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続、このテーマを知りたい。書きたい。抑えきれない衝動の正体について。

今日は、前回の続きです。

「何故わたしはマレーシアに10年も住んでいるのだろう。」

「何故わたしは、普段は誰にも話さないタブーともいえる家族の秘密を話す人に次から次へと出会うのだろう。」


周囲には理解されにくい行動の背景に、必ずこの二つの問いが関連している、と思うようになりました。

決して偶然などではなく、自分の意思とは関係のないところで、深い意味があり繫がっているのだ、と意識するようになったら、不思議なことが起こり始めました。

これまで、マレーシアで出会った日本人の友人を、この10年間に、何人も見送りました。日本に本帰国した人、他国へ引越した人、一度は去ってまたマレーシアに戻ってきた人もいます。

親しくなりお互いの話をしている時に、必ずと言っていいほど出てくる共通の話題がありました。

健全に機能出来てない家庭で育ち、苦しんだ過去のこと。わたしは割とオープンに自分が経験した家族間の不和や、それを乗り越えて家族を再生してきた話をするし、ブログにも綴って来たので、おそらく話しやすかったのでしょう。一通り話し終えて対話が進むと、それぞれに「許し」が起き、また次第に「癒し」を感じるというプロセスを、何度も目撃しました。

「許し」が起きるためには、理解すること、が最も大切なことだ、とわたしは思います。その人の立場に立つことなんて、経験もしていないのにきっと無理だけど、少なくとも想像することはできる。心を寄せることはできる。わたしたちは対話を通して、親たちが生きた時代を、想像し、理解することができるようになったのかもしれません。


私たちの世代の親(現在60代〜70代)が生まれた、戦時中や戦後の混乱の時代。

本来、平和な時代なら、子供が普通得られるであろう親からの十分な愛情表現や整った衣食住などが得られなかった世代。親たちは戦乱の時代を、ただ必死に生き延びて、その後、高度経済成長を支える人材として、社会で家庭の中で、がむしゃらに働いて来ました。

その世代が親となり、育てた子供達の世代が、今直面している日本国内の社会問題は、枚挙にいとまがありません。バブルの崩壊後の就職氷河期。高齢の親がひきこもりの子供を世話する8050問題。少子化の加速。子連れの親への社会からの行き過ぎたプレッシャーなど。

理由の一つは、愛情不足から来る欠乏感、ではないか、と思います。幼少期に愛情を得る機会が非常に乏しかった場合に、自尊心や、他者への共感や、他者の苦しみに対する理解などに欠けた人間になりやすいと言われています。こういう家庭を、機能不全家族、といいますが、今世の中に非常に多い印象です。

話をマレーシアに戻すと、長年住んでいる私は、愛に溢れた人々の交流を数多く目撃してきました。困っている人がいたら自然と手を差し伸べ、公共の場で目があうと自然と笑みがこぼれ、短い会話が始まる。

助け合うためには、まず自分が満たされていること。そして、他人を思いやる前に、自分を大切にできていること。それができていると、依存しあう関係ではなく、できることで助け合うという、個人が自立していて心地の良い循環が生まれる、とひしひしと感じます。

ここ数年の間に、心理学を学び、ライフコーチとして活動する中で、自分の自尊心を取り戻し、次第に若い頃から不仲だった親や自分自身(!)と和解し、穏やかな日常を取り戻した背景には、自分でした大きな決断が影響していました。

2011年に子供を出産した時に、決断したこと。

もうこの負の連鎖は繰り返さない。私の息子には絶対に受け継がない。

孫が生まれることで、親との交流も増えていき、全く理解しあうことができなかった10数年の歳月を埋めるように、母との対話も増して行きました。わたしが2013年頃、まだ小さな息子の世話をしながら、細々と書き始めたブログの一番の読者は父でした。自分が親になったせいで、赤ちゃんを抱えて右往左往しながら、当時若かった親が、自分と同じように完全ではなかったことが、痛いほど理解できるようになりました。父も母も不器用だっただけで、愛情表現の仕方を知らなかっただけで、必死に大切にわたしと弟を育ててくれた。

それが分かってからは、その二人が育った生い立ちにも次第に興味が出てきました。

父と母の親である、大正時生まれの戦争を生き延びた両家の祖父母。もう四人とも亡くなってしまい、直接話を聞くことは叶わないけれど、生前を知る人から、会ったことがない祖父母の人生について話を聞きたい、という感情が芽生えたのも、この数年のことです。夫の祖父母についても、アメリカに帰る度に、話を聞くようになりました。

そう思い始めた頃と、長年付き合って来た友達から、旧日本軍統治時代のマラヤで身内に起きた話を聞かされ、自分なりに歴史のリサーチを始めた時期が、不思議と重なったのです。話してくれた友達にとっても、誰にも話すことのない大切な家族の物語でした。


日本、アメリカ、マレーシアの、それぞれの家族の物語を聞く機会が、次第に増えて行きました。


そして、調べていくうちに、信じがたい歴史的事実を知ることになりました。


第二次世界大戦中、イギリス領だったマラヤに、旧日本軍が侵攻したマレー作戦。父の故郷福岡県の師団が関わっていた、のです。

伯父(父の兄)によると、祖父は出征せず国内に残り師団の馬の世話をしていた、ということですが、祖父の地元の多くの兵士たちがマラヤで戦ったことは間違いありません。その師団は、マラヤとシンガポールを陥落後、ビルマ戦線(現ミャンマー)へと向かいます。若い兵士の多くがその地で倒れ、祖国の地を踏むことは二度と無かったそうです。(この歴史的事実については、今後詳しく書いて行きます。)

祖父がもし健康であったなら、戦争に駆り出され、そもそも、わたしはここにいなかったかもしれない。運良く生き残り、子孫を残しこの世を去った祖父は、もし今生きていたなら、何を思うのだろう。マレーシアに住む孫娘に何を託すのだろう。

わたしが10年もマレーシアに住んでいる理由。

タブーとも言える家族の秘密を話す人が後を絶たない理由。

こうして紐解いて行きました。決して偶然などではなく、自分の意思とは関係のないところで、深い意味があり繫がっている。家族の物語を紡ぐ、自分に託された使命について、考えに考えて来ました。

葛藤してる場合ではなく、手遅れになる前に行動を起こさなければ。

最近ようやくこのような境地に至りました。そして、抑えきれない衝動は、こうして形になりました。

このnoteマガジン「Before Too Late. かつて旧日本軍が統治したマレー半島で紡ぐ赦しの糸」です。

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