見出し画像

備忘、『夏の追憶と餞』に際してより抜粋──過去を俯瞰し弔うため

 先日、ボーマス53にて頒布の記録集『夏の追憶と餞』に同梱された備忘録より、一部を抜粋して。

 本作、『夏の追憶と餞』は、令和五年の皐月の頭に制作されていた『追憶、かつて経験したはずの喪失と郷愁について』という作品を全てのベースとして制作されたコンセプトアルバム──記録集である。元より作品集を制作する予定はしばしばとあったのだが、ふとした勢いに身を任せて半ば突貫的に作られたものとなっている。
 夏を描く、というよりも、本作においては「追憶」と「餞」の部分に重点を置いたテーマ性をしている。死にゆく、或いは既に死んでしまった季節や景色を想うと共に、未だ心象風景から想起する感情、特に郷愁の類の形をした餞についての考察作品群なのである。

 夏の風景、というのはもはやテンプレート化したノスタルジー演出の手段である。アニメや小説、イラスト、映画、無論音楽の分野においても、日本の夏というのは言い知れぬ情緒と侘しさを抱えたものが大変に多く存在し、もはや「夏もの」と言えるほどの一大カテゴリーなのではないかと感じる。されども、夏を描くものは基本的に夏の風景やいち出来事を描くことに特化している。即ち、私たちが夏ものを受け取るときに思うこと、又は夏ものの制作者たちの意図するところは、既に失った過去の夏の面影に対して追体験することと非常に近しいのではないかと思う。それは実体験に重ねることもあるだろうし、はたまたは一度としてなかった(何処にもないはずだった別の世界線の)夏を体験するためでもあるだろう。とかく、夏ものを描くとき、または受け取るときには体験性や物語性が主軸に置かれている場合が多いことを考慮すべきだろう。
 常に私も作品を制作するなかで知覚することなのだが、特に文章と音楽の形態では、完全に作家の意図した形や心象風景を伝達することは不可能である。言語は何処まで具体例を尽くしても、結局は唯一絶対のものを指し示せるわけではない。仮にドラマなどの映像作品であれば、同一の映像を多数に共有できるのだが、しかし言語はそうとはいかない。単に「夏」という言葉一つとっても、各人が想起するイメージや心象風景は全く異なる様相を示すのであろうから、同じ文章や歌詞を読んだからと言って思い起こすストーリーや風景は千差万別となるのは想像に容易い。抽象性の高いこれらの媒体では、確固とした共通意識や同一性というものを達成するのは困難なのである。
 しかし、共有しがたい抽象の隙間を埋め合わせるように、私たち受け手は想像と補完をする。音楽や言語で抽象的に、やや低めの解像度で大枠が示されると、その間の文脈やデティールの部分は各人が持てる感情や過去の記憶や空想などを用いて彩るのである。伝達過程で変化するもの、各人が差異を引き起こすもの、それらを今回の作品群に宛てた主軸として据えようと考えたのは、まさに上記のような「夏もの」についての考察をしていた時期とほとんど同時期なのであった。

 夏を描くとき、既に物語性やシチュエーションに訴えかける情緒は市場に飽和しているし、そのために自身が制作するまでもなくそうした体験を享受することが出来る。しかし、夏という季節は不思議なもので、実際には体験したこともないような架空の幼年期の夏を、恐らく誰もが心のうちに持っていて、かつ何かの拍子にそれらを想起できるのではないだろうか。それらは、今まで体験してきたフィクションの夏作品やステレオタイプから形成されているのだろうが、それにしてはあまりにも形成元が曖昧なほどに固有性を持っていることさえある。私にだってそうした、「何処にもないノスタルジー」たる架空・想像上の夏の記憶が存在していて、故に夏を描くときにはそうした記憶由来の物語性を入れ込んでしまいたくなる。今更ながら、自身で描く夏の世界にかつての面影を求めてしまうのだ。
 この『夏の追憶と餞』においてベースとなるのは、やはり最終的には私自身の何処にもないノスタルジーと、それらを大いに反映した『追憶、かつて経験したはずの喪失と郷愁について』という作品である。されども、このような音楽と詩作の形で描くのであれば、もっと伝達時に発生する変化、個々人の心象風景と深く繋がる構造であってほしいと願っていた。そこで、冒頭でも述べた通り、「追憶」と「餞」の部分に重点を置いたテーマ性をその上に発展させることとしたのである。即ち、ここでの試みは音楽や歌詞を通して、受け手が好き好きに追憶し、その時に想起する感情──過去からの餞たる心証を咀嚼することを第一目標とした。この作品の内容を、固有の何処にもないノスタルジーへと受け手自身が変換・翻訳して、各々が最もよいと思える感じ方をしてくれたならば、是幸いと言える。

 他方で、『夏の追憶と餞』は、一種のくだらない哲学を延々と述べている。
 しばしば、この作品を縦断して出てくる言葉としては「死」と「弔い」である。収録作品の『藍の遺影』などに代表されるように、この作品群は夏の出来事について描いている傍らで、夏は既に過ぎ去って記憶されたもの──死んでしまったもの、として取り扱っている。夏の持つ魔性的な、魅惑的な出来事に没入して追体験するものとは一線を画し、過去を俯瞰するように、それこそ写真や日記を眺めるような遠さを持ちながら論じているのだ。同時に、そこから想起する心象はリアルタイムで出来事を味わうような新鮮な高揚感ではないだろう。もう少し色褪せた、まさしく郷愁や侘しさや切なさといったものである。寧ろ、死んでいった夏の記憶を振り返るときに思い起こすのは、恐らく餞の類なのだろう。餞とは、旅立ちなどの別れに際して贈られるもののことを指す言葉である。死人に対して贈られるのは手向けと呼ばれるが、私たちから死人に向けて何かを送る場合に使われる言葉なので、誤用には注意されたい。この二点からも理解できるかもしれないが、実に夏の追憶と餞という題名そのものが、この作品群の基本観念を体現している。過去の夏を振り返り、その時に去来する郷愁を感ずること。つまりそれは、死んでいったものからの贈り物を再び眺めることと同義なのではないか、と。故に郷愁は、どこかで死に際して受容の過程で感じる苦痛とも共通し、同時に今なお夏の死を受け入れられない部分の証左なのではないだろうかとも思うのである。郷愁は非常に複雑な感情であって、今はもうないものを想うという性質は、まさに死んでしまったものに心を痛め、徐々に弔うことと深く共通しているはずだ。
 しかし、記憶というのは残酷なもので、実在を失ったものは徐々に忘却の一途を辿ることになる。忘却は、ある場合にはそのものの面影をぼやかしたり思い出させなくさせる「消去」の形をとりながらも、またある場合には記憶上で元の面影を多少なりとも作り変えてしまう「変形」の形をとることもある。忘却した結果、もう過去のデティールも思い出せず、単なるイメージや心象だけがぽっかりと残されてしまうようなことも往々にして起こってしまうのだ。脳内か、画像か、音声か、どれにせよハードウェアに記録されたものというのは軒並み劣化していくものであって、恐らく忘却というのはこの世界すべての原則なのだろう。どんな風景や、大いなる建造物や、想像を絶するような規模の地形ですら、いずれ変形して跡形もなくなっていく。もちろんのこと、それに際して特に代謝速度の速い感情ですらも忘却の対象物なのでああるが、少なくともそれに関しては記憶に対する忘却とはやや性質が異なるのである。感情は、気取った言い回しをすれば「生き物」だ。感情は保存することなどできないし、刻々と変化したり、程度の深浅を行き来することが常である。但し、感情の凄まじいところは、あるトリガーを引いたときに再生することにある。もちろん完全な形ではないにしても、一度記憶をリブートしたとき、特に感傷の類は一気に込み上げてくることがある。その点で、感情は完全に死にきれない──残滓のように生き続ける性質があるとも言えるのではないか。

 夏の追憶と餞もまた、結局構造としては二項対立なのである。追憶=過去の情景に対応するように、餞=現在まで抱え続けた感情が存在する。それは、死に対して弔いが存在することと同じようなものだ。未だ生きているこの時間から、すっかり静止してしまった在りし幼年期の憧憬を眺めて悼むことこそ、本質的にこの作品を包括しているのである。これまで長々と綴ったが、結論は以下のように辿り着く。私たちは、その幼年期や何処にもないノスタルジーの形をした物語に没入し生きた擬似体験をすることで、附属的に過去を追想してきた。しかし、私は附属的に行われてきた追想をこそ、より深く洞察したいのである。敢えて物語や体験に対して写真を眺めるような遠さで俯瞰し、その時に思い起こす心象と向き合い、既に帰らぬものもなった季節や幼年期を悔やみながらも、その不在を受け入れていかなければならない。幼少期以来抱え続けた餞の感情を、少しずつながら弔う営みをしよう、という趣旨なのだ。そのために、ここで描くような出来事は飽くまで抽象を貫き、各々のノスタルジーへと容易に解釈・翻訳が可能なように意図されている。飽くまでも物語を伝えるという目的ではなく、この作品群が各々が過去の憧憬を眺める際の補助線や先導となれば良いと願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?