第一章 1924年 大阪
稲田悦子は関東大震災の翌年、1924年2月8日に大阪で誕生した。
3人姉妹の末娘。大正13年、十干十二支の最初の組み合わせに当たる甲子年(きのえねのとし)で、60年に一度の縁起がいい年でもある。(ちなみに僕の曾祖父の阿部信行は、このとき48才。ドイツとオーストリアで武官生活を終え、少将に昇進したばかり。関東大震災では関東戒厳参謀長に任じたそうだ。)
母方の家業は貴金属商で、母のハツが養子をとった。父の光次郎は進歩的で、新しい文化やスポーツはすぐに試してみたいほうだった。「稲田時計店」という店をもち、時計や宝石を店頭に並べ、住み込みの従業員や女中もいて、卸もしていた。悦子の家は関西だったので、地震の被害はなかったし、親戚もいなかった。むしろ復興景気のあおりを受けて大繁盛してしまった。
悦子が生まれてまもなく、ラジオ放送がはじまる。光次郎はすぐにラジオを買ってきて、家族中で夢中になった。受信機は鉱石式のものが10円、真空管式が120円した。
午前8時半から君が代の演奏ではじまり、東京のニュースやラジオ劇や落語。山田耕筰や近衛秀麿のオーケストラや長唄など、夜は9時40分頃の終焉まで、興奮の連続であった。
「うちはたぶんお金もちのほうだったと思います。父も母も”ハイカラさん“だったんだと思いますよ。好きなことをやらせてもらって、幸せでした。だから、戦争前は”華麗なる昭和“というイメージしかないんですよ。姉が2人いて、最初は一緒にスケートしていたんだけど、そのうち飽きてしまい、つづいたのは私だけでした」(稲田悦子談)
日清日露戦争と第一次世界大戦を終え、日本はアジアの小国だというのに、建国以来負け知らず。欧米から脅威の眼差しを注がれつつあった。
欧米に追い付け、追い越せ、としゃにむに突っ走ってきた日本。
明治維新以来、商売人や軍人たちは、かつてないほど活気づいていた。
その反面、税金や徴兵といった負担が人々の生活に重たくのしかかってきた。
日本国民はそれぞれ3年の兵役が義務付けられ、働き盛りの働き手を引き抜かれてしまう。現役が2年、残りの1年が帰休という制度が昭和2年までつづいた。
貧困にあえいでいたのは主に農民で、働き手を兵隊に取られ、とくに東北は冷害がつづいて凶作に苦しめられた。農村では娘を都会の女郎屋に売らなくては家族が食べていけず、「欠食児童」という言葉も流行した。
かつて日露戦争で有名な戦艦「三笠」にしても、
「日本は生糸を売って、イギリスから買った軍艦を買えばいい」
というシーンが「坂の上の雲」でもあった。ところが、アメリカで化学繊維のメリヤスが発明されてしまうと、その養蚕業が前ほど高い利益をあげられなくなってしまった。
ロンドン軍縮会議で軍備拡張が規制され、大蔵大臣もこれ幸いとばかりに、軍事費の削減をぶちあげた。それまでと一転して、「軍縮」の時代となり、大勢の将校クラスが退職させられ、不景気の世に投げ出された。
やがて彼らは平和と米英を激しく憎むようになり、過激な政治団体や思想が生まれ、負のスパイラルを描かれていく。
「私が生まれた前年に、関東大震災があったそうなの。でも、関西で生まれ育ったし、あの頃は今みたいに報道も発達していませんでしたから、大人になってから惨状は知りました。一緒に練習していた東郷いせさんという方、ちょうど震災の1週間前に生まれて、大変だったという話は何度も聞きました。いせさん、スケートもドイツで習っていたから上手でしたよ。お父様が東郷茂徳という外務大臣で、お母様がドイツの方で、とても美しい方なのよ。外務省の方と結婚されたから、外国に住まわれているわ。
うちは大阪で”稲田時計店“という店をだしていて、従業員もたくさんいて、昔からいる番頭と女中頭以外は若い人ばかりでした。うちで働いている人は幸せだったんじゃないのかしら。住み込みも何人かいてね。母は”おいしいものを食べさせないと、働き手が居ついてくれない“と言って、三度の食事にはとても気をくばっていたもの。カレーライスはもちろん、ジャガイモをゆででコロッケをたくさん作ったり、ときどきはトンカツもあげてね。トンカツの日は朝からみんなウキウキしていたのを覚えています。休みの日はみんなを連れて活動写真や神社詣でに出かけ、そうそう、初詣でとお花見の宴会は毎年かかせない行事でした。お節句とか盆踊り、お月見など、季節の風物詩も必ず母がしきっていましたわ」(稲田悦子談)
東郷茂徳といえば、太平洋戦争のときの開戦と終戦のときの外務大臣のはずだ。
やはり日本のフィギュアスケート関係者には、「東京裁判」がらみの子孫が意外といるし、元華族や皇族に近い家柄はまったく珍しくないようだ。
さらに織田信長の末裔や徳川家の遠縁、大臣や外交官の子孫・・・。
それから、親が満洲でスケートをはじめたというコーチも多い。
テレビタレントのタモリの母親も結婚する前は、スピードスケートでオリンピックをめざしていたそうだ。
満鉄映画の看板女優だった李香蘭こと、山口淑子も「迎春花」という映画でスケートを披露しているし、「楽しい満州」というレコードでは「なんの寒かろ スケート暮し」と歌いあげている。
悦子は満州で何度か慰安公演で2歳年長の李香蘭と会っている。とはいえ、当時は日本人だということを隠していたから、日本語を話せることを知らなかったそうだ。
さて、悦子が生まれた1924年は、スポーツ面では躍進の年といえるだろう。
まずオリンピックが春と夏に分かれて2回、同じ年、同じ国で開催されることになった。
この年の1月25日に第一回冬季オリンピックがフランスのシャモニー、7月にはパリで行われ、パリ五輪には18か国が参加し、400人の選手が出場。
欧米に追い付き追い越したい日本は、当初これに参加する意向で準備してきた。だが、関東大震災が起きて自粛する道を選んでしまった。
同年、甲子園球場と明治神宮外苑競技場が竣工されている。
甲子園球場は完成するまでは枝川運動場と名づけられていたのだけれど、甲子年にちなんで「阪神電鉄甲子園大運動場」と看板表記された。
起工式の後も、遊園地や動物園や水族館やテニスコートやプールが次々と設けられ、この一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。冬は甲子園の駐車場の一部がオープンスケートリンクになり、スケート教室も開かれていた時期がある。
「六甲山の上も川や池が凍るとスケートでにぎわったものです。ほら、天皇陛下の弟殿下が広島の海軍兵学校にいらっしゃってね。秩父宮殿下も高松宮殿下も武田宮殿下も、それはもうフィギュアスケートが好きで、しょっちゅういらっしゃった。でから、ロープウェイも早くからできたんですよ」(稲田悦子談)
広島県江田島の海軍兵学校に通われたのは、三男の高松宮だった。
昭和天皇の弟で次男の秩父宮がスケート愛好家で、吹上御所の池が凍ると高松宮や三笠宮や武田宮を呼び出し、イギリス仕込みのコンパルソリ(規定)を指導された。
「スポーツの宮様」としても有名な秩父宮は、子供の頃は御所で相撲好きの兄弟や鈴木貫太郎侍従長ら側近と相撲ばかりとっていた。それがイギリス留学ですっかり各種のスポーツにめざめると、相撲は飽きてしまった。
大正天皇は4人の皇子に恵まれ、4人とも剣道と馬術を習い、あらゆるスポーツを体験した。
後の昭和天皇、兄の皇太子はともかく相撲が好きで、すべての技を試したし、ニッカボッカーをはいて、ゴルフにも夢中になった。
結婚された後も御所に相撲を呼んで、皇后と一緒に天覧試合をたびたび楽しまれた。というのも、皇族だろうと、戦前は相撲場に女は入場を許されていなかったのだ。
弟殿下たちはテニス、ゴルフ、野球、登山、ハイキング、モーターボート、スキー、スケートといった、アウトドアの面白さに夢中になると相撲は飽きてしまった。
格闘技は性に合わないらしく、剣道や柔道は男子の心得だったので習うには習ったが、ボクシングは見るのも嫌だと思った。
とくに秩父宮は、
「テニスはすぐに人が集まってくるから」
という理由で嫌になってしまい、登山に魅了された。
マッターホルン登頂など、年老いた随行者たちには、ぞっとするような試練となり、遭難するようなことがあったら自決するつもりで、小刀が用意された。
もともと丈夫なわけではなかったが、ともかくスポーツが好きで、お付きの者たちが、「お疲れなのでは・・・・」
とはらはらしてしまうほど練習熱心だったから、上達が早かった。
秩父宮邸の3階の屋根裏は仕切りがなく、夜中に内緒で練習していても、天井の上でゴロゴロと音をたてるので、護衛たちにも筒抜けであった。勢津子夫人といっしょに秩父宮はローラースケートを練習していて、弟夫妻もたびたびそこに加わった。
「戦争前からスケートはものすごく人気があったんです。外国から選手を招待してアイスショーもあったし、愛好家の方たちもたくさんいて、日曜日なんかは本当に人も多かったです。もちろんフィギュアスケートだけじゃなくて、スピードスケートもアイスホッケーも、他にもスケート靴をはいたまま剣道をしたり、テニスをしたり、竹馬をしたり、マラソンみたいな持久走とか、いろいろな競技がありましたよ」(稲田悦子談)
1924年3月15日に創刊された月2回発行のスポーツ専門誌「アサヒスポーツ」をめくると、まだ野球シーズンには早いせいか、スケート、スキー、ラグビーの記事が多く目につく。
1925年3月1日号の表紙は、「日光金谷ホテルでスケートの興ぜられる久邇宮朝融王同妃殿下」というキャプションで、今のものとあまり変わらないスケート靴を履いた2人が氷の淵で、木の長椅子に腰かけ、幸せそうに微笑んでいる。
久邇宮朝融王といえば、昭和天皇の奥方の兄にあたり、前年はマスコミを婚約破棄で騒がせた。年があけた2月、元婚約者も久邇宮朝融王も無事それぞれ別な相手と結婚したばかりだったので、タイムリーな表紙といえそうだ。
表紙の裏は海外通信社からの写真で、氷上テニス。ふつうのテニスと同じようなコートで、スケート靴をはいた4人がダブルスでラケットを手に対面している。
「今回は久邇宮朝融王のお供をしてまいり、妃殿下は今日にして僅々三日目に 御二人共既にバックワードを御習得被遊」(「アサヒスポーツ」1925年3月1日号より)およそ3ページに渡って青森県の盛岡、宮城県の仙台、栃木県の日光、長野県の諏訪湖のスケートめぐりについて、日本スケート会の創立に尽力した川久保子朗が、練習風景や内容をレポートしている。
川久保子朗はまだスピンもステップもなんだかわからなかった黎明期に、本や雑誌を海外から段ボール2冊分を集めてフィギュアスケートのことをひとつ、ひとつ学んでいた。
「今回は久邇宮朝融王のお供をしてまいり、妃殿下は今日にして僅々三日目に 御二人共既にバックワードを御習得被遊」(「アサヒスポーツ」1925年3月1日号より)
他にも米国クリーブランドのプロフェッショナルスケーター、オシツケー君は12個並べた樽を見事に飛び越し、樽跳びの世界記録を保持しているという記事と写真。かなり興味深い。昔のスケート靴は今ほどジャンプには向いていなかったという話だが、かなりの跳躍力だ。
「同君は写真の示すとおりあまり高くは跳ばないが、猛烈なスピードと腰のひねりぐあいで十分跳び越すのだそうだ」
とキャプションに記述されている。
スピードといい、ジャンプといい、陸の上では到底できないことが氷の上ではできてしまう。日常の次元から切り離され、人間なのに人間ではない、スーパーマンか魔法使いか何かになったような新しい感覚。楽しくって、美しくって、気持ちよくって・・・。それがスケートの魅力のひとつといえそうだ。魔力といっていいほど、人の心をわしづかみにしてしまうところがフィギュアスケートにはある。実際その魔力に取りつかれてしまった男女は世界中で後をたたなかった。
うっすらと霧がかかった屋外スケート場は、銀色の折り紙がひらひらと舞うようにはかなく、幻想的だった。
「ともかく、世の中にさまざまなスポーツがあるが、スケーティングほど身体のためになって面白いものは知りません。でも、これをしっかり身につけるには、ステップ・バイ・ステップですね。天性もあるのでしょうが。でも、氷とエッジの感触がぴったりとのっているときの醍醐味、溶けるような触感、音楽と滑って音と一体になっているときは、本当に幸福ですわ」(稲田悦子談 雑誌「丸」インタビューより)
「アサヒスポーツ」では美津濃が「東洋専門大商店」というキャッチフレーズで、裏一面に広告を載せているし、他にも運動具店や筋肉痛が薬が宣伝を載せている。やはり関東大震災の影響なのか、そうした広告主の会社は大阪の住所が半分以上をしめていた。
六甲山や海に囲まれた神戸、灘、西宮、芦屋、宝塚、伊丹、尼崎といった風光明媚な阪神一帯は、神戸は東洋最大の港湾都市、大阪は日本最大の経済都市として、近代化がめざましかった。世にいう阪神間モダニズムである。
西洋文化の影響を受けながら、独自の生活様式をはぐくみ、関東大震災の後に移住した実業家や芸術家たちも多かったのだ。
冬になると、東北や北海道行きのスキーやスケート特別列車の運行が時刻表に組み込まれ、アサヒスポーツや駅の看板で広告やポスターを目にするようになった。
秩父宮や高松宮も、元老西園寺公望の息子や孫たちと一緒に、冬の旅を楽しみにしていたのである。
やがて、満州のほうでもスケート列車を盛んに宣伝するようになった。というのも、日露戦争の後、1905年に関東州の租借権と満鉄(南満洲鉄道)を得たとき、日本人は面倒な手続きを取らなくても、自由渡航が認められるようになった。
さっそく朝日新聞の主催で「満韓巡游船ろせった丸」が運行されて379人が参加し、文部省と陸軍省の提携で全国中学合同満州旅行が行われ3694名が戦跡を観光している。夏目漱石や与謝野晶子のような有名人を満州旅行に招待し、宣伝したせいか、1924年には満州国への旅行者が1万人を超えていた。修学旅行で訪れる学校も少なくなかった。
広野なのでスキーではなく、スケートとソリは交通手段のひとつでもあった。スケート靴やソリを陸軍におろす工場も作られた。
昭和の日本は大まかに言ってしまうと、この満州国の存続と権益をめぐって、こぜりあいを10年もつづけ、ぽっとでたナチスドイツに頼って、世界大戦を引き起こした。
1932年3月1日、傀儡国家ながら、満洲国建設宣言。新首都と決めた長春を新京と改名、年号は大同とし、漢、満、蒙、鮮、日の5族協和をあらわす五色旗がひるがえった。
同年、12月16日、東京・日本橋の白木屋デパート4階オモチャ売場から火事がでて、死者14名、負傷67をだした。店員の死亡者13人は女性ばかりで、脱出ロープにすがって、和服の乱れを気にして、転落死した者が多かった。
冗談ぬきで、これ以後は和服でも下着を着用する習慣が定着し、洋装が広まる。
悦子の小学校では3年生になると、裁縫の授業で1年生のためのズロースを縫うようになった。
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