見出し画像

爽籟

 「夏の記憶」「夏の亡霊」を書いた時は本当に苦しくて、虚無感や絶望で頭がおかしくなりそうだった。
 他の何者にも救われようがなかったので、言葉にする事で少しでも今の絶望を捉えたいと文字に縋った。結果として、あの2本を書く事で私はなんとか耐える事ができたし、なんと、それによって呪いから割と解かれる事ができた。


 対人援助という仕事をしていると、多かれ少なかれ誰しもが「呪い」にかかっている、としみじみ感じる瞬間がある。それらの発生源は誰かの言葉や態度だったり自分が生み出したものだったりと様々だけど、それらの「呪い」に大半の人は気付いていない。
 そんな「呪い」をご本人との対話で見極め、虎を捕まえる一休さんのように「これがあなたにかかっている呪いかもよ」と本人の前に晒してみせる… みたいな事を我々は普段やっている。

 「呪い」というものは見つけられ、本人の眼前に晒されるとなぜだか途端に弱体化する。更にそれらを腑分けして周りを丁寧にほぐしてあげると、ペースは人それぞれだが少しずつほぐれていく事が多い。ご本人を見ながらほぐすペースやほぐし方を見極めるも私たちの仕事だ。
 「ほぐす」は「祝ぐす」でもあると思う。私たちは言葉で呪いをほぐし、その人の存在を祝福している。

 どうやら私が普段仕事としてやっている上記のような事(+α)を、おそらく私はセルフで行った… という事らしい。
 結果から言うと、私は書く事によって自分の呪いを見つめ、ほぐす事ができてしまった。すごい。頑張った26年のおかげでこんな事までできるようになった。


 とはいえ、特に何かが変わった訳ではない。日々の忙しさも、資格やら研修やらがみちみちに詰まった予定も変わらずだ。
 ただ、己の身を焼くような焦燥感がなくなり「今ここで死んでも別にいいのだ」と思えるようになった。今の自分で良いのだと、「あの夏」を殺す復讐のために必死で何かを成さなくても良いのだと、ようやく思えるようになった。
 夢中で何かを作って何時間も経ってしまっても、素敵な何かを見つけて立ち止まっても、大好きな人たちと何時間も馬鹿笑いしながら過ごしても良い。その美しさや素晴らしさや楽しさを、苦しまずに享受できるのだ。それらを想像しただけで幸せすぎて、ちょっとくらくらしてしまう。

 当たり前だがあの夏があった事実自体は消えない。物心がつく前に魂が殺された経験から培われた思考の歪みや価値観は私の存在とすっかり癒着してしまい、何がどう影響しているのかさっぱりわからない。私の生きにくさの、ひょっとしたらほとんどはあの夏のせいなのかもしれない。

 そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。でも今は「これでいい」と思える。それは自分にとって何よりの祝福だ。
 勿論今までの人生を否定する訳ではない。今この場所にいる事は自分の夢であった事は確かだし、そこまでには、怠惰な私のままではひっくり返っても辿り着けなかったであろう道程がある。

今までの私、ありがとう。もう命を削ってまで頑張らなくていいんだよ。

 そんな言葉をかけながら、夏が終わって新しい季節の爽やかな風が吹く新しい世界を、今日も幸福に生きている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?