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第3章レイクプラシット五輪


1932年は、米国のレイクプラシットで氷上オリンピックが開催され、日本からはじめてフィギュアスケート選手の老松一吉と帯谷龍一が送り込まれた。2人ともそれぞれ前年度の全日本1位、2位である。

大阪本社4階の会館でも、グルノーブル五輪のビデオ試写会を催し、帰国した選手たちによる凱旋公演も行われた。

競技初日の2月8日は、6種類の課題をこなすスクール(規定)が行われ、8か国12選手がこれに挑んだ。

 優勝候補はスウェーデン代表、ギリス・グレイフストレームとオーストリア代表、カール・シェーファーの2人。グレイフストレームは左膝の関節を痛めたばかりで、精彩にかけ、2位につけた。規定の1位はシェーファー、老松は10位、帯谷は11位だった。

 翌9日が自由演技で、得点の比率は規定のほうが6分4分で高かった。

ここでもシェーファーが圧倒的な安定感で、オリンピック初優勝を飾ったのである。

グレイフストレームは2位で、老松は9位、帯谷は最下位に沈んでしまった。

 日本人はまだ男子だけの参加だったが、女子フィギュアスケートは7か国15選手がエントリーしていた。

 いちばん人気はノルウェー代表の19歳、ソニア・ヘニーだった。

11歳でシャモレー五輪に初出場したときは最下位の8位。

2度めに出場したサンモリッツ五輪では、規定もフリーも圧倒的な強さで1位。15歳10ヶ月で完全優勝を飾り、この最年少優勝記録は1998年の長野五輪でタラ・リピンスキーまで破られなかった。

 このレイクプラシット五輪では、ヘニーも15歳。やや大人びて体型も女性らしく変貌しつつあったが、愛らしい笑顔は健在だった。

テニス選手ですら、足首がやっと見えるぐらいの長さのロングスカートを履いている時代、ヘニーだけが膝上のミニスカートをはいて、溌剌とした動きでチャイコフスキーの「白鳥の湖」を滑った。バレエのような動きの足さばきを披露し、満員の観衆をとりこにした。

 スピンをまわると、短いスカートがふわふわと浮き上がり、ブルマー、太もも、膝、足首まで惜しげもなく人目にさらされた。

ワルツステップやアクセルジャンプのように、前に足を蹴りだすときスカートの裾が長いと、布がまとわりついて邪魔になる。

 胸をぐっとあけて、体の線がはっきりとわかるコスチュームを着るのは、鍛え上げた身体の線と姿勢の美しさを審判にアピールするためだ。色気をふりまくのが本来の目的ではない。

 少し前かがみで、ひじが曲がってしまうのがヘニーの癖だ。が、その分スピードはあったし、アクセルについで難しいとされるルッツジャンプも高くふわっと真上に飛ぶ。体重を感じさせない天上の美が神々しかった。ただし、すべてジャンプは1回転だ。

 圧倒的な強さで、ヘニーが2連覇した。

2位はオーストリア代表のフリーツィ・ブルガーが二大会連続2位。彼女は4年後、日本人と結婚する。

3位にはアメリカ代表のマリベル・ビンソンが食い込んだ。

 光次郎は谷崎潤一郎の小説が好きで、大阪朝日新聞を購読していたから、ソニア・ヘニーの名前と写真だけは知った。まさか4年後、そのソニアと悦子がオリンピックという舞台で競いあうことになるとは・・・・。この頃はまったく自覚していなかった。

 このビデオ上映会には、歌人の山口誓子もたまたま参加していて、フィギュアスケートとうものをはじめて知った。東京帝国大学法学部を卒業した後、住友合弁会社に入社し、ここから近い中洲のビルで勤務していた。

 退社後はほぼ毎日、11階のABCリンクに出向くようになり、すっかりスケート場の常連となってしまった。

 5歳のとき母が自殺した誓子は、樺太の大泊(コルサコフ)で「樺太日日新聞」を発刊した祖父に育てられた。誓子も大学まではそこで育ったのだ。

結核を患ったこともあったから、フィギュアスケートのように他と競いあわなくていいスポーツは、誓子にとって有難かった。

「氷港」という作品集にはスケートを詠んだ歌がいくつか載っている。

 スケート場四方に大阪市を望む    山口誓子

 偶然この山口誓子と大学で同窓だったのが、大阪朝日新聞社の尾崎秀実記者だった。

 ちょうど上海支社から帰国したばかりで、外信部に配属されたばかり。

海外から配信されるニュースを翻訳したり、時差があるので交代で夜勤をしたり、社にいる時間が長くなったせいか、ときどき屋上にあがってきて、スケートを見学して記事にしたり、誓子と雑談したりしていた。

 しかし、尾崎秀実といえば・・・。

「そうなんですよ。お気の毒なことに、尾崎さんは、“ゾルゲ尾崎事件”で、死刑になってしまったの。目が細くて、いつもニコニコされて、象みたいなやさしい顔だちの方でね。まさかロシアのスパイだなんて、誰も知らなかったと思うのよ。とてもフレンドリーで親切な新聞記者だったから、お友だちもとても多くて。でも、報道規制もあったし、私が子供だったせいか、周囲の大人は逮捕とか、死刑とか、ずっと内緒にしていてね。大人になってから、はじめて知って、ものすごく驚いたんですよ。とても美食家の方だったから、永井先生とおいしいものを食べてにいったりね。ドイツ語や英語や中国語ができたから、ベーブ・ルースやフリーツィ・ブルガーが来日されたときは、通訳もされていたし。」(稲田悦子談)

日本は日米同盟に従い、第一次世界大戦に参戦したものの、ヨーロッパ諸国と違って幸運にも、国土は戦火に見舞われなかった。すでに世界有数の工業国として降盛を誇っていたから、軍需品の注文は殺到し、綿や絹やメリヤスの貿易もかつて例を見ないほど活性化した。

そうした大正の戦争景気で工業や生産力は増大し、一代で莫大な富を築きあげた人物も少なくはなかった。

 足元が暗くて靴が見えません、という女給にたいし、お札を燃やして足もとを照らす風刺画がのったりもした。

 一例をあげておこう。バイオリニストの貴志康一は、メリヤス業で成功した商家の息子だつた。大阪吹田市で生まれ、芦屋で育つ。高校を中退してヨーロッパに留学していた1929年、1710年製のストラディヴァリスをドイツのヘルマン商会で購入してシベリア鉄道経由で帰国したことが各新聞で記事になった。

 価格は6万円で、5千円の保険をつけたので、合計6万5千円。千円もあれば一戸建てが建ったのだから、現在の数億円に匹敵するはずだ。

 文化の仕掛け人は主に、新聞社とホテルとデパート。この3つの業界が競争のように講演や試合を企画し、出資していた。大手の広告代理店やエージェントやプロダクションが仲介しなくても、スポンサーシップの原型ができあがりつつあった。

すでに明治の終わりに、三越デパートが少年音楽隊、白木屋が少女音楽隊といった具合に、ミニオーケストラのような楽団が誕生している。

「意外かもしれませんが、音楽会もほとんど毎週、どこかで開催されていて、とても人が集まったんですよ。デパートやホテルがどんどん新しく建っていて、今でいうカルチャー講座みたいなものかしら。イベントや講演も競争のように開催されて、無料コンサートもあれば、海外から有名な音楽家を呼ぶ有料なものもありました。アイスショーも試合以外だと、オーケストラの演奏付のほうが多かったような気がします。蓄音機はもう出回っていたけれど、今みたいに音がよくなかったから、生の音楽はとても人気がありました。

 近衛秀麿さんのオーケストラとか、山田耕筰さん、貴志さんのバイオリンは有名で、何度かご一緒させていただきました」

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