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#2. 「わたしには日本人の血が流れているの。」マレーシア人の友人が語った亡き曽祖父の話。

前回の続きです。

①では、103歳までマレーシアとタイの地で生き延び大往生をした旧日本軍の未帰還兵を曽祖父に持つ友達カレン(仮名)が話してくれたことについて、なるべく私情を入れずに書きました。

続きます。



大切な家族の秘密をわたしに話したカレンに理由を尋ねた。

「この話は、誰にも話そうと思ったことはないし、身内ですらその事実(日本の血が入っていること)を知らない人間もいるのよ。この店にはたくさん日本人が来るから、顔見知りはいるけれど、あなたのように心を許して話せる友達など今まで一人もいなかった。だから、あなたならわたしが伝えたいことを理解してくれると思ったの。」

「そして、わたしの小学生の息子に、曽祖父が(日本人の血が流れているということを)伝えた時のことを今もよく覚えてる。」

『一生懸命に努力して、立派な人間になりなさい。そして、いつか日本に自分の力で行ける力を今のうちからつけておきなさい。』

「それを聞いた息子は、今はもうすぐ中学生になる年齢だけれど、一生懸命に勉強を頑張ってる。いつか日本に行きたいと言って、日本のアニメや映画をいつも観ているのよ。優秀な軍人だった曽祖父の血が流れているから、自分にもきっと出来るはずだ、と信じているの。」

わたしはただ、カレンの話を聞きながらうなずくことしか出来なかった。

言葉を発すれば今にも涙が溢れそうだったので、必死に堪えていた。

その日から、カレンの店に立ち寄る度に、わたしが伝えられることは何か、を考え続けていた。

カレンから何かを頼まれたわけではないけれど、10年この地で暮らしてきたので、もしかしたらわたしが役に立てることがあるかもしれない、そんな風に思い始めていた。

その後、カレンの証言に沿って、中国の戦地からマレー半島に送られた師団について、マレーシアの博物館に勤務していた友人に尋ねたり、ネット上で調べていくうちに、衝撃の事実を知ることになった。

それは、1941年12月8日、太平洋戦争の事実上の開戦となったマレー上陸作戦に、福岡県の師団が関わっていたこと、しかもその第18師団の本拠地が、わたしの父の故郷久留米市にあったということだった。

(注:別記事にまとめたが、わたしの祖父は病弱だったので戦地には赴いておらず、その師団の馬の世話係として日本に残り戦争を生き延びた。想像の範囲内を出ないけれど、歴史を紐解くと、おそらく祖父の地元の兵士たちがマレー半島、そしてイギリス領だったシンガポールを陥落後にはビルマ(現ミャンマー)に派遣された。知人友人だった可能性もある。)

長文・乱文ですが、もしよろしければどうそ。海外の戦地に行かなかった祖父の人生①続きの②


その後、戦争史の研究をしている著名な大学教授の先生にメールで尋ねたりして、カレンの曽祖父が辿ったであろう足跡を探ろうとしたけれど、名前も出身地もわからず「戦地で左足切断という重傷を負った当時20代後半の少尉以上の将校」では、到底該当の人物に辿り着くのは、わたしの力では不可能だった。

それから数週間後のある日。

またカレンの店に立ち寄った時。

日本には戦争で犠牲になった英霊が祀られているとされる「靖国神社」や「護国神社」があることをカレンに話した。

「いつか息子が日本に行けることになったら、神社に立ち寄るように伝えるわ。そこに行けば、お曽祖父さんの仲間が待っているのね。」

とカレンは言った。

わたしは、カレンの発したその言葉がずっと頭から離れなかった。そして、わたしも叶うことなら、行ってみたい、と思った。

そして、チャンスはすぐに訪れた。

通常は、マレーシアのクアラルンプールから東京経由で西日本にある実家に帰るのだが、今回は夫と相談し東京に一泊することにした。偶然夫が東京に出張する用事が出来たからだった。

そして、迷わず到着したその日に靖国神社を参拝することにした。

わたしにとっては、人生二度目の靖国神社訪問だった。

何も知らずに、偶然の出会いが重なり、募って行った想いだけで、この日わたしは一人で靖国神社を訪れることになった。

2019年10月19日。

その日、とても不思議なことが起きた。

今日はそのことについて書こう。

お昼頃のフライトで東京に着き、ホテルに荷物を下ろして靖国に電車で向かったら、午後3時頃になった。

参道を歩いていくと、なぜか季節外れの縁日の屋台がずらりと並んでいる。

その日は、なんと、靖国神社の創立150周年大祭の日だったのだ。

奉納行事の趣旨にはこんなことが書かれてあった。

日本国民を守るために命を捧げられた「みたま」をお慰めし、英霊に感謝の気持ちを伝えるため。

さらに、驚いたのは

なんと、わたしの両親の故郷である福岡県から山笠が招かれ、1,000名を超える九州から招聘された男衆たちが、その夜靖国の参道を練り歩くことになっているという。

参拝を済ませたら夫と子供が待つホテルにすぐさま戻る約束だったけど

「それを見ずには帰れないでしょう!」

という心境に。


その日は、10月の秋空が気持ち良い爽やかな風が吹く、少し肌寒い日だった。

御朱印をいただいたり、境内の戦争関連の展示物を散策しながら拝見したりして夕方まで待つことにした。

たくさん歩いて身体があたたまったので、屋台で買った冷たいビールを飲みながら、参道脇の椅子に腰掛けて山笠の運行される時間まで待つことに。

偶然相席になった人や山笠関係者の方と思いがけず会話が弾み、なんとも言えない幸せな気分に浸った午後だった。

いよいよ日が暮れて、辺りがすっかり暗くなった18時過ぎに提灯大山笠に姿替えをするところまで見せていただき、その圧巻の光景に胸いっぱいになりながら、清々しい気持ちで靖国を後にした。


大きな大きな立派な鳥居をくぐるとき、自然と深々とお辞儀をした。

本当に不思議な一日だった。

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<その日の山笠の様子: 筆者撮影 2019年10月19日靖国神社にて>

カレンのお曽祖父様、そしてわたしのご先祖様が、わたしをここへ導いてくれた。

そう思わずにはいられない、出来事だった。

カレンと息子さんには、靖国神社で買った願いが叶うというお守りをお土産にした。

お守りをしげしげと見つめながら、大切に手のひらに握っている息子さんに

「いつか、東京に行くという願いが叶う日が来たら、これを返納しに行くといいよ。」

と伝えたら、ニコニコと笑いながら、嬉しそうにしていた。

その後半年もせず、コロナウィルスの蔓延で、海外への渡航が難しい時代が来てしまったけれど、いつの日か、彼が高祖父から託された夢を叶える日が来て欲しい、と願わずにはいられない。


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