ツールを増やすこと、使うこと

 注意事項である。
 筆者、夜風見自身が大した人間でもなければ、特筆した成果を上げるほどの実力もなく、まして並々平々凡々とした人間の常識からさえ零れ落ちた落伍者であることを前提とした寝言のようなものであるということをご理解頂きたい。
 つまり、単なる机上の空論である。

知識を使うとは

 本文はここから始まる。

 私、夜風見は大層アンバランスな性能をしている。およそ創作関連特化型、他の分野においては嘲笑を受けても仕方ない程度には劣ったものであることは言うまでも無い。
 そんな私が創作に活かすために、稚拙ながら会得した技能が幾つか存在する。そのうちの一つに思考整理の技能があり、そこから派生した一つの観念についてここでは述べる。

 「アウトプット」と「書留」がある。思考整理の手段としての大きな枠組みがアウトプットであり、そのアウトプットにも数多の種別がある。その一種が書留であり、まさにこのnoteはアウトプット活動の一環だ。こうして文字に起こすことで、脳内の思考や価値観をより鮮明にしつつ、新しい思考をするためのスペースを確保するというものだ。
 この手段は、ちょっと調べるとそこかしこで出てくる王道の思考整理方法であるため、ここに我流要素は一つもない。無論私も先例に倣って行っている。

 ところで、こうした「思考整理のための知識」は、果たして本当に有用なのか?
 知識は結局知識、として利用しないまま留まってしまうと、非常に利用性が低いものとなってしまう。どれだけ有用で貴重な知識でも、利用しないならば腐ってしまう。

 ここからは、知識を一つの例えに直して扱おう。

ツールとする

 知識はさながらツールとなる。ものによってツルハシであったり、バーナーであったり、机であったりに形容できるかもしれない。とかく利用が可能なのだ。
 義務教育は素晴らしい。何故なら、義務教育はこうしたツールの基礎の基礎を全て授けてくれるからである。ネジや、ハンマーや、ドライバーなど、人生上頻りに使うツールやその応用物を一通り教えてくれる上にそれらを使用する訓練までもが詰まっている。知識初めてセットが義務教育だ。
 勿論、ツールは何かしらの用途がある。ツールの用途を、ここでは大雑把に「コレクション」と「実用」に分ける。前者は想像しやすい、ツールをひたすら収集するという用法であり、つまり勉強と言うことになる。嫌々と勉強するならば、さながらコレクションから労働に様変わりする。まるで時間を費やして、ガラクタを集めるかのような無駄な行為に思えるだろう。一転、この世界には好きで好きで勉強するという知識欲の化身も居るのだが、彼らの視点に立てば勉強とは宝石集めにも等しい快楽となる。どちらにせよ言えるのは、コレクションもとい勉強という言葉には往々にして「収集することがもっぱらの目的」というニュアンスが含まれる。故に知識は集まるとしても、その実益は薄いか、全くないかも知れない。ツルハシだろうとドリルだろうと、集めるだけでは真価を発揮しないことは言うまでも無い。
 対して「実用」は、コレクションの先にある。むしろ実用はコレクションの段階を経ること無く辿り着くことが出来ない……などという話は当たり前すぎる。ドリルを使う時には手元になければならないのだから。さて、実用と言うならば何に対して用いるのか。ここでは大きく「問題解決」と括る。数学などはまさに実践特化、問題解決のためのツールが形を成したようなものである。このように知識は問題を解決するためのものであることを端的に示している。知識は、乱暴に言えば問題をぶっ壊すために生み出された兵器とも読めそうだ。
 そしてここからが厄介なのだが、当の問題は様々な形をしている。岩であったり、鉛の塊だったり、或いは豆腐だったり。材質も様々なら、そのサイズ感、形状、重さ、性質までもがまるきり異なる。それらを破壊するための経路や方法を導き出すための思考、またそれらを破壊するためのツールの用法を身につけて初めて知識は猛威を振るうのだ。

 ここまでを簡単にまとめよう。
 知識をツールと見立てれば、勉強をして収集し、そして実用に絶えるような思考と練習を積む必要があるのだ。
 よって、前章の問いである「思考整理のための知識」は、果たして本当に有用なのか? というのに対しての答えは、実用出来なければ有用では無いということである。
 付け加えて述べれば、知識は全てが本当のことである保証はないし、仮に本当であるとしてそれを実用しようとしても自身の適性に合わなければ使えないことも大いにあり得る。得たもの全てを使いこなせる保証は一つもない。得手不得手は知識の利用にもあるのだ。

めちゃめちゃ汎用する思考を持つ

 ところで、義務教育では多くのツールとしての知識を授けられるが、人によってはある分野の知識が全く使えなかった……つまり苦手な分野があったというケースもあると思う。そうした苦手なツールがあると、どうしても壊せない問題というものも出てくる可能性は確かに否めない。専ら一つのツールのみ使用することを想定したような、まさにテスト問題などでは致命的だ。ただし、現実問題は思った以上に多くの切り口があり、その分多くのツールが効果を示すことも多い。
 つまり邪道が通用する。ツールを正当な用法以外で用いてのトリッキーな解決が可能なのだ。まさにツールを汎用するということである。
 その為に欠かせないのが「思考」である。

コツは思考にあり

 知識を如何に用いるか、そのための練度はまさしく「知識を使う際の知識」を司る思考にある。より取っつきやすい語彙に直して、それを地頭や才能とも言えそうだ。
 知識は先述のようにツールだ。ドリルのようなものだったりする。
 対して知識はと言うと、ややこしいことにツールを使うための知識であるということになる。例えれば、相応しい思考が出来ると言うことはドリルに付属するマニュアルを持っていることに同義となる。
 此処までの例えからも明らかなように、知識は飽くまでツールであり、数を揃えただけでは良いとも言えない(のだが、ツールを数多揃えられる人間は、その手法や収集効率などに関しての思考が鋭い、つまり頭が良くツールを使い熟すだけの思考を持ち合わせている可能性が大いにあり得るのもまた事実である)。いくらツールの多さをひけらかしたところで、それの利用価値を示せないとなれば、そこにはファッションのように「着飾るもの」としての側面のみに留まってしまう。逆に、ツールこそ少ないが思考の整っている場合にはそれらを大いに活用できる。それどころか、本来の用法を大きく超え新たな活用をすることもある。また、思考が備わっている場合には「ツール同士の類似点」を発見することが可能となり、多くのツールの扱いや理解をより速められるという利点が存在する。思考は非常に柔軟に活用できるのだ。

知識を嗤うとは

 少し逸れた部分の話をしよう。
 他人の知識や知見を嗤う、ということが往々にして世間には溢れている。
 例示に翻訳するならば、他人のツールの不足を嗤うこと、ツールの利用方法に際する不足を嗤うことなどになるだろうか。場合によっては、常識やマナーや社会通念と言った誰もが持っているであろうツールを持っていないものに対する嘲笑、或いはそこまでいかずとも苦い顔をすることは少なくない。
 そうした知識不足や思考の程度に対して、周囲が補填を行うことは、のっぺりと言えば良いことであると考える。およそ当人の怠慢により抜け落ちた知識なども存在する。その上で知識が無いために周囲への被害等が発生するというケースには、寧ろ推奨されることであるだろう。そうしたケースは大して問題とはならないが、他方で全く無意味としか言いようのない(偏見込みの表現)行為もある。
 他者の無知を不必要に責め立てる、或いはマウンティングといった目的のために己の知識をひけらかすパターンもある。他人にツールを見せるだけ見せておいて、それらを攻撃や見栄のために使うというのはなんとも利用価値の薄く利益のない行為と評価できる。生産性、有用性の点に置いて、マウンティングや愉悦目的の知識開示に劣るような用法はなかなか無いと思うのだ。
 もっとも、思考出来る人間の多くはその実りのない行為を認識している。マウンティングを受けたら「まぁその程度なのかもね」くらいの心持ちをしておくに限る。

思考を伸ばす

 思考というものをより使い熟す者は、理屈付けや例え話、平易な言葉のボキャブラリーが多い。先述のように、思考はツールを使うためのマニュアルであるとしたが、より優れたマニュアルは何かと言えば、「分かりやすくて応用の利くマニュアル」ということになる。まさにツールを汎用し、また他のツールとの類似点を発見した上で活用し、その上で難しい論理や用法を易しい言葉に翻訳できるということは、とりわけ利便性の高いスキルなのだ。
 これらを伸ばすための効果的な(といっても私に効果があっただけなので有用かどうかは各々で確かめて欲しい)トレーニングがある。
 それが「書留」……つまりこのNoteのように、一つの事柄に例え話を絡めながらの説明を書いてみる、というものだ。気負う必要は無い、似てるところや無理矢理にでも○○のように、として共通項を見つけて理論付けする遊びと思って欲しい。重要なのは、その例えが合っているかどうかではなく、何が例えに使えるか? という比喩の手数……「ボキャブラリ」を養うことにある。何度か繰り返し、脳内のあらゆる事象を手早く言葉として出せるようにセッティングするトレーニングにもなり、瞬発的に論理立てて説明する際にも大いに役立つ。
 書留というワークは、手にした知識を観察し、その特性や用法を使うための練習になるのだ。

 もし何かに使えそうならちょっとくらいは参照してみてほしい。ただ、本気で頭が良くなりたい(良く見せたい)場合について私は無知蒙昧の限りであるため、大人しく書店に足を運んで良さそうな本を買って欲しい。これは一個人の所感と、トレーニングを兼ねた無料の書き散らしであるから……。

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