうせならみんなが良いといったモノ、コトを…。


4つ星以上のモノを選んでいると、確かに失敗だーと感じることは格段に減った。不快な思いをすることがないので、「お金を返せ!」と憤ることもなくなった。

でも、なんか寂しい。評価なんか気にせずCDをジャケ買いしていた頃のほうが、よっぽどワクワクしてお金を使っていたような気がする。



昨日、私はベトナムのホイアンという街へ旅行に来た。「ホイアン」に行こうと決めたのは、ネット上で「みんな」がイイと言っていたからだ。みんなの中に含まれる有名な旅ブロガーのあの人も、大手の旅行サイトも5つ星をつけ「行くべき」と言っていた。


ダナン空港からタクシーに乗り込み、ワクワクさせながらどんな体験ができるのだろうと胸をはずませる。Instagramで見た絶景を体験できるのだな。ありがたいことだ。


ひりひりと痛いくらいに強い日差しを浴びて、小さなホイアンの街を歩いた。世界遺産にもなった古い町並みはとても美しい。そこはまるで東洋と西洋が混ざる場所。日に焼けた黄色の壁も、連なる瓦の街のことも、私は大好きになった。

でも私にとって「ホイアン」はあまりにも観光地化されていた。ツアーのバスが小さな駐車場いっぱいに並び、旗をもったガイドさんに、一心不乱についていく集団の渦に何度も巻き込まれた。通りに並ぶお土産屋には、同じようなものが売られている。

夜になりランタンにあかりがつくと、待ってましたとばかりに写真を撮る人たちで道が溢れた。

とっても素敵な街だけど、何かが足りなかった。


宿に戻り、何が足りなかったのだろうと考えてみる。

旅行レビューのサイトでも4つ星以上ついている、そして有名な人が太鼓判を押した場所なのに。


なぜ好きだと思えなかったのだろう? じゃあ私が好きな旅ってどんな旅なのだろう?

これまで「良き旅だった」と思えた旅を振り返ってみると、事前情報がない無計画な旅だった。

私が旅で求めているものってきっと「事故みたいなトキメキ」だ。ビビビっと身体が震えるような「知らない何か」に出会うことだ。

あまりにも「観る」ために整えられた街では、事故のようなトキメキに出会うことが難しくなる。ガイドブックに掲載された町並みを、観光に来る人達のために忠実に守り続けているのだから。



私は観光本にも掲載されていない、見どころも特にない小さな町が好きだ。そして特に何もすることもなく、ぼーっと本を読んだり散歩をするだけで十分だ。そんなこと、家でもできるのだけど。でもただ違う空気を吸い、「自分は旅の中にいるのだ」という気持ちの中で漂う。だけどこんな地味な旅をしていると、意外に事故のようなトキメキに出くわす。

それは住む人のくしゃくしゃの笑顔だったり、年季のはいった店の佇まいだったり、道端にある小さな花だったり。

みんなは好きと言っていたけれど、私はそうではないこともある。当たり前だ。何を求めてどう感じるのか、それはひとりひとり違うのだから。



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ホイアンは美しい街だった。散歩をするのにもちょうどよかった。きっと団体観光客が多かったから、一人旅の私は寂しくなってしまったのだろう。

だから、オフシーズンにもう一度行ってみたい、と思う。街がハイシーズンの賑わいに疲れ、一息ついたとき。日常の雰囲気がフッと漂う頃に。



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