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第5章 喜劇王チャプリン来日


「えっちゃん、チャプリンが来るんやて。港まで見に行かん?」

 ある日、小学校で同級生たちに言われた。

「すごい!本物?あかんねん。うちスケートの練習があるんやもん」

 喜劇王、チャーリー・チャプリンの映画は、日本の配給会社は名前を憶えてもらえないかもと思い、最初は「変凹(ヘンペコ)くん」とか「よいどれくん」という名前で公開されていた。が、すぐにチャプリンの名前で親しまれるようになった、

 「モダンタイムス」や「スケート」を見ると、北欧では社交ダンスと同じようにローラースケートも上流階級に浸透していて、着飾った男女たちの社交場としてスケートパーティーが催されてたこともわかる。

 チャプリンとヒトラーは同じ年に、それぞれイギリスとオーストリアに生まれ、誕生日も数日しか違わない。どちらもチョビ髭がトレードマークだった。

 チャプリンのスケート技術は相当なものだ。カーノー劇団に在籍していたとき、パントマイムやダンスだけではなく、ローラースケートの芸もかなり舞台でやっていた。

 さっそく日本でローラースケートがはやったことは言うまでもない。

 悦子も買ってもらった。夏の間、どうしてもアイススケート場に行けないとき、やや勝手が違うのだが、ローラースケートで練習していた。

 悦子はオリンピック強化選手として、山王リンクで特別に練習できることになった。

 ただし、山王リンクで練習するにあたって、礼儀作法には厳しく叩きこまれた。なにしろ現人神といわれた天皇陛下の親族と同じ空間で練習するのである。不敬罪が明文化されている時代なのだ。

 もともと永井は普段から弟子たちにはスケートだけではなく、レストランでの食事やたしなみやお辞儀の仕方など、西洋式のマナーを教え込む主義だった。ABCリンクの下にある洋食の「アラスカ」で、御馳走しながら、

「ナイフは右手、フォークは左手にもちましょう」

 あるとき、永井は悦子の脇の下に半紙をはさんだ。

「食事のとき、わきをひろげて食べてはいけません。その紙が落ちないように、はさみながら食べてごらんなさい」

 そういう日常生活での上品なたちふるまいや外に見せない度胸が、本番での気品や平常心につながる、と考えていたのである。

「和食は大阪ですね。すき焼きも関西です。神戸牛が有名ですけど、伊勢の松坂牛も西条です。神戸では菊水、大阪ではみやけ。バターとかざらめ砂糖を入れる珍しい方式もありますよ。私は東京ではもっぱら洋食ばかりです。上野精養軒のビーフシチュー、ドイツ料理のラインゴールドもよかですよ。あそこはドイツビールを直輸入しているので、夜は酒場になります。昼間なら連れて行ってあげましょう」

 永井はびっくりするほど美食家で、超一流のレストランを好み、大阪や神戸だけではなく、東京や横浜にもひいきの店があった。

 1932年5月14日、そのチャプリンがマネージャーの兄シドニー、秘書の高野虎一と共に初来日。その人気は相当なもので、神戸港では検疫中に新聞記者たちをのせた船が横杖され、港には数千人のファンが出迎えたほどだ。三宮発を変更して神戸発の「燕」号に乗り込むと、ここでもファンが殺到して駅長駅に一時避難しなくてはならなかった。

 広島出身で15歳でロサンゼルスに移民し、チャップリンの運転手兼秘書になった高野は、不穏な空気に気がつき、神経をとがらせていた。

 日本の軍関係者にもチャプリンに会いたがるファンが多く、仲介に入った秘書の高野はシンガポールの歓迎会で、幾つかの情報を耳打ちされていた。ハリウッドにあるチャプリン撮影所には松井石根や阿部信行と一緒の写真が残っている。

 ちなみに松井と阿部は陸軍士官学校の同期生。2人とも東京裁判で呼ばれ、前者は絞首刑、後者は「裁判所の椅子が足りない」という理由で、免訴になった。高野はチャプリンと兄のシドニーに、東京駅から帝国ホテルに向かう途中、

「車からおりて皇居の方角にむかって会釈してほしいのです」

 と頼んだ。少しでも過激な国粋主義者たちの心情を懐柔できたら、と考えたのである。 

 5.15事件の首謀者たちは首相官邸において、チャップリン歓迎会が予定されていると聞き、そこに集まる支配階級を襲撃する計画を練っていた。

 5月15日は天気のいい日曜日だった。

 その日は両国で相撲観戦することになり、犬養毅首相の息子で秘書官の犬養健(たける)も付き添った。ちょうど終わってホテルに戻った頃、首相官邸では大変な騒ぎになっていた。

まだ完成してまもなかった首相官邸は、テロを警戒して廊下は細く、迷路のように入りくんでいる。襲撃者はなぜかそれを知っていて、3つのドアを警護していた私服の警官たちを次々とピストルで撃った。

 犬養首相と食堂への通路で遭遇し、すぐに引き金を引いた。が、弾が切れていた。

「撃つのはいつでも撃てるだろう。あっちへ行って話をきこう。ついてこい」

 と首相自らが応接間に招きいれ、彼らをまず一緒にいた娘婿の仲子と孫から距離をおかせた。そこへ殺気立った後続の4人が走りこんできて、

「問答無用!撃て!」

 という声で、次々と9発を発砲した。首相は仲子や女中たちに、

「呼んでこい。いまの若いもん、話してきかせてやることがある」

 と言い続けた。

 事件が起きたのは夕方5時半、午後11時26分に犬養首相の顔に白い布がかけられた。

 チャップリンは半月ほど日本に滞在し、急きょ首相に就任した斎藤実と面会する。

 翌年に日本は国際連盟を脱退。国定教科書が改訂になり、

「サイタサイタ サクラガサイタ」

「ススメススメ ヘイタイススメ」

 という一節が学校1年生の国語のスタートになった。

「東京音頭」が大流行する一方で、陸軍が「非常時宣言」して吠え出し、何からなにまで我慢を強いるようになった。新歌舞伎座で上演予定の「源氏物語」に待ったがかかる。

「非常時日本にふさわしくない」という理由だった。

 悦子は永田先生と東京にも練習に行くようになり、シングルと平行して、ペア・スケーティングも練習していた。が、まもなくペアという競技自体が警察から禁止されてしまった。

 515事件の後、チャプリンは6月4日に日本を出発するまでの間、チャプリンは帝国ホテルに宿泊しながら、何度か山王ホテルに足を運んでいて、プールやサウナやスケートを楽しんでいた。

 山王ホテルは時代の先端をいくモダンな宿泊施設として、この秋、正式にオープンする運びだった。

 本館は洋風の鉄筋コンクリート作りで、食堂にはシャンデリアが並び、出窓にしてもカーテンにしても家具にしても、高級品ばかりが集められた。併設された日本館と日本庭園も見事な出来ばえで、地下にスケート場が作られ、サウナやプール、まだ珍しかったマッサージ店もできた。

 ただし、まだ家具がそろっていなかった。宿泊以外の施設、スケート場やそれを取り囲むバルコニーの喫茶室などがプレオープンしていたのである。

 帝国ホテルが筆頭株主が宮内庁だったのに対し、山王ホテルは民間企業の第一自動車の経営で、というのも、皇居や国会議事堂や首相官邸も陸軍省も外務省も徒歩圏内だった。周囲に各国の大使館が多く建っていたので、外務省御用達のようでもあり、近くに満鉄の東京支社があったので、じきに満鉄御用達のようになる。

 陸軍がインドの独立運動の革命家たちを支援する方針を固めたときも、一部の軍人が由緒ある陸軍省に外国人が足を踏み入れるのを毛嫌いし、山王ホテルを好んで利用した。

 ホテルの正式オープンに先立って、交野政邁伯爵が発起人となり、「東京スケート倶楽部」が創立されていた。地下の山王スケート場はよそと違って、50銭を払えば誰でも滑れるわけではなく、あくまで皇室や華族、政府の高官、ごく限定されたオリンピック候補の選手たちだけが特別に滑ることができた。

 たまたま悦子が永井先生と上京して、五輪を経験している老谷たちとロシアから亡命したバレエ教師の知恵を借りながら、ああでもない、こうでもないとフリーを振り付けしているときだった。午前中だったから、人がほとんどいないときに、くるくるとカールした銀色の短い髪をした白人が来て、ものすごい速さで貸靴の紐を結ぶと、小走りでぴょんと氷にのり、独創的に滑りはじめた。付き添いは5人ほど、一人だけ白人で顔がよく似ていて、兄弟のようだった。

 悦子がプログラムを振り付けしてもらっている間、じーっと見ていて、すぐその後にマネして滑ったりしていた。子供が好きみたいで、何度かウィンクしたりくれた。

 悦子たちは映画でのメークアップしか知らなかったから、そのときはチャプリンだとは気がつかなかった。次の日になってリンクの山下支配人から、

「昨日、チャプリンが来たでしょ」

 と言われて、はじめて知ったのだった。

 クーデターを起こした軍人たちを支持する声は多く、嘆願書が何千通も届いた。

 すでに公立学校には陸軍現役将校が配属され、軍事講話、戦史、軍事教練の授業があった。いわゆる軍事教育の下で、「軍人さんの言うことは正しい」という思想が浸透しつつあったのだろう。

 昭和史を語る上で欠かせない。それが山王ホテルだった。2.26事件、ゾルゲ事件、山王会議、GHQによる占領・・・すべてこの山王ホテルが舞台となった。

 もともと江戸時代は店などほとんどない武家屋敷の街だったが、青山練兵場から近かったので、伝統の麻布歩兵第三連隊など、軍関係の施設や學校は多かった。

 それらのほとんどが、関東大震災の損害が損害を受け、瓦礫が崩れ、火事も起きた。

 復興の段階で、土地を手放してしまった元大名家も数多く、建設途中だった国会議事堂が完成すると、各省官邸や首相官邸や各国の大使館がと立ち並ぶようになった。

 やがてこの周辺は東京大空襲で焼け野原になり、占領軍の本部や施設として徴収されてしまう、三たび復興を遂げたとき、思い出深い山王ホテルはもはや日本人のものではなくなっていた。

「永井先生と東京に行くと、まず最初に宮城(皇居)の前に行って、参拝するの。国会議事堂はまだ建てている途中だったわ。あのあたりは江戸時代からお屋敷町だったけれど、関東大震災でほとんどすべてが倒れたり、焼けたりしてしまったそうよ。私が山王スケート場に行きはじめた頃は、周囲に空き地や森がたくさんあって、野生のキツネとかタヌキとか野鳥も珍しくなかったんですよ。大阪のほうが震災がなかった分、都会はごみごみしていたし、栄えている感じでした。円タクも大阪のほうが先だったし。“どこに行くのも1円”という宣伝文句でスタートしたんだけど、すぐに値崩れしたわ。あの頃のタクシーはメーターがなくてね。人力車と同じよ。乗るときどこまでいくらで行くのか、運転手さんと交渉するの。そうそう、皇居の周辺だけあって、馬や人力車に乗った人は何人も見かけたわ。吉田茂さんも外務省に馬で通ったそうだし、山王ホテルにもお客さん用の馬小屋がありましたよ、道路がまだよくなかったから、車が通ると砂埃がすごくってね。」(稲田悦子談)

 悦子は関西のスケート選手たちと一緒に、そこでアイスショーで滑る機会に恵まれた。招待客は大阪とはまったく違っていて、まるで別世界。ブルジョワ階級ばかりだった。

 パーマネントをかけて髪や洋装が多く、国宝級の着物を召した貴婦人が大勢いた。

 光次郎とハツはスケートよりも、観客席のほうについつい目が行ってしまう。そこは豪華絢爛、未来の天皇陛下や皇族や華族、政府の高官たちの家族ばかりだった。護衛やお付きだけでも、かなりの人数だ。大阪から一緒に来たスケート仲間たちは、緊張でがちがちになってしまった。が、とびぬけて小さかった悦子にはまだ何がなんでも事情がわからないまま、無我夢中で滑った。グループナンバーでも一人だけ、頭2つ分、悦子は小さかったし、ソロナンバーももらっていた。皆が皆、悦子たちの演技に夢中になって、温かい拍手を注いでくださった。

「今日のように、誰も彼もという時代になろうとは思いませんでしたわ。滑っている人は、どこそこの社長のお嬢さんとか、どこそこの支配人さんというような特定の階級の人々で、スケートの練習に来るというより、一種の社交場」といった感じでした」(雑誌「丸」インタビューより)

 この山王ホテル界隈では、皇室専用のベンツや首相官邸専用のクライスラーをしょっちゅう往来していた。運転手がたいてい同じ人物で制服を着ていて、彼らはカーブを曲がるときのスピードもすごかった。見かけるたびに車の装備が重たく、鉄板や防弾ガラスがボディを覆い、頑丈になっているようだ。

 というのも、日中戦争が長引き、世界恐慌もあったので、庶民の生活はいっこうに楽にならず、回復の兆しも見えなかった。

 天皇や政府の高官を狙う未遂テロが何度も起きていた。カーブや門でスピードを落としたときに爆弾をほおりこまれるから注意するように、運転手たちは通達されていたのである。

 首相官邸車は1931年式のリンカーンだった。21ミリという厚い防弾ガラスを入れて、鉄板も厚くしたところ、車がかなり重たくなってしまった。

 阿部信行が総理大臣になったとき、

「この車はタンク(戦車)に乗っているみたいで、気持ちが悪くなる。明日からタクシーで行きたい」

 幸い内閣外局からパッカードがあり、それに乗ることになった。

 大阪にいるときと違って、悦子も幼いなりに殺伐とした空気をかすかに感じ取っていた。

「みざる、言わざる、聞かざるでいましょう」

 永井の言葉に、素直にうなづき、ひたすら練習に励んだ。とくに陸軍の貸切練習など、口外するなんてもってのほかだった。

 やがて、アイスショーにしても練習にしても、皇室や政府の高官の家族が出入りする予定は新聞にもほとんどのらず、すべて隠密にされるようになった。

 逆を言うと、山王ホテルでスケートをしているときだけ、高貴な方たちもつかの間の息抜きを楽しまれていたのかもしれない。

 世にいう226事件については後述するが、鎮圧する側の軍閥の一人に阿部信行がいて、4日間、軍服を着たままで過ごした。彼らが敵対視した武藤章にしても、ドイツ留学のときドレスデンでフィギュアスケートにはまり、妻子には自分のスケートの上達ぶりについて、微笑ましい手紙を何通もだしている。

 つまり陸軍ではほとんどの兵がフィギュアスケートの基本を習得していた。

 というのも、経験者にはわかるだろうが、スケートは足腰が鍛えられ、バランス感覚が養われる。スキーとバランスの取り方が似ているせいか、スケートを習得してしまうと、スキーは初心者でもたいていがスイスイ滑ることができるのだ。自転車にしても同じで、補助輪がなくても、すぐに乗れてしまう。

 日本だけではなく、ロシアでもドイツでも陸軍とスケートは縁が深く、軍に所属したままオリンピックでメダルに輝いた選手は過去に何人もいる。

 4回転ジャンプの天才、エフガニー・プルシェンコにしても、ロシア連邦軍の上級中尉だ。ただし、議会議員に当選した後、予備役になった。

「戦争中も東北のほうで陸軍のスキーやスケート大会はつづいていましたからね。秩父宮殿下や高松宮殿下はご夫婦でフィギュアスケートを楽しまれていました。西園寺公望公爵の息子さんやお孫さんも、よく一緒にいらっしゃっていました。(西園寺)公共さんと秩父宮殿下はイギリスのオクスフォード大学に留学しているとき、コンパルソリを習ったそうで、とてもお上手でした。それとこれは戦前は口外してはいけないことでしたが、今はもう問題ないでしょう。山王ホテルは歩三(麻布歩兵第3連隊)やキンポ(近衛歩兵)がとても近かったの。キンポといったら各地方から選ばれた兵士ばかりで、それはもう大変な名誉だったから、帽子の色も他とは色が違っていてね。軍人さんのブロマイドなんてのも売っていたし、新聞や雑誌にも顔写真入りで記事や物語が載ったりして、憧れの存在だったんですよ。

日清日露戦争があったから、とても寒中訓練には力を入れていたから、山王のスケート場でときどき貸切演習していました。ただ、それだけのことでしたから、軍の演習なんて国の機密かどうか、子供だったからわからなかったけれど、ともかく絶対に外で話題にしたり、書いたりすることは許されない風潮でしたの。先生からも親からもこれは固く注意されていましたからね。秩父宮殿下が指導教官だったときは、スケート靴を履いて剣道をトアーとやったり、柔道をしたり、いろいろな練習をされていましたよ」

「歩兵第三連隊兵舎」は煉瓦造兵舎が震災でつぶれてしまい、代表的な震災復興建築として生まれ変わった。出入口は切り妻の無栗屋根がかかり、窓はすべてがスティールサッシで和洋折衷。日本最初の本格的鉄筋コンクリートの3階建て、地下1階、2つの中庭をもつモダン兵舎だった。

 陸軍士官学校を卒業した秩父宮は、生きのいい江戸っ子部隊で知られたこのフサン(歩三、麻布第三連隊)に配属された。特別室が用意されたが、絶対にそこは使わず、送迎の車も拒否。秩父宮邸からそこまでおよそ2キロ、時間どおり徒歩で歩くのが日課となり、近所ではその御姿が時計代わりとなっていた。自ら兵の輪に溶け込もうとし、親しくなった士官候補生の森田利八や安藤輝三を休日、自邸に招いたりもした。

 陸軍大学校とイギリスのオクスフォード大学留学を経て、歩三に戻るとイギリスで視察した軍隊の訓練をかなり取り入れるようになった。対ソ連策こそが日本の国防と考えていたから、広い場所での演習ではソ連の地名が仮想されたし、スキーやスケートを使った寒中訓練も率先して実行した。

 山王ホテルの地下スケート場で貸切練習が行われることもあり、秩父宮は教官として見事なスクール・フィギュアを披露している。それをきっかけにスケートにはまる兵もいて、山王ホテルで軍服を見かけるのは珍しいことではなかった。

 後に秩父宮が歩三を離れ、青森県弘前の部隊に移ってから、226事件が起こるのだが、将校たちが山王ホテルに飛び込み、

「二階の部屋は使わないから、1階と地下だけ使わせれくれ」

 と強引に占領してしまったのは、内部の勝手がわかっていたためなのだろう。

「外交官のご家族の方は、皆さん、麻布近辺の洋館を建てて住んでいらっしゃいました。海外駐在の間は人に貸しているので、戻ってきてすぐに空かない場合は、山王ホテルで暮らしていたのです。東郷いせさんもそうでした。スケート場の上に住んでいたら、それはもう上手になりますよねえ。

吉田さんも来栖さんも、皆さん、英語がお上手なんですけど、親は日本語を習得させたくて、悩んでいるんです。だから、毎週一度は歌舞伎に連れていくご家庭も多かったし、小学生だった私はうってつけのお相手だったみたい。仲良くさせていただきました。それに皆さん、スケートが上手でした!来栖さんの御宅は海外駐在中は、お正月はいつもスイスに行ってスキーとスケートの毎日だったそうです。

 吉田和子さんは九州飯塚の麻生家に嫁がれて、麻生和子さんになり、ちょっと下宿させていただいた時期もあるんです。そのときは吉田茂さんが総理大臣だったのです。今だったら考えられないでしょうが、戦後のごたごたしたときで、新聞記者は誰も気がつかなかったみたいです。外務省の若い方が、“すみませーん、アイロン貸してください!”とか、入ってきて、私のことメイドか何かと思ってたようです。

 和子さんはスケートでもなんでも、日本舞踊もお華もできる方でした。でも、スポーツは乗馬がいちばんお好きだったみたい。お嫁に行くとき、愛馬を連れていったら、九州の方たち、”女が馬に乗っている!“とびっくりされたみたい。

 長男も次男もスポーツ万能で、スケートもお上手でした。上の太郎ちゃんはモントリオール五輪に出場するんですけど、次男の方はヨットの事故で亡くなられて気の毒なことをしました。和子さん、本当につらそうで・・・。そういうときは“自分は一度は226事件で死んだ人間なんだ”と言い聞かせ、歯を食いしばって頑張ると話してくれたことがあります。」(稲田悦子談)

 関西から上京していた悦子以外だと、この山王スケート場の「東京スケート倶楽部」で目だっていた選手は、2人の東郷だった。この2人に血縁関係はなかったし、東郷平八郎の親戚というわけでもない。

 一人は東郷球子で、悦子よりも8歳年長だった。祖父は海軍中将の東郷正道で、海軍兵学校を出たエリート。日清日露戦争に出征し、日本海海戦では第6戦隊司令官を勤め、その功績が認められて長男の東郷安からは男爵が遺贈されていた。

 兄も学習院のスケート部にいて、全日本選手権に出ていたから、球子も早くから頭角を現し、西の稲田悦子、東の東郷球子と言われた。

 もっとも技量は悦子のほうが上で、球子はスケート以外にも茶道や華道など花嫁修業にも時間を割き、適齢期に結婚している。戦後もスケート連盟にボランティアで関わった。

 もう一人、東郷いせは外務省のビッグネーム、東郷茂徳の娘で、悦子より1歳年長。母のエディはエディ子という日本名にして、結婚をきっかけに日本国籍をとった。

 エディはドイツのベルリン大使館で秘書として働いているとき、東郷と知り合い、恋仲になった。職場の関係者は少なからず、驚いた。東郷は38歳で初婚、34歳のエディは5人の子持ちだったからだ。

 東郷は無骨ものだったが、正義感が強く、家族にも誠実だったから、吉田茂や来栖三郎からの信頼も厚かった。

 エディはドイツのハーバーで生まれ、父親が銀行家でソ連のモスクワの金融機関で頭取に就任したから、3歳から13歳までエディもモスクワで暮らした。その後、父は神戸の国際金融機関の理事になり、家族で来日。エディは17歳で、神戸に滞在中の建築家、ゲオルグ・ラランドと恋に落ち、翌年結婚した。

 ゲオルクは神戸オリエンタルホテルや神戸の通称風見鶏の家や横浜ドイツハウスなどの設計を手がけ、満州にも進出する話が進んでいた。ところが、満州に下見に行って戻った直後、心不全で41歳のとき急逝してしまう。エディは27歳で、5人の子がいる未亡人になってしまった。

 ドイツに帰って、学校教師の仕事につくなどして、懸命に子供たちを育てた。東郷がベルリンに赴任したとき、大使館で秘書になった。あまり酒場を好まない非社交的な東郷を、貧しい自宅に招くと、すぐに日本生まれの子供たちと仲良くなった。

 東郷は手痛い失恋もあり、独身が長かった。エディの美しさと家庭の暖かさに強く惹かれ、反対していた鹿児島の親を説得して、帝国ホテルで結婚式をあげた。

 1922年にすぐ長女のいせは東京で生まれた。悦子より1歳年長になる。伊勢神宮に参拝してすぐに生まれたから、いせと名づけたのだ。

 まだヒトラーが政権を握る前だったから、東郷との結婚は法律上の手続きもスムーズだったが、その後、ナチス傘下ではドイツ人と日本人の結婚は禁止された。

 母親そっくりのいせは、父親の転勤で米国のワシントン、ドイツのベルリン、スイスのジュネーブなどで暮らし、9歳で日本に帰ってきた。両親は家でドイツ語を話すから、いせも日本語よりドイツ語のほうがうまかった。

 ドイツではベルリンのティアガルデン公園のスケート場で、正式なレッスンをとっていた。

 たしかにフィギュアの描き方も、スピードもなかなかのものだ。ドイツ人の先生は、

「本気をとりくめば、いせならオリンピックも夢ではない」

 と太鼓判を押した。

 各国の大使館関係者の中で、美しいせはアイドルだった。ボーイフレンドたちが映画とかダンスパーティーとか、いろいろ誘ってくれるので、スケートだけが楽しみではなかった。外国人は片っ端からスパイとして捜査されたようになると、父親の東郷は憲兵隊から注意を受ける。

「あなたの娘さんは外国人の友だちが多すぎますよ」

「外交官の子供が外国人と仲良くするのは当たり前じゃないか。」

 と東郷は激怒した。他にも「エディはユダヤ人だ」とか、根に歯もない噂をたてられ、怪文書も出回るようになるのだが、エディはユダヤ人ではなかった。それどころか、前夫との娘がナチスの高官と結婚し、イデオロギーの違いに悩んでしまうのであった。

「いせお姉さまのことは仲良くさせていただきました。彼女はバレエや社交ダンスやタップダンスやロシアダンスも習ったことがあるので、とても踊りがお上手でした。身長は170センチぐらいあって、今みたいにジャンプ中心だと小柄なほうが有利な競技です。あの頃は芸術性とスケーティングの美しさが重視されていました。長身のほうが演技が大きくみえて、舞台映えしたんですよ。いせお姉さまはお父さまと同じ外務省の方と結婚されて、すぐに双子が生まれたし、お母様が肝臓を悪くするし、東京裁判もあったでしょう。海外暮らしで、結婚した後はスケートの世界から遠ざかってしまいましたね」(稲田悦子談)

 永井は東京で山王ホテルの部屋をとった。

 まだ小学生だった悦子は、上京の折はスケートのツテで知人宅に泊めていただいた。

 そのひとつが来栖三郎大使の家で、ツツジが咲き乱れる美しい西洋式の屋敷だった。ニューヨーク生まれのアリス夫人が庭師に頼み、一部を日本庭園に仕上げていた。ここも山王ホテルからは徒歩圏内、スペイン大使館と向かい合っていた。長かった海外暮らしから帰国したばかりで、アリス来栖夫人はとても面倒見がよく、オープンな性格だったから、教会や子供たちの関係でたくさんの友人が出入りして、誰からも「マミー」と呼ばれていた。

 この来栖家は山王ホテル同様、家の中で靴を脱ぐ習慣をもたず、シャンデリア、ソファー、暖炉、カウチ、カーペットと生活様式はアメリカそのままを持ち込んでいた。異国みたいなもので、悦子は戸惑いっぱなしだった。が、とても暖かいフレンドリーな家族だったので、すぐに馴染んだ。

 長女のジェイはシカゴで生まれ育ち、日本語は片言しかできなかった。次女のピアもまだ小さかった。なかなか日本語を覚える機会がなく、午前中は家庭教師、午後だけ雙葉女学校に通っていた。

 友だちは外務省の帰国子女ばかりで、吉田茂の末娘、和子やアメリカ大使のジョゼフ・グル―の娘のエルシーとは親友同士で、家でも会話もほとんど英語だった。日本語に慣れ親しむ上で、悦子はうってつけの相手だったのかもしれない。すぐに親しくなった。

 長男の良だけはシカゴで生まれた後、8歳からは一人だけ、日本の親戚に預けられて育ったから、日本語も英語も完璧だった。

 横浜工業高校のラグビー部にいて、忙しそうだったが、それはもうとびっきりの好男子だった。

「あとにも先にもあんなにすばらしい男子、ちょっと思いつきませんね」

 と悦子が語るほど、容貌も性格も優れていて、来栖家期待の跡取り息子であった。

 飛行機が好きで、暁星中学から横浜工業高校へ進み、寮で暮らしていた。

 ジェイも良もシカゴ育ちだったから、子供の頃から冬の遊びといえばスケートだった。和子もまじえて山王スケート場で滑ったり、スケート場を見渡せるバルコニーでアイスクリームがのったグレープジュースを飲んだりしたものだ。

来栖家と吉田家とは縁があり、悦子はずっと後までスケート以外の場所でも関わっていくことになる。

 東京スケート倶楽部では練習の後、来栖家に立ち寄ってお茶やお菓子をいただく習慣があり、まるでスケート倶楽部のようにサロンがにぎわっていた。

 来栖三郎は横浜出身なのに、休日で家にいるときは、もの静かで、たいてい書斎で読書だった。あまり運動は好きではなく、アリス夫人は「体を鍛えたほうがいいから」と言って、庭の奥に弓道場を作らせていた。

 三郎はあまり敵を作らないタイプで、松岡洋祐のことは良き議論の相手とし、吉田茂や東郷茂徳とは盟友で、家族ぐるみの付き合いをしていた。

 エディ夫人とは仲があうらしく、東郷いせを迎えにくると、三郎は書斎から出てきて、ドイツ語で話し込んだりしていた。

「来栖さんのお父さまは外務省にお勤めでしたから、そんなにはお会いしていないんですけど、新聞ではときどきお名前と写真を拝見しましたわ。日独伊三国同盟のとき、調印された大使様でヒトラーとご一緒に写真が載っていましたし。米国のワシントンに飛んで、真珠湾攻撃がはじまる日まで、国務長官やルーズベルト大統領と交渉をもった方です。226事件の後、ベルギーやドイツに大使として駐在されたので、私がスケート留学させていただく話もあったんですよ。そんなかんや全部が戦争でダメになってしまいましたが。

長男の良さんはとても残念なことに、福生飛行場で終戦の年に戦死されてしまうんですよ。プロペラ事故で、首をはねられたそうです。ご立派な方だったのに。シカゴ育ちだったから、スケートもお上手でね。来栖大使は脳卒中で身体が動かなくなってしまうのですが、マミー(来栖アリス)がそれはもう献身的に介護していました。山王ホテルからすぐ、首相官邸の裏あたりに、御自宅があって、軽井沢の山荘にいる間に空襲で丸焼けになってしまいました。その敷地の半分にアパートを建て、半分に御自宅を建て、マミーは英語教室を開いたんです。私も戦後はそこのアパートを借りて、英語を習ったりしましたわ。たくさんお孫さんに恵まれて、最後は幸せだったと思います。お孫さんの一人が六大学の星野仙一というピッチャーと結婚されました」(稲田悦子談)

 ここで初期の五輪について、ふりかえっておこう。

 日本のスポーツが国際的な舞台に立ったのは、それに先立つ1912年のことだ。

 東京高等師範学校の嘉納治五郎校長は、国際オリンピックの第5回ストックホルム大会に、はじめて日本人選手を送りこむ決意を固めた。

 「ミスター・カノー」として、IOC(国際オリンピック委員会)で後に知られるようになる嘉納は、兵庫県の名門の出で、父親が勝海舟のスポンサーだったので、幼い頃から自宅で勝を見て、尊敬していた。

 長じてから、講道館柔道の創始者し、外務大臣や総理大臣を務めた広田弘毅に柔道の6段を与え、日本のオリンピック初参加や東京オリンピック招へいに尽力する。

 競技場も体育館もまだ何もなく、今の羽田空港に近い「羽田村運動場」で、代表選考会「オリムピク大会予選競技会」を催す。参加者はほとんどが人力車で使う地下足袋をはいていた。

 マラソンでダントツの走りをみせたのが、東京高等師範学校に在学中の19歳、熊本出身の金栗四三だった。

 短距離のほうで好成績をおさめたのが、学習院から無試験で帝大に進んだ三島弥彦で、野球とボートはじめ、柔道は2段、フィギュアスケートと乗馬と相撲も玄人ばなれしていた。

 この2人が代表選手として決定したものの、外務省をはじめとした官僚たちの無理解で、「単なるかけっこごときで洋行してよいものだろうか?」

「欧米人のスポーツショーに官立学校の生徒を派遣していいものだろうか?」

 といった具合で、資金ぐりはもちろんのこと、渡航ビザの取得にも苦労させられた。

 三島は五輪出場を機に半年ほど海外を留学する予定でいたが、金栗は渡航費だけではなく、背広をつくってやるところからのスタートとなった。嘉納がポケットマネーをはたき、岩崎弥太郎や西園寺公望といった財界人が援助している。

 途中のモスクワでは、日本大使館員の手びきでロシアの上流階級のパーティーに出席。三島は庭園にあるアイススケート場で、若いロシアの令嬢を相手にスケートの演技をみせ、喝采を浴びた。

 日露戦争が終わって4年後しかたっていない。敵国だったロシアにおいて、スポーツとスケートが親善と理解を深める役割を果たしたのである。

 三島も金栗もストックホルム五輪では結果がさんざんだったが、加納は初参加なのだから「次があるさ」となぐさめた。

 4年後の開催地はドイツのベルリンだったので、そこを訪問し、そのまま三島はロンドンへ。金栗は帰途につき、ドーバー海峡を渡航してとき、明治天皇崩御のニュースを聞いた。

 旧青山練兵場(現外苑)葬場殿にて大葬儀があり、国民は喪に服した。

東京市では市内に明治天皇を祀る神宮を創建することを決定し、代々木に内苑、青山練兵場に外苑がつくられることになった。

 その外苑に競技場が建設され、天皇の遺徳をたたえる趣旨で、1924年に第一回明治神宮競技大会が行われるようになり、これが今の国体(国民体育大会)につながっている。

 最初は各県の持ち回りではなく、ほとんどの競技が明治神宮のスポーツ施設で行われ、ボートレースやスキーやスケートのような種目は、長野など別な会場がその都度使用された。

 はじめて五輪でメダリストになった日本人は、テニスの熊谷一弥。1920年、アントワープ大会で銀メダルを取った。

 初の金メダルは三段跳びの織田幹夫で、1928年、アムステルダム五輪だった。ときのオランダ大使、広田弘毅は日本応援団の先頭に立って、あふれる涙をぬぐおうともせず、君が代を熱唱した。

「一人のオリンピック選手が100人分の外交官の役割を果たす」

 と感激し、五輪招へいに協力を惜しまなかった。

浜田常二著「大戦前夜の外交秘話」によると、ベルリン五輪の前後、「国民使節」を名乗る日本人が次々とドイツを訪問した。

 オランダ大使を終えた帰国して広田が、外務省情報部長、外務大臣、総理大臣と肩書きを変えつつ、「国民使節」たる肩書を推奨し、旅券の査証を惜しみなく発行したためである。

 「国民使節」になった人の多くが外務省から全額、あるいは一部の旅行費を負担してもらっていた。それ以外にも陸海軍から「視察」や「留学」という名目で、武官たちが潤沢な費用を支給され、きちんと勉強する者もいれば、ギャンブル三昧で帰国する者もいた。

 自腹の旅行なのに、「国民使節」を自称する輩も後をたたず、たいていがヒトラー総統との会見を強く希望した。

鳩山一郎にいたっては、

「広田君からともかく、国民使節という肩書をつけて、いってくれ、と無理におしつけるんですよ。迷惑千万です」

 と不満たらたらではあったが、この肩書がものをいって、1937年12月1日にヒトラーと会見することができた。もっともヒトラーと会談する内容はあらかじめ打ち合わせて、検閲をうけてしまい、しかもたったの30分だけ。この30分のために戦後は占領軍からヒトラーを礼賛したとみなされ、公職追放を通告されてしまった。

 「国民使節」は政治家や軍人だけではなく、指揮者の近衛秀麿やバイオリンの諏訪根自子も抜擢され、海外留学を果たす。

 悦子もその影響で、将来はスケートで欧米留学を夢みて、英語の勉強は怠らないようにしていた。

「昔の日本人は自分のためではなく、まず日本のため。諸外国に追い付き、追い越そうという気構えがすごかったんです。選挙の票集めなんかではなく、政治家も外務省の方もとても協力的だったんですよ。

 日本を外国で認めてもらうためにスポーツでもオリンピックでも頑張ろうという雰囲気でした。戦前の教育は体育にすごく力を入れていて、男子なんて剣道や柔道だけではなく、軍事訓練で射撃とか、棒取り、綱引き、騎馬戦・・・半日ぐらいは学校でも運動していたんじゃないかしら。

 女子はそこまで多くなかったけれど、マラソンや陸上中心。北海道や満州では冬は授業でスケートがあたりまえだったそうですよ。男子よりお裁縫の授業が多くてね。まず小学校3年生になると、1年生のために全員がブルマーを縫うの。雑巾とエプロン以外では、それが最初の衣類で、次は浴衣、ブラウス、スカートという感じで、女性雑誌にも普通に型紙が載っていましたね。

 和才も洋裁も習いましたから、私は自分でスケートドレスも縫えるんですよ。カタリーナ・ヴィッドも自分の衣装は自分で縫っていたし、ほんの数年前まではそれが当たり前だったんです。夜会服と違って、動きやすくなくてはいけないし、白い氷の上ではえなくてはいけないから、スケートドレスにはコツがいるんですよね」(稲田悦子談)

 全日本フィギュアスケート選手権は1929年にはじまり、第1回の開催地は日光町の精銅所リンク、2回目は仙台市の五色沼、3回目は下諏訪町の秋宮リンク、4回目は東京の山王ホテル、5回目が大阪市のABCリンクと歌舞伎座リンクと1年おきに変わってきた。

 ただし、スキーやスケートでは男子の試合に、女子が稀に飛び入りで出場する形だったから、ほとんどが公式記録には残つていない。

 第5回全日本は大阪の歌舞伎座のスケート場で、女子ジュニア部門がはじめて試験的に実施された。稲田悦子、東郷球子、平塚潤子の3女子が参加し、ここで悦子は規定も自由演技も男子を上回る出来ばえで滑り、自他共に認めるオリンピック候補として評価が高まったのだ。

 光三郎は永井に問うた。

「オリンピックって早すぎませんか?悦子はまだ小学生ですよ。年齢制限とかないんですか?」

「ソニア・ヘニーは11歳で初出場しているんですよ」

 次の12月、第6回全日本からはじめて、正式に女子にも門戸が開かれ、ジュニアだけではなく、シニア(選手)部門が開催されることになった。これは翌年の2月、ドイツで開催されるオリンピック代表選手選考会も兼ねている。

 つまり冬季五輪にはじめて、日本女子を送りだす。アジア人女性としても栄えある第一号ということになる。

 当時はまだオリンピックには年齢制限がなく、悦子はまだ小学校5年生。全日本で1位を取れば、オリンピック代表に選ばれるのはほぼ確実だ。

 出場する以上はなんとしても上を狙い、日章旗をあげたいというのが、關係者一同の偽りのない気持ちだった。

 この頃からバイオリン奏者の諏訪根自子と共に、稲田悦子は「天才少女」として、あらゆる子供向けの雑誌に載り、注目度は高まる一方だった。

 スケート人気に便乗し、選手全体のレベルを引き上げる目的もあって、朝日新聞社は1935年、全日本に先だって、オーストリアのウィーン出身、フリーツィこと、フリーデリケ・ブルガー選手を招へいした。

 1928年サンモリッツ五輪、1932年のレイクプラシッド五輪で、あのソニア・ヘニーに次ぐ連続2位で銀メダルに輝き、プロスケーターに転向していた。

 さっそく山王ホテルで歓迎パーティーを催され、悦子が歓迎の花束を渡し、マスコミ各社が集まって、2人の2ショットを撮影した。フリーツィは14歳年長で、2人が並ぶと悦子は頭3つ分ぐらい背が低かった。

 このときドイツ語の通訳に借りだされ、記事を書いたのが東京朝日新聞に転勤になった尾崎秀実だった。

 もっともフリーツィはかなりフレンドリーで積極的な女性で、あまり通訳を必要としていなかった。

 スケート連盟会長の川久保子朗や老松一吉や田代三郎といった男子のスケート愛好家たちが、歓迎パーティーでお酒や料理をつまみながら、機嫌よく噂話をしていると、

「どんな話をされているのですか?」

 とブルガー嬢が片言の英語で、輪の中に入ってくるではないか。

 尾崎記者の通訳がおいつかないほど、身振り手振りもまじえて話したがるので、誰だったか、

「意外とうるさい娘じゃのー」

 と混ぜっ返し、なごやかなムードで、笑いがあふれた。

 その場に真珠の養殖に成功した御木本真珠の娘婿、西川藤吉がいて、

「ほんまに、うるさいおなごじゃ。じゃが、美人じゃせがれの嫁にもらうかのー」

 と言い、どっと笑いの渦に包まれた。

 西川社長の息子、西川真吉は慶応大学スケート部で活躍した後、卒業後は御木本真珠店の欧州出張員として、奔走していた。というのも、御木本真珠店はすでに、上海やフランスのパリ、イギリスのロンドンや米国のロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴに海外支店を開いていたのである。

 そのパーティー会場に真吉はいなかったのに、半年もしないうちにフリーツィ嬢との結婚が発表されて、スケート関係者はびっくりしたものだ。西川ブルガー嬢として、そのまま日本で暮らし、さまざまな苦労を夫婦で乗り越え、日本のアイスショーの発展に貢献した。

 というのもお国柄の違いというべきか、日本のアマチュア精神が特殊すべたというべきか、日本スケート連盟主催のアイスショーでフリーツィが観客の声援に応え、アンコールでもう1曲滑ったことが大問題に発展したりもした。

 アンコールに応じること自体、「お客に媚びている」というのが一部の体育会連盟幹部の批判だった。

 また、別な日はリンクサイドで演奏している楽隊の中に男子のスケート選手が混ざっていて、途中からフリーツィの誘いに応じて一緒にペアスケーティングを披露するという、意表をついた演出があり、これもまた同様の批判を浴びせられたものだ。

 とはいえ、すでにフリーツィは競技を引退していたので、アマチュアの資格にこだわらなかったし、お客はやんやの喝さいを浴びせ、スケート熱はボルテージを増す一方となった。

 東京市西芝浦に完成した芝浦スケート場をはじめ、フリーツィは日本中で巡業したので、悦子は何度も一緒に練習する機会に恵まれ、何から何まで驚きの連続だった。

 まず彼女は試合用とアイスショー用、2つのフリープログラムをもっていたこと。スピード感にあふれているのに、上体の動きが豊かで、音楽から決してぶれないこと。スクール・フィギュアにおいて必ずエッジをはずさず、ターンの直後の姿勢が実に決まっていること・・・。勉強になることばかりだった。

「ブルガー嬢がこの度オーストリアから日本に来られたことは私たちスケーターの大変うれしいことと思ひます。ブルガー嬢のスクールを見まして日本の選手よりスピードがありますからトレースがふるへないし、またターンが早いからチエンヂが混りません。ワンフート・エートのチエンヂのところなどよく乗っておられます、そして大変エツヂを上手に使つていると思ひました。

 次にフリーはスピンの後などがきびきびしてその上音楽によく合っています、エキジビションではありましたけれども日本人のやうに恐い顔をせずいつもにこにこしてほんとにやわらかくとてもスピードがありました。

 私はブルガー上のあのスクールやフリーのよい点を見ましてもつと勉強せなばならないと思ひました。私はスクールはまだよく見せていただく時間がありませんので一寸見た時の事だけ書きました。」(アサヒスポーツ【日本女子のナンバーワン】「稲田少女は斯く語る」より)

 第6回全日本が近づくと、オリンピックを意識して、吉田和子嬢の紹介で、横浜の洋装店に本番用のドレスを注文した。それまでは母親のハツがスケートドレスを手作りしていたのだ。

 今の選手みたいにストレッチする布だと格段に動きやすくなるのだが、当時はまだそんな素材がなかったから、氷上でも映えるように光沢のあるサテンのベージュ色の布を選んだ。大きな白い丸エリに白いボタンを縦に並べ、白い手袋もあつらえた。

 おそろいの布でベレー帽も作ったのだが、これはスピードをだして滑ると飛んでしまうので、本番では使わなかった。悦子もハツも、足にまとわりつくと困るので、ぎりぎり膝が隠れる長さを希望したのだが、洋裁店のほうは、

「信じられないほど、短すぎる」

 と反対し、あーでもないこーでもないと、悦子は仮縫いで半裸のまま待たされた。

 同じ頃、テニスの岡田早苗や林美喜子は膝下のスカートでプレーしていた。テニスの男子にいたっては、紳士のスポーツなのだから、長いズボンが基本とされていた。

 まだイギリスのバロック調がファッションの基調で、足首が見えただけで殿方は胸をときめかせたものだ。

 髪型は普段から、おかっぱ頭なので、今更ポニーテールとか編み込みアップとか、他に選択肢はない。床屋に行ってそろえてももらったら、眉の上は2センチほど、耳は全部が見えて、後ろは刈り上げに近かった。

 はやりのモガを気取ったわけではなく、学生の模範とされていた「三つ編みおさげ」はスケート選手には不向きなのだ。スピンで回るとき、近くにいる人に鞭のように、ぴしっぱしっと当たるから、大ひんしゅくであった。

 後にスケートコーチになってからは、悦子はポニーテールをすすめた。女の子らしくて、かわいらしいし、尻もちをついて激しく転んだとき、後頭部を強打せずにすむからだ。

 当時はまだフィギュアスケートにおいて、「着飾る」という概念がなかった。あくまでスポーツだし、それまで男子しかオリンピックに行っていないから、振付にしても「女らしさ」に欠けていた。

自由演技の音楽はさんざん迷ったあげく、

「開催国がドイツだから」

 という単純明快な理由で、永井はシューベルトの「ミリタリーマーチ」を選んだ。フィギュアスケートの競技用のドーナツ盤レコードだったので、きっちり5分の長さに編集されている。

「ドイツの曲だから、ドイツ料理の店で、雰囲気をつかみましょう。根性試しというやつです」

 永井はそう言って、尾崎秀実に紹介された西銀座5丁目にある「ラインゴールド」というドイツ料理店に、ときどき連れて行ってくれた。樽を模した凝った造りのドアを開けると、店の中は異国ふうだった。ときにはヴァイオリンでドイツ音楽の生演奏もあったここもスケート場と同じで、子供の姿はほとんどなく、大人ばかりで、外国人客も珍しくなかった。

「かわいいお嬢さんですね。娘さん?」

「いえいえ、私のお弟子さん、フィギュアスケートの選手なんですよ」

「あら、そうなんですか!ここ犬養健さんがいらっしゃるので、私もアイスショーのチケットをいただいたことがあるんですよ。素敵だったわ」

「ドイツの曲を滑るので、ドイツの雰囲気をつかませようかと思って・・・」

「店のオーナーはドイツ人なんですよ。前の戦争のとき捕虜になって習志野にいて、日本が好きになったから、日本人と結婚して店をもったそうです。お客様も半分は外国人ですわ」

 女給は日本人ばかりだったので、少しほっとした。給仕してくれたのは岡山出身の女性で、アグネスと呼ばれていた。みんなドイツ風の源氏名をもらっているそうだ。

 たしかに緊張して、あがってしまいそうだ。悦子は何を食べたか、最初は味はよくわからなかった。

 いずれにせよ、永井がジャズやブルースではなく、シューベルトの「ミリタリーマーチ」を選んだのは、賢明で無難な選択だった。シューベルトはオーストリアのウィーン出身で、とりわけドイツ歌曲において知られていたクラシックの音楽家だった。

「ドイツもヒトラーも日本でものすごく人気がありました。軍人や政治家はヒトラーにみんな憧れて、そっくりの口調と姿勢で演説していましたね。宝塚もドイツ歌劇をたくさんやるようになったし、ヒトラー・ユーゲント(ナチス青年団)が来日したときなんて、ウィーン少年合唱団が来日したときと同じぐらい大騒ぎでした。まわりはヒトラーや軍人に憧れを抱く人がいっぱいいたけれど、私はどこか冷めていました。来栖大使も吉田大使もナチスドイツを嫌っていること、わかっていましたから、他の小学生は知らない情報もたくさん見聞きしていましたからね」(稲田悦子談)

 開催地のドイツではアドルフ・ヒトラー総統が最盛期を迎えつつあつた。ヒトラーはワーグナーがお好みで、クラシックでもユダヤ人が作曲したものやジャズは「退廃的な音楽だ」と毛嫌いしていた。

 ナチスの圧力で上演を禁止するようになり、ユダヤ人音楽家は亡命を余儀なくされるか、強制収容所に送り込まれた。

 ただ毎日、ポータブルの蓄音機を持ち込んで、夢中で山王スケート場で練習に打ち込んだ。そんなに大きな音がでる蓄音機がなかったから、たくさんのお客が滑ってる営業時間では、なかなか音楽が聞こえてこなかったし、マイクを通すと雑音が耳障りだった。

 だがしかし、どの選手も悪条件はみな、同じである。

 マーチを選ぶ選手は多かったのは、これだと途中で音を聞きのがしてしまっても、121212とカウントをとっていれば、最後までなんとか演技をまとめることができた。

 すでにドイツは世界恐慌から立ち直り、失業者が激減し、道路や公共施設も整い、暮らし向きがよくなって、ヒトラー信望者は激増していた。

 ヒトラーの側近にはヨーゼフ・ゲッペルスという天才的な宣伝大臣が寄り添っていた。報道や言論への操作と弾圧、イメージをアップさせる話題の提供、パレードや政治集会の演出、事実と反するほど華美な宣伝。

 ナチスドイツの軍人たちは姿勢も服装も粋で、宣伝ポスターにしても軍歌にしても、次々と斬新なデザインのものが作られていた。イギリスやアメリカとはまた違う一体感と力強さがあり、どこもかしこも制服が好まれ、外交官にも制服が用意されていた。

 ガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪。悦子は何度聞いても、なかなか覚えられなかった。

 やけに開催地が長いのは、もともと2つの村だったので、ヒトラーが急きょ合併させてしまったためである。

 1936年の冬季五輪はガルミッシュ=パルテンキルシェンで2月9日から15日。夏季五輪がベルリンで、同年8月1日から16日が開催日だった

 もともとヒトラーはスポーツ事情にうとく、最初はオリンピックのことも、

「しょせんはユダヤ人の祭典だろう?」

 という、あぜんとするほど独創的な偏見をもっていて、開催することに難色を示した。もともとスペインのバルセロナと開催地を争い、43対16でのドイツに決まったのが1931年。ヒトラーが政権をとる前のことだった。ゲッペルスをはじめ側近たちから、

「ナチスの正当性を世界に宣伝するプロパガンダ効果が期待できます」

 と説明されると、

「アーリア人の優秀性と自分の権力を世界中に見せつける絶好のチャンスだ」

 と一転してやる気をみせた。スタジアムと選手村はもちろん、空港やホテルや道路や鉄道の整備に着手し、まだ実験段階であったテレビ中継の受け入れ態勢も急ピッチで進められた。

 この頃すでにナチス党はユダヤ人迫害政策を進めていたため、ユダヤ人たちへの迫害を理由に、イギリスやアメリカやスペインなどから開催地の返上やボイコットの動きをみせていた。物理学者のアルベルト・アインシュタインなど、ドイツに帰れなくなり、アメリカで亡命の手続きをとった。

 これを知ったヒトラーは一時的にユダヤ人政策をゆるめ、演説から有色人種批判をはずすことにした。

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