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「英雄たちの選択」 家康 絶体絶命!金ヶ崎の退き口 の真実──カット部分&言い残し

先日、2月15日にNHK BSプレミアム「英雄たちの選択 家康 絶体絶命!『金ヶ崎の退き口』の真実」が放送され、筆者はスタジオゲストとして出演した。

【番組内容の説明】
「金ヶ崎の退き口」とは、1570年、織田信長が朝倉攻めを行なった際、浅井長政の裏切りにより、突然、窮地に陥り逃亡した撤退戦のこと。徳川家康は29歳で信長に従っていた。大将の信長が逃げたため、徳川軍は前線に取り残され、危険な撤退戦を行なうこととなる。織田軍の中では、豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)が最後尾におり、絶体絶命の状況に──。

番組は、金ヶ崎や国吉城など現地の調査が充実しており、様々な史料も明らかにされ、興味深い内容であったと思う。
ただ、そうした面が充実していたこともあり、スタジオでのトークの時間は限られ、なかなか話の全体像が伝わらなかった気がする。
そこで、発言したもののカットされてしまった部分、あるいは、考えていたけれども言い残した部分など、この番組のテーマに関わる筆者の論を、以下に記して共有したいと思う。
共有に当たっては、分かりやすくするため、いろいろと補足説明などを入れ、視聴者以外の方にも読んでいただけるよう工夫しながら、文章化するよう努めた。

*なお、同番組は明後日、2月22日(水)朝8:00〜NHK BSプレミアムで再放送される。見逃した方で、興味のある方はご覧いただければと思う。

それでは、以下、筆者の意見や論を述べていく。

〇信長と家康の関係について───

家康は、桶狭間の戦いで惨敗した経験もあって、信長を恐れていた。
今回(金ヶ崎の戦い)も前線に取り残され、ひどい目に遭っている。このため、決して良いイメージばかりはもっていなかっただろう。
しかし、「天下静謐(せいひつ)」など大きな志については考えが一致していた。都や畿内を平穏にする。信長はそのために、全国の大名達に上洛して都を守るよう命令していた。
この大きな目標があったため、苦労はしても、長く織田家との同盟を守り、信長についていったのではないか。

加えて、物事には「順」と「逆」ということがある。剣術の構えにも「順」と「逆」がある。
家康は、この二つの型に分けると「順」の性質をもつ人間であった。できるだけ、上の人や強い相手には逆らわない。時代の流れにも逆らわない。

剣術では、構えや体さばきなどにより、「順」と「逆」を変化させて戦う。その動きの中で、身体がねじれてしまう場合がある。小手先で剣を遣おうとしたり、無理に不自然な動きをしたりすると、身体が歪むのだ。これを「邪(よこしま)」という。「邪念」「邪悪」などの「邪」である。
剣術では、この「よこしま」になるのは良くないとされている。身は「直(すぐ)」にすべし。つまり、変にねじったりせず、すんなりさせておくということだ。

信長は、今回の戦いでも浅井長政に裏切られ激怒しているが、非常に「裏切り」を嫌う武将である。つまり、「逆」を憎んでいる。それでいて、「反逆」や「乱」、「変」などの「逆縁」につきまとわれた人生であった。
そのような中で、家康が安定感のある「順」の人物であったことが、とても貴重で、信長にとっても、すんなりとフィットする感覚があったのではないか。

信長は、ある意味、冷徹な将であり、善良な人間とは言い難い。しかし、家康は信長の恐ろしさを「邪(よこしま)」とか「邪悪」とは感じていなかったのではないか。意味もなく人を攻撃したり、意味もなく合戦を始めたり……そういう将とは違う。シンプルに、怒ったら怖い。それだけだ。
家康は「逆」より「順」の生き方を選ぶことが多く、「邪」を嫌った。「よこしま」な兵法は小手先の芸であり、武家の指針とはならない、ということを理解していたのだろう。

〇敵の朝倉義景について───

金ヶ崎の戦いでは、家康は都から将軍、足利義昭や信長の命令でやってきた。つまり公の軍であった。
対する朝倉義景は、大名ではあったものの、公の武士という意識が薄かったのではないか。
もともと、朝倉氏は足利義昭を助け、越前に迎え入れていた。しかし、義昭が上洛したいといっても、その要請には応えなかった。このため、義昭は信長を頼ることとなり、織田軍の力で上洛を果たす。
その後、将軍となった義昭と、格を上げた信長は、朝倉義景に対し幕府に従うよう命じ、都へ上るよう求めた。が、義景は命令に背く動きを見せる。
信長を快く思っていなかった、という可能性はあるが、通常、室町幕府に仕える大名は、将軍の命令に従うものである。それを義景は私的な感情、あるいは事情で断った。

おそらく、義景は、足利義昭を主君とはとらえていなかった。将軍候補の頃に助けた際も、武士らしい忠義心があったとは思い難い。
朝倉家には経済力がある。そのため、義昭をある意味「スポンサー」のような形、気持ちでサポートしたのではないか。義景は文化人などを好み、都からよく人を招いていた。これは朝倉家の家名を高めるための投資ともいえる。
こうしたスポンサー的な感覚があったため、自国に義昭が来ることは歓迎したが、命がけで上洛の供をすることはなかったのだろう。

一方、家康は武士という意識が非常に強いため、朝倉攻めに際して、重い責任を負う覚悟があったと考えられる。この意識の違いが、撤退戦にも表れた。
朝倉義景のような「ビジネス武士」は、この時代には多くいた。しかし、徳川は家風が違っており、これが大きな強み、特長といえた。

〇徳川家と忍び

何事も、始める前の「下準備」が大切である。戦さにおいても、攻める前の段階で、すでに勝敗は分かれ始めている。
敵国の地形や城の様子などを調べておくのはもちろんだが、朝倉家の内情や雰囲気、家臣達の心までも、できれば探っておきたい。
徳川は優秀な忍びを抱えていた。伊賀の忍びは伝統的に、芸能に長けており、能役者などが多くいた。朝倉氏は文化的な家柄のため、徳川としては、こうした忍びを送り込むことができる。
合戦前に、にわかに潜入させなくとも、もともと伊賀出身の能役者の一人や二人くらいはいた、と考えられる。中には徳川の忍びの縁者もいただろう。そういう芸能者に、少し話を聴いてみる、というだけでも、かなり御家の内情が分かったのではないか。

例えば、実際、朝倉家の人々が都との関係をどうしたかったのか。おそらく、意見は割れていたはずである。朝倉義景に賛同する者もいただろうが、足利将軍に従うべき、という人も当然いたはずだ。
朝倉家に身を寄せる文化人の中には、いつか京都に帰りたいと願っていた人もいるだろう。そういう人々からすると、畿内を平定し、荒れた都を再建しようとする信長こそが、頼りになる武士に見えたかもしれない。

こうしたことを調べるうちに、朝倉軍の弱点が見つかったり、士気が高いか低いか、といったことが分かったりする。
この「下準備」は、攻め込む時にも役立つが、撤退の時にも役立つ。朝倉軍の追い撃ちの勢いなどにも関わってくるからだ。

〇家康の価値基準と「身の規矩(かね)」

人は何かを判断する際、それに関する情報を集めたり、誰かに相談したりして、できるだけ正しい判断を下そうとする。
しかし、咄嗟のとき、すぐに判断し、それを実行に移すには、何らかの揺るぎない価値基準が必要である。しかも、その基準が我が身にしみついていなければ、身体が動かない。
今回の「金ヶ崎の退き口」のような場合は、突然、総大将の信長が現場から消えるというアクシデントがあり、非常に難しい。単に主君の命令に忠実なだけの人間は、判断力を失いがちである。また、日頃、法を守って正しい行動を心がけているような人も、こういう時にとるべき行動が、法度で細かく定められているわけではないため、迷いやすい。
やはり、我が身に何らかの判断基準がなければならない。

家康は、この基準がかなり明確で、間違ったり、ずれたりすることが少なかったと考えられる。武術でいえば、「身の規矩」が具わっていた、という言い方ができる。
「身の規矩」とは体内にある「ものさし」のこと。この規矩があれば、鏡を見たり、誰かに指摘されたりしなくても、自分が今、どう動いているのか、どこに重心があるのか、といったことが自ら把握できる。
家康は、何かを判断する際の「ものさし」が明確であったため、急に浅井氏が裏切り、総大将の信長が逃げていなくなっても、武士らしい適切な行動がとれたのではないか。
徳川家には、大事な価値基準が三つある。それは「武辺」「慈悲」「忠義」である。

〇【家康の選択】撤退戦の最中、徳川軍は、敵に囲まれた秀吉の軍と出会う。その時、家康はどのような選択をしたか。
1、(安全な)国吉城へ急ぐ     
2、(秀吉を)救援に行く
筆者は、2の「救援に行く」を選択したが、その理由について───

これには上記の三つの価値基準が関係している。
まずは「武辺」───これは武士として力や知恵、技などを有し、それを勇敢に発揮するということ。
侍は日々、武芸の修行に励んでいる。弓を射たり、馬に乗ったり、刀や槍を振るなど……。家康自身も武芸の稽古は怠らなかった。
それは一体、何のためなのか。弱い者を賊などの悪者から守ったり、困っている人を助けたりするためだ。そして、味方を助けるためである。
秀吉はこの時、家康の味方であり、危うい状況で、明らかに困っていた。これを見捨てるのは武士の道に背く行ないである。

次に「慈悲」───この基準からしても当然、秀吉を助けるということになる。秀吉は庶民から武士になり、織田家に懸命に奉公している。
一方、敵の朝倉義景は、武家のトップの大名でありながら、上洛要請にも応じず、役目を怠って戦さの火種となった。この状況で秀吉が討ち取られれば、ただ可哀想というのみならず、朝倉軍の利となり、義景を勢いづかせることにもなる。このため、できる限り助ける必要があった。

「忠義」については───主君に忠実である、ということの他に、私利私欲を捨てる、という意味もある。我が身のことだけを考えれば、秀吉を見捨てて逃げるのが得策だろう。が、連合軍全体のため、世の秩序を保つため、と考えれば、助けるということだ。
徳川はこの意識、つまり、公の武士としての自覚を強くもっていた。そのため、命の危険が迫ったり、思わぬ出来事が起きても、迷うことが少なく、勇気を失うこともなかった。

ただし、味方への情けや、武士としての気持ちのみで、必ず勝利できるとは限らない。家康も、自軍の損害が大き過ぎる場合や、共倒れになりそうな場合などは、秀吉を放置して先を急いだかもしれない。
ここでも上記の「身の規矩」が重要になる。自軍の余裕のあり、なしを判断したり、戦況を正確にとらえたりするのも、やはり大将である己自身の「ものさし」だ。

撤退戦というと、パニック状態のようなものを想像しがちだが、皆が皆、そうなるとは限らない。
意外にこの時の徳川軍は、心の余裕があったのかもしれない。
徳川には弓や鉄砲の名手がおり、槍の半蔵(渡辺守綱)が槍をふるって数十人の敵を倒した、といった話も、番組で伝えられた。馬術も皆、達者である。これは家康自身にもいえることだった。
もし、そうした武辺者達が、馬に乗ったまま弓を射たとすれば、敵の足を止めさせて、何人か仕留め、自分達はそのまま素早く馬を飛ばして逃げる、といった戦法もとれる。
これは追い撃ちをかける側からすれば難敵だ。一揆勢などは、武器も少なく、武技でも劣るため、徳川軍に圧倒され、なかなか近づけなかった可能性もある。

番組内では、家康が「自ら鉄砲を放って秀吉を助けた」という史料が紹介されていた。
これは、かなり無謀な行為のように思える。
しかし、これも状況によっては理に適っている場合もある。

この時、秀吉は朝倉軍に「囲まれていた」という。
囲んでいたということは、朝倉軍は皆、秀吉軍のほうを向いていたということだ。
この状況の秀吉を、徳川軍は外側から発見したのだろう。
つまり、家康は朝倉軍の「背中」を見たということだ。徳川軍は、大きい意味では撤退戦を戦っていたが、実は、この瞬間においては「敵の背後」をとっていた。そう考えることができる。
しかも、朝倉軍は止まった状態である。ここで徳川軍が、朝倉方の一部を攻撃すれば「挟み撃ち」すら可能だ。敵は、囲みの内側の秀吉と、外の家康に挟まれた形になるからだ。

この形勢ならば、「家康は自ら鉄砲を放ち」秀吉を救出した、というのも納得できる。
家康は朝倉軍の背後から鉄砲を放った。すると、敵兵はその音に驚く。振り返ると、徳川の軍勢が……。これはかなり恐ろしい状況だ。
そのすきに朝倉軍の囲みをこじ開け、秀吉を脱出させる。これならば、うまい戦い方だ。
後ろから迫ってくる朝倉軍へ自ら鉄砲を放った、というイメージであれば非常に危険だが、実際にはそうではなかったのかもしれない。

〇「金ヶ崎城」と「国吉城」

撤退時、徳川軍は金ヶ崎城には入らず、少し距離のある国吉城を目指した。これには(番組内の現地調査でも伝えられていた通り)地形的なことなど様々な理由があったと考えられる。

ただ、この二つの城の名前を比べると、興味深いことがある。
家康は、言葉にこだわる将だった。地名などが縁起の悪い響きであったりすると、嫌がって変えたりする。
この撤退戦で「かねがさき」城に頼らず、「くによし」城をめざそう!という時、家康は家臣や兵達にこう言ったかもしれない。
「カネが先」のような名の城より、「くによし」のほうがよい。我らは、金などは優先させず、国をよくするために戦っているのだ!
これで、何の利も得もない撤退戦でも、皆で頑張ろうという方向へ、気持ちをもっていったかもしれない。

現代人は、武士は将軍や大名から金で雇われていると思いがちだ。しかし、そうとは限らない。中でも徳川家は特殊で、松平家の時代、家康は8歳という幼さで当主となり、家臣達に何か金や褒美を与えることはなかった。
逆に家臣達が貧乏な中から、松平家を建て直すための軍資金を貯めていた。つまり、主家に金を入れていたのだ。そして、子どもであった家康の世話をし、育てた。
武士は領地をもらったり、安堵されたり、名や身分を与えられたりすると、その恩を長く忘れない。このため、褒美が期待できないときでも、命をかけて戦うことがあった。

〇その後の家康と徳川家

家康とその家臣達は、番組内でもあったように、敵に対して見事な戦いぶりを示し、秀吉も無事に助けて撤退を完了した。
徳川軍は、この戦いで「武辺」について自信を深めたと考えられる。家臣達はますます武芸を磨き、強くなるという好循環に入っていったのではないか。
徳川は官軍、つまり「公の武士」として立派にやっていける。不測の事態にも対応できる、と、自分たちの判断力や即応力に自信をつけたことだろう。

家康は、複雑な状況の中で「何が肝心か」を見極める能力が高かった。
これは柳生新陰流の兵法でいえば、「神妙剣(しんみょうけん)」というものだ。
新陰流の剣術では、中心となるところや肝心なところを「神妙剣」と呼ぶ。
いろいろな技を使って、複雑な攻撃をしかけてくる敵に対しても、この「神妙剣」をとらえて、適切な剣さばき、体さばきができるかどうか。これが非常に重要となる。

例えば、切っ先で敵をとらえるにしても、相手の喉(のど)に切っ先を向けるのか、鳩尾(みぞおち)の辺りなのか。こうした箇所はまだ、身の中心であることが比較的分かりやすいが、敵の体勢や構えによっては、手や足などをとらえたほうが有効な場合もある。今の瞬間、どこが大事か、肝心か、ということである。

戦さでは、更に多くのことが起きる。その中でも、何が肝心かを見極めねばならない。家康はこの洞察に長けていたと考えられる。
今回の戦さでいえば、「ここで秀吉を助けることが重要である」「信長の『天下静謐』の志を頓挫させてはならない」「徳川の武辺を世に示し、畿内の人々や自国の領民を安心させなければならない」など、大事なポイントがいくつかあった。
もちろん、家康にも失敗はある。が、常に「勘所を外さないように」と、心がけることが大切であり、長年、そう努めることによって、自分の「ものさし」が研ぎ澄まされていく。

政を行なう公儀の侍というものは、世の中に溢れる揉め事を処理し、裁きを下さなければならない。つまり、正義とは何かを知っている必要がある。かつ、様々な利害関係を見極め、世の中全体のバランスをとる能力も求められる。
こうした感覚を、家康はここから三十年かけて、磨いていったのだろう。
もし誰かが天下を取っても、何かの時に私利私欲を優先させるような武将であれば、結局、皆の支持は得られず、長続きはしない。本当の安定した「公儀」にはなれない。

戦国時代には、強い武将や頭の良い大名などはたくさんいた。
しかし、「何が肝心か」を分かっていない将が、意外と多かったのではないか。だからこそ、乱世が続いたのだと考えられる。
そこで戦うのか? そこで引くのか? ……と、的を外すような決断をする。

現代でも、いろいろと動き回り、お金や人を使ったりもするが、「結局、何がしたいか分からない」という人がいる。
何がしたいか分からないならば、方針のしっかりとした人物に黙って従えばよいのだが、プライドは妙に高く、我が強いので、それはできない。
もっている知恵や技をこねくり回して、良いことをしているかのような感じを出したり、勤勉な風に見せてはいるが、本当に、実質的に人の助けになっているのかは疑問……というような人がいる。
家康は、そういう人達(=大名達)を何とかして統制し、世の中を安定させたかったのだろう。

信長も、勘所を外すような者は大嫌いで、しばしば怒りを爆発させていた。朝倉義景も、出るべき時に出ず、従うべき時に逆らい、奇妙な動きで世を乱し、信長を激怒させた。
しかし、そんな信長も、家康の判断にはかなり満足していたのではないかと思われる。

秀吉は、勝負の勘所をつかむことに関しては天才であった。しかし、家康とは違い、利益を追い求める「ビジネス武士」の気質があった。私欲が強く、「よこしま」な面もあった。
天下人となっても、真に「公に尽くす」という覚悟があったかは不明だ。
このあたりの軸、価値基準は、かなりブレることが多く、豊臣政権はしばしば揺れ動いていた。
そして、晩年の秀吉は家康に頼ることが多くなる。「徳川殿は温和で律儀」と評し、すっかり信頼してしまった。豊臣家の中枢へ入れ、政務を任せることとなる。幼い息子の秀頼を残して世を去るときにも、家康に「秀頼を頼む」と言った。
これは、徳川が約三十年前から、味方を見捨てず、忠義を尽くすという姿勢を見せ続けてきた結果であろう。
そして、ついに江戸幕府が開かれ、「徳川公儀」が誕生することとなった。

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