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きみに言葉が届くまで

いしかわゆきさんの「書く習慣」を読んだ。

わたしは元々「書く人」だった。中学生から25歳くらいまでブログを継続的に書いていた。

中高生の頃は母と共同ブログで、二人してお笑いライブレポを中心とした日記を書いていた。高校2年生で使用していたブログサービスが終了してしまうときは、教室の最前教壇前の席、気に入られている先生の前でガラケーを必死に隠しながらポチポチ最後のブログを更新した。並行してmixiもあり、そこの日記ではよりはっちゃけた文章を書いていた。mixiはこわい。

高校を卒業したあとは俳優の養成所に通っており、そこでの卒業公演の役作りとしてはじめた。役の獄中日記としてはじめたつもりだったがそれについてはひとつも書かず(今思うとうまくやればお客様が楽しかったな)に、役者個人としてのアウトプットや告知ブログとして機能した。

このnoteのアカウント、記事は消しているが前身はタロット日記のつもりだった。タロット日記は手書きのほうがハマることがわかった。手書きでも続いていないけど。

2019年頃から手書きの習慣は仕事内でちょこちょこ、仕事整理も含めてわりとしていた。誰にも見せない、私のためだけの文字を書いた。

2010年頃は文房具沼に右足をしっかりつっこんでおり、2年ほどで一度命からがら抜け出したはずなのだが、この2019年頃から手書きについて環境を整えようとして文房具沼に少しずつ、再び浸かり始めた。

2021年にインスタグラムでシステム手帳や文房具のハッシュタグを見つけ、手書きでいわゆるジャーナリングについても知ることになる。自身の思考回路が脳直で行動するだけでなく、そこに意味を考えるようなロジカルさに少しずつ切り替わっていた。

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そのすべての「書く人」としての行為で「振り返る人」がセットになっていた。カラオケも自分の歌声を録音して聴き直すことが好きだったりする。

当時と今の私は考えていることが違っているはずなのだけれど、文章や歌を振り返ると今の私に必要なことを当時の私も考えている。そんな言葉たちが届く。腐っても私、一周回って私。自分の敵は自分かもしれないけど、自分の味方は自分しかいない。そんな私に何度も救われてきた。

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この記事にたどり着くときは、きみが書くことを迷ったときな気がするよ。書くのめんどくせ〜とか、テキストと手書き写真がごちゃまぜになってて私以外の読者がいたとしたら読みづらくなってないかなとか考えているよね?

大丈夫、ここはきみがきみのために書き続ける場所。どんな形でも、いつかのきみを救えるよ。形や届ける相手は大切じゃない。

そんなふうに自分の「書く習慣」について向き合いながら読了した。

きみに言葉が届くまで、いつかの私が書きつづけるよ。

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日記、かきまーす!

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