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ヒトラーと握手した少女 稲田悦子物語

〇あらすじ

 ナチスドイツの総統アドルフ・ヒトラー総統と唯一、握手したことがある日本人の少女、それが稲田悦子でした。

 オリンピックに先だってドイツの首都ベルリンではヨーロッパ選手権が行われ、開会式でスピーチをしたヒトラーが、「あの日本人は何をしにここに来たのかね?」と側近に質問したのがはじまりです。

 オリンピック強化選手になってからは、国会議事堂の隣にあった山王スケート場で練習した彼女は、幼いながらも歴史の傍観者でもありました。

 はじめて記事にしてくれた新聞記者は尾崎秀実といい、後にゾルゲ事件で死刑になります。

 外務省は当時、世界から孤立してしまった日本を国際舞台から退陣させないよう、東京と札幌オリンピックを実現させるため、尽力していました。

 悦子は山王スケート場で練習するとき、外交官の来栖三郎が自邸に泊めてくれて、吉田茂の娘の和子とも親しく交流するようになります。和子は飯塚の麻生家に嫁ぎ、麻生グループは戦後、飯塚にスケート場をつくります。息子の太郎(麻生太郎)はスケートもうまかったのですが、クレー射撃でモントリオール五輪に出場しました。 

 終戦の年に生まれた来栖三郎の初孫は、後に「神宮の恋」で星野仙一と結婚します。

 226事件で最後まで占領されたのが、この山王スケート場があるホテルで、悦子は陸軍のスケート場での演習も何度も目撃しています。八甲田山の遭難があったから、陸軍ではスキーやスケートを演習に取り入れていたのです。

 そのときの指導教官の一人が昭和天皇の弟殿下、秩父宮でした。

北京の会社に就職して満州を巡業した稲田悦子は、終戦の年に結婚して翌年、男子を出産しています。もっともこの結婚は2年半で終わり、イタリアのミラノ世界選手権に出場した後、インストラクターに転向しました。

2002年、胃がんで亡くなる2か月前まで、稲田悦子は神宮スケート場でインストラクターとして後輩を育成につとめたのです。(了)。

〇目次

○プロローグ

○1924年 大阪

○大阪朝日新聞ビル

○米国レイクプラシット五輪

○大阪歌舞伎座ビル

○スクールフィギュア

○チャプリン来日

○復興

○名物外交官たち

○初期のオリンピック

〇全日本フィギュアスケート選手権

○芝浦スケートリンク

○ガルミッシュ=パルテンキルシェン冬季五輪

〇駐在員夫人の贈り物

〇ソニア・ヘニー

〇226事件と山王スケート場

〇凱旋帰国

〇東京オリンピック招へい

〇ベルリン五輪

〇スケート留学の夢

〇札幌五輪の決定と返上

〇戦争の足音

〇日米開戦

〇北京で就職

〇結婚と離婚

〇再婚

〇2003年、エピローグ

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