梅田香子 Yoko Umeda

日本の小説家、スポーツライター。東京都国分寺市出身。1986年、女性プロ野球選手を描い…

梅田香子 Yoko Umeda

日本の小説家、スポーツライター。東京都国分寺市出身。1986年、女性プロ野球選手を描いた『勝利投手』で第23回文藝賞佳作。同作は12万部を超えるベストセラーとなり、1987年には東映がアニメ化して劇場公開された。(wikiより)

最近の記事

1935年、芝浦スケートリンク

 いよいよ1935年11月25日から、第6回全日本フィギュアスケート選手権がはじまった。これで翌年、ドイツのガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪に出場する代表選手が決定する。  ず11月25日に山王リンクでジュニアの男子と女子のスクール競技(規定)。  翌26日には新宿の伊勢丹スケート場にて男子の選手権クラスと男子と女子がスクール競技。  27日に芝浦リンクで全選手の自由演技という予定が組まれた。  というのも、山王リンクは20メートル四方ほどの広さしかなかったの

    • 第5章 喜劇王チャプリン来日

      「えっちゃん、チャプリンが来るんやて。港まで見に行かん?」  ある日、小学校で同級生たちに言われた。 「すごい!本物?あかんねん。うちスケートの練習があるんやもん」  喜劇王、チャーリー・チャプリンの映画は、日本の配給会社は名前を憶えてもらえないかもと思い、最初は「変凹(ヘンペコ)くん」とか「よいどれくん」という名前で公開されていた。が、すぐにチャプリンの名前で親しまれるようになった、  「モダンタイムス」や「スケート」を見ると、北欧では社交ダンスと同じようにローラー

      • 第4章 大阪歌舞伎座ビル

        「朝からスケートをやる。戸外で食事をして愉快になり、滑りそこねて、水中に落ちた」と書いたのは、ドイツの詩人、28歳のゲーテだった。  日本では明治になってすぐゲーテの名が紹介された。たちまち「若きウェルテルの悩み」がブームになり、島崎藤村、尾崎紅葉、堀辰雄らに大きな影響を与えた。  悦子の毎日は文学ではなく、スケート一色だ。 ABCリンクに少し遅れて、大阪難波新地に7階建て、地下2階の歌舞伎座劇場ビルが完成した。正面はこれまで見たことがないほど巨大な丸窓、玄関ホールには

        有料
        100
        • 第3章レイクプラシット五輪

          1932年は、米国のレイクプラシットで氷上オリンピックが開催され、日本からはじめてフィギュアスケート選手の老松一吉と帯谷龍一が送り込まれた。2人ともそれぞれ前年度の全日本1位、2位である。 大阪本社4階の会館でも、グルノーブル五輪のビデオ試写会を催し、帰国した選手たちによる凱旋公演も行われた。 競技初日の2月8日は、6種類の課題をこなすスクール(規定)が行われ、8か国12選手がこれに挑んだ。  優勝候補はスウェーデン代表、ギリス・グレイフストレームとオーストリア代表、カ

        1935年、芝浦スケートリンク

          第2章 1932年 大坂朝日新聞社ビル

           悦子がフィギュアスケートと出会ったのは、小学校2年生のとき。きっかけは大阪朝日新聞が建設した自社ビルだった。  もともと大阪ではライバル、大阪朝日新聞が信じられないほどスポーツに力を注いでいた。日露戦争の頃からすでに大阪湾を利用して、長距離水泳大会や市内のマラソン大会を企画。これが大当たりして、新聞の発行部数を伸ばした。プロ野球の東京巨人軍ができるより10年も早く、「大毎野球団」というセミプロを作って朝鮮や満州まで派遣して、試合を興行している。  もちろん大阪朝日も指を

          第2章 1932年 大坂朝日新聞社ビル

          第一章 1924年 大阪

           稲田悦子は関東大震災の翌年、1924年2月8日に大阪で誕生した。  3人姉妹の末娘。大正13年、十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)で、60年に一度の縁起がいい年でもある。(ちなみに僕の曾祖父の阿部信行は、このとき48才。ドイツとオーストリアで武官生活を終え、少将に昇進したばかり。関東大震災では関東戒厳参謀長に任じたそうだ。)    母方の家業は貴金属商で、母のハツが養子をとった。父の光次郎は進歩的で、新しい文化やスポーツはすぐに試してみたいほ

          第一章 1924年 大阪

          プロローグ

          僕は来月から苗字が変えることにした。「石川健三」が「阿部健三」になる。 世間ではどう受け取られるのだろうか。 「あなたが決めたのなら、おかあさまは反対しませんよ。でも、どうしてまた急に?」 「社会人一年生だから名刺も作るし、途中で変わるよりもいいと思ったんだ」 名のしれたシンクタンクで働く父と見合い結婚したとき、長女だった母は「阿部雅子」から「石川雅子」に変わった。 そのとき両親から何度も、 「戦前とは時代が違うから、うちはもう名門でもない、ごく普通のありふれた家

          〇目次

          ○プロローグ ○1924年 大阪 ○大阪朝日新聞ビル ○米国レイクプラシット五輪 ○大阪歌舞伎座ビル ○スクールフィギュア ○チャプリン来日 ○復興 ○名物外交官たち ○初期のオリンピック 〇全日本フィギュアスケート選手権 ○芝浦スケートリンク ○ガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪 〇駐在員夫人の贈り物 〇ソニア・ヘニー 〇226事件と山王スケート場 〇凱旋帰国 〇東京オリンピック招へい 〇ベルリン五輪 〇スケート留学の夢 〇札幌

          ○プロローグ

          僕は来月から苗字が変えることにした。「石川健三」が「阿部健三」になる。 世間ではどう受け取られるのだろうか。 「あなたが決めたのなら、おかあさまは反対しませんよ。でも、どうしてまた急に?」 「社会人一年生だから名刺も作るし、途中で変わるよりもいいと思ったんだ」 名のしれたシンクタンクで働く父と見合い結婚したとき、長女だった母は「阿部雅子」から「石川雅子」に変わった。 そのとき両親から何度も、 「戦前とは時代が違うから、うちはもう名門でもない、ごく普通のありふれた家

          ヒトラーと握手した少女 稲田悦子物語

          〇あらすじ  ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラー総統と唯一、握手したことがある日本人の少女、それが稲田悦子でした。  オリンピックに先だってドイツの首都ベルリンではヨーロッパ選手権が行われ、開会式でスピーチをしたヒトラーが、「あの日本人は何をしにここに来たのかね?」と側近に質問したのがはじまりです。  オリンピック強化選手になってからは、国会議事堂の隣にあった山王スケート場で練習した彼女は、幼いながらも歴史の傍観者でもありました。  はじめて記事にしてくれた新聞記者

          ヒトラーと握手した少女 稲田悦子物語