作品群の思考傍流──私たちの心は「大人」へと進化できるのか

幼さ、について次回作品群「i'LL Project」や直近の「夏の追憶と餞」でも踏まえそうなテーマとなってしまったので、ここで夜風見自身の脳内をまとめます。文献資料等々を踏まえない戯れ言チックな代物なので、そこだけご了承ください。言うなれば、考証なきファンタジー世界観みたいなものです。

ここでは多分に「心」「精神性」といった語彙が出ます。これらの言葉は非常に抽象的な意味を数多内包していますが、ここでは飽くまで感情の知覚、表出に際しての傾向という点でのみ定義します。その他、価値基準や善悪判断の基となる道徳性などの側面には一切触れません。単純に、感情にまつわる心の在り方という部分で論じていきます。そうした点で、行動規範の在り方まで内包したフロイトの構造論はやや広範な議論となってしまうため、ここでは用いません。


A7CAE8 Projectの傍流について

「幼さ」というテーマは前回作品群「A7CAE8 Project」でも傍流ながら言及していて、人の本質的な部分を幼さであると据えていた部分があるんですね。そこにおいて、前提として説明します。
波と円環、をテーマとしていた前回作品群であり、即ち生まれ変わりと繰り返しと狭間という多重的なモチーフをまるごと指した比喩としてテーマは設定されていました。それらを人に当てはめ、そして生まれ変わりを描くとき、必ずそれらを適用するための媒介者として「幼さ」「デストルドー」があったのです。
肉付けをして語るなら、人における波と円環はつまり生まれ変わりです。この物語においては、何度となく死に、生まれ、また天使たる何者かに出会い、死んでいくという生まれ変わりをします。しかし、生まれ変わる為には彼岸と此岸を行き来する必要がある、つまりあの世とこの世の境界を彷徨う必要があるために、その中間地点(あの世たる海とこの世たる陸の狭間)の波間が何度となくモチーフとして出て来ます。また、生まれ変わるためには一度幼くならなくてはならない、大人の姿での生まれ変わりは出来ないのです。そうした理由から、生まれ変わりのための条件として、私たちは大人から子供へと幼く戻る、死ぬためには「退行衝動」に則らなければならず、これが物語の中の動機(媒介者)として働くのです。波間は生まれ変わりの舞台、退行や幼さへの希求は登場人物の動機、と捉えればその全体が分かるのではないでしょうか。

その視点を持った上で、人と幼さの共通項を例示します。大きく分けて二点あり、肉体面の幼さ、そして精神面の幼さです。
肉体面の幼さとしての中核に、人はネオテニー(幼形成熟)であるという説を提示します。これには学説でも意見が分かれるのですが、どのみち人は「幼い頃の面影を残したまま大人になる」という点が極めて特徴的なのですが、これと対応するような海に特有の生態系として生きている化石と呼ばれるものがあります。化石、とあるようにこちらは概ね一億年、或いはそれより前の姿から殆ど変化、進化をすることなく現代まで生存しています。前者のネオテニーは飽くまでも生物個々の寿命単位、せいぜい100年程度その姿を留めるに限りますが、後者の生きている化石は極めてマクロな時間で以てその姿を留めているのであって、一見強く結びつけるのは困難に思われます。しかし、海というのは、生きている化石のような遥か昔の生態系の面影を今まで残しているもので、即ち人が人である以前の生物の原型を留めている領域でもあるのですね。かなり強烈な歪みのある解釈をすれば、生きている化石とヒトは、途轍もなく離れた位置にある兄弟関係とでも言える代物でしょう。余談ですが、海と母はしばしば深い関係性のあるものとして捉えられ、人の生まれ変わりのうち生まれの部分においては非常に深い共通点があるのでしょう。人も羊水たる水中にて育まれるものですから、ある意味万物が水底から生まれるという点で、海と出生は切り離せないのだと思われます。水や海は、幼い生命を育み守る世界であるのです。

さて、前項においてはぼんやりとした幼さと人と海の関係について話しましたが、人と幼さを真に繋げているのは精神性です。「三つ子の魂百まで」と言われるように、人の精神ですらネオテニーであるどころか、寧ろ人の精神こそネオテニーそのものであるという点が強く人と海を結びつけています。
ヒトの心は、幼い頃の面影を保持します。終生に渡って、人の精神においては強く可塑性が働いてしまうのです。しかし、人の精神はそれのみでは飽き足らず、最奥の部分には「究極の退行衝動」と呼ばれる代物が眠っているようなのです。それを通称「デストルドー」或いはタナトスと呼び、その概念や表出の仕方は極めて複雑怪奇ながら最終的には死へと向かわせることになります。この概念は、人を幼さ・死へと誘うもので、前述したように人の動機に該当することになるのと同時に、死を幼さへの希求と同一視させるのに対して役割を持ち、つまり生まれ変わり=死への衝動=究極的な幼さへの回帰という構図を成り立たせます。また、先述のように海は極めて過去の生態系や在り方や母胎との類似点、つまり幼さを保持した世界であることを示唆し、海があの世の比喩であることにも軽く触れました。つまり海はあの世でありながら幼さの象徴でもあることであり、死=幼さへの回帰とも極めて馴染む概念でさえあるのです。

まとめましょう。
私たちは肉体的にも、精神的にも幼さの中にあって、果てには更なる幼い頃へ回帰しようとする究極的な衝動「デストルドー」を内包し、更にはそれに突き動かされ極めて幼い頃=死へと向かいます。そして、死の先は日本における一般的な宗教的理解・俗説的理解ではあの世(彼岸)でありますが、同時に幼きものを育てる母胎(海)へ向かうことにもなるのです。そしてまた、海、或いはあの世から境界たる波間を通じ生まれ落ちて、また幼さを振りほどけないままで退行へと引き寄せられて海へ還る……。そうした一連の流れを、海洋周辺と人の性質、そして幼さという生物の形態から包括的につなぎ合わせたものが「A7CAE8 Project」の全体像であったのです。

その他、A7CAE8 Projectは極めて閉じた二者関係における物語でもあり、またボーカロイド対人の関係図でもあり、架空上・空想上における人格への考察定期など、極めて広範なテーマを以て波と円環たるテーマを掲げていますが、そこまでを投影すると軽く30,000文字を超える記事になってしまうので、また後ほど余裕が出来たら投稿します。と、いうのも、実は途轍もない分量と化した書きかけの全体考察記事があるのですね。

幼き停滞と、その二段階プロセス

やっと本題です。
感情における幼さ、という点を掘り下げていきます。先程述べた一節に「三つ子の魂百まで」というものがありました。人の心は可塑性があり、幼い頃の面影を保持するという話です。言うなれば、人の心の成長や時間は、基本的に幼い頃から止まってしまうという話でした。
A7CAE8 Projectにおいては、とりわけデストルドーという退行衝動に目を向けていました。つまり止まってしまった心が過去へと遡り生まれ変わるという、進めない呪いについて描いていて、『Namima no Iro』における、「得る息は呪い」という歌詞が、人として呼吸を得た以上退行してしまう深層意識(デストルドー)からは逃れられないことを端的に示しています。しかし前回の「夏の追憶と餞」、そして次回のi'LL Projectにおいては可塑性に裏打ちされた心のネオテニーを超える可能性を見いだしていきます。題して、私たちの心は「大人」へと進化できるのか、です。

さて、再三の言及となりますが、私たちの心は成長せず、停滞しています。それは三つ子の魂百まで、ということわざにて端的に表現されていますが、もう少し、停滞とはいかなるものであるかを推論し、幼さの要件を明示しましょう。
第一に、ヒトの性格は幼少期の経験により大まかに規定されることにあります。こちらは特に愛着形成などの概念を引用することになります。ヒトには元より欲求があり、それらを満たすことを自然と求めます。それは幼少期から変わらない現象ですが、しかし幼少期、特に三歳前後において愛情にまつわる欲求が満たされなかった場合に、性格(パーソナリティ)に一定の特性を生じます。つまり、幼少期の経験や欲求の達成度において、ヒトの性質はある程度似た傾向を示すことがあり、それらの端的な例は現在よく知られるような「毒親育ち」などに代表されるパーソナリティのしょう害的な特性により表出します。誤解を怖れずに言及すれば、ヒトは幼少期の、記憶もない頃の思い残しを後世引き摺ることとなるわけです。故に、精神療法の多くは、そうした深層心理に残された思い残しを自ら自覚し、それらを満たす行為を伴うことが多々あります。こうした点から、ヒトの心は過去の経験や性質により一定程度規定されることになります。勿論、先天的な要素により感情や価値観などの心が定まる部分はありますが、しかし恒常的な感情に対して幼少期の経験に規定される点もまた大きいことは確かでしょう。こうした経験や思い残しに私たちヒトは縛られ、心はネオテニーのまま停滞する要因となる、とします。即ち、ネオテニー的性質の本質は、経験に対しての後悔と学習の結果なのです。
第二に、ヒトの心は可塑性或いは形状記憶の性質を持つことにあります。それは普通、忘却や先天的な気質への回帰という形で為されます。感情の一点においても、それらが永続的、または極めて長期的に持続することは稀で、何かしらの感情を呼び起こす因子がなくなれば、自然と数日以内に平常心へと戻ることになります。どれほど楽しいことがあっても、過ぎ去ってしまえば徐々に薄れていくのと同じことです。では、心は如何なる形状を記憶しているのか、と言えば、それは紛れもなく先天的な性格と、つい先ほど言及したような幼少期に獲得している後悔・学習の部分であるのでしょう。つまるところ、基本状態(デフォルト)がそうした幼少期に形成されたものに規定されているのです。
性格は幼少期に規定され、そして基本状態として固定される。この二つのプロセスを、停滞と呼ぶことにします。このために、私たちの心はネオテニーであるのです。また、先述した歌詞のくだりの通り、ネオテニー的性質は呪いですらあります。規定された部分の内容は後悔・学習であり、これらが後世の感情の発露に影響を与えるのです。自身で意図するしないに関わらず、極めて無意識的な経験により規定と固定を施されてしまった私たちの精神性に、異なる可能性を与えるという目的が背景にあるのです。かつて大人になったら何になりたいかと夢を語ったように、大人になるということは「自己の可能性の結果たる姿」の意匠が与えられた語彙でもあります。

次に移る前に、脇道ではありますが後に繋がる考察を差し挟みます。心のネオテニー、或いは幼少期の部分は、ヒトの心に様々な機微を与えます。それらは非常に多岐にわたり、複雑そのものですが、特に幼少期の部分から直接的に影響されることで知覚する感情が二つあると考えられます。それは、愛情の欲求と郷愁です。愛情の欲求については、極めて原始的な生存戦略でもあります。幼年、特に赤子である時期、生命は極めて無力であることは想像に容易いと思います。そのため、生命は生存するために絶対的に愛着行為が必要です。愛着行為といえど、その行為者において必ず愛を動機とする、または愛を以て接することまでは要件ではありません。現代まで脈々と議論される、感情や内心の在り方としての愛は、この際全く関係がないからです。情熱的な、はたまたは深遠な、恋愛や無償の愛といった感覚的概念ではなく、愛着行為は言い換えれば「自身の生存に必要な他者の行為」です。ここでは、愛情について内心的な在り方の議論には踏み込まず、行動の表出として取り扱います。愛情の欲求は、端的に言えば他人に対して「注意を引き、忘却しないこと」「他人からの身の回り一般の行為を求めること」を強く希求する欲です。自己で一切の行為が出来ず、自衛も出来ず、他人から存在を忘却されることが即ち死へと繋がる時期だからでこそ、より根源的に愛着行為を求めるのです。この点は、のちの発展的な論でも用いるロジックです。つまり、他人から一定の行為を求め、この欲求が達成されることを通して、自己の生存や存在を肯定してもらう仕組みが先天的に備わっていると言えます。幼少期にあるものは、その構造上みな等しく愛情の欲求を表現するのです。これについては本能的・構造的な部分であり、ネオテニー的性質よりも先立つものです。ヒトについては、まず愛情の欲求があり、それらの満たされ方によって後悔・学習を重ねてネオテニー的性質を形成します。
対して郷愁は、後天的に獲得した記憶や感覚から直に影響を受けることとなる感情の一種です。前者が極めて基本的で不可欠な生存戦略であったことと比べれば、こちらは究極存在しなくてもさして困る事はないものでしょう。しかし、幼少期の経験から直接的に想起されるものとして終生付き合うことになるものである点においては、愛情の欲求とも通じるところがあります。郷愁については、愛情の欲求よりも部分的・断片的に想起されるものであって、そのため常に知覚するようなものではありませんが、代わりに幼少期の経験などに一部重なる体験をしたときに自動的に復活するものです。
両者において言えることは、幼少期の経験や性質に強く影響・規定されうるものであることです。この二つの概念は、以降の論において補助線とするために予め提示したものと受け取ってください。

停滞プロセスを克服する二つの道


論を進めましょう。
ここまで提示してきたものを軽くまとめると、ヒトの心はネオテニー的性質を帯びているが故に停滞しており、その理由を幼少期の経験による「規定」と、そこを基本状態とした「可塑性」があるといった仮定のもとで説明しました。心は幼い状態を記憶し、そこへ戻ろうとする性質があるのです。その上で、「A7CAE8 Project」では、幼さを保持し停滞したヒトの心(精神性)を海と結びつけた上で、「デストルドー」などの究極の退行衝動の概念も部分的に導入し、ヒトの心の退行と停滞を基軸として何度となく行われる堂々巡りする精神を傍流ながら提示してきたのでした。
しかし、ヒトの心は幼少期以来停滞するものである、という論旨を前提とし、そこから問題提起と共に作品のコンセプトへ宛てることがこれからの目的です。以降は停滞からヒトの心が進歩する、つまり先程も提示した、私たちの心は「大人」へと進化できるのか、という点を論じていきます。
言い換えれば、私たちの感情の在り方は幼い頃から変化するのか、という部分への議論となります。前以て断っておけば、心はネオテニー的でありますが、それは一切の変化を許容しないということには繋がりません。感情発露における傾向や、喜怒哀楽の強度そのもの、また一部感情・欲求(先述の愛情など)の類の発露の傾向は幼少期の頃に規定されますが、他方で後天的な事由によって変わることもあるのです。ヒトは嘘をついたり、環境次第で一部感情の発露が起こらないことも往々にして起こります。即ち環境の因子です。ヒトの心には可塑性がある、という概念の裏側には、常に別物に変化させうるストレス因子が存在することを示しています。内在している可塑性と、外部環境からのストレス等のせめぎあいの中に心(感情の発露)があるということです。つまるところヒトの心は常に幼少期そのものの様相を呈している訳では無く、幼少期の傾向をベースとした上でそこから幾らか変形・適応した形に変化している状態となっています。感情の基礎となるのはどこまでも幼少期であり、その上に発展した形が現在の精神である、という認識の方がいくらか適切でしょう。これもある種の進歩であるはずであって、しかしその心は幼少期とは別物とまでは行きません。
ネオテニー的性質を超えて大人になること。それは幼少期の基礎を超え、完全なる別物となるまで変形すること。或いは、基礎の部分を作り変えることで「不完全変態」のように幼少期とは別物となるまで変形することのどちらかを辿ることになると考えられます。前者は破壊的な進歩であり、後者は変容的な進歩です。どちらも、精神性の停滞における要素に対しての働きかけを行うことによって克服するプロセスです。環境ベースの進歩・変化は前者の破壊的な部類に入ります。
精神性の停滞には、規定と可塑性の要素が伴うことは先んじて述べましたが、破壊的な進歩は可塑性に対して働きかけることで幼少期の基礎の部分を排除する仕組みです。強いショック、ストレス、洗脳、或いは物理的に脳に障害を生じるような病性の要因によって、可塑性を超えて心を適応或いは破壊して、ネオテニー的に獲得した感情発露の傾向を別物にしてしまう術です。他方で、規定された幼少期の基礎そのものに対して、思索や治療行為を通じた変容を起こすことで緩やかに感情発露の傾向を別物にする術を変容的な進歩と位置付けます。

変容的な進歩は、言うなれば精神療法や悟りの類です。しかし、文面ほどの大層なものではなく、それをより平易な言葉で示せば後悔と反省に近しいものでしょう。そのためには、心について俯瞰する必要があります。この「俯瞰」を通して、変容的な進歩を傍流に据えた作品群が『夏の追憶と餞』でした。
「私たちは、その幼年期や何処にもないノスタルジーの形をした物語に没入し生きた擬似体験をすることで、附属的に過去を追想してきた。しかし、私は附属的に行われてきた追想をこそ、より深く洞察したいのである。敢えて物語や体験に対して写真を眺めるような遠さで俯瞰し、その時に思い起こす心象と向き合い、既に帰らぬものもなった季節や幼年期を悔やみながらも、その不在を受け入れていかなければならない。幼少期以来抱え続けた餞の感情を、少しずつながら弔う営みをしよう、という趣旨なのだ。」
これは夏の追憶と餞に際しての備忘から引用した文章です。ここに変容的な進歩に向けての意図が端的に示されていますが、改めてここにおける意図を再度表現し直してみることにします。
先述した通り、郷愁(ノスタルジー)は幼少期から直接的に影響するものです。まさにネオテニー的側面を代表する憧憬の形であるわけですが、とりわけ既存の夏ものたる作品はネオテニー的側面を再咀嚼する意図を持って作られたものが多いのでした。幼年期や何処にもないノスタルジーの形をした物語、というのはまさしく幼少期の経験の事を指しています。特に「何処にもないノスタルジー」は偶像的な実在しない過去、或いは自身の想像上にのみ存在する過去の記憶のことで、まさしく経験していないながらも郷愁を呼び起こすのに充分な強度で想起できる過去の憧憬のことを指します。つまり、その記憶や憧憬における実在の真偽はともかくとして、ネオテニー的側面に由来する感情を何度となく繰り返し味わうためのコンテンツが夏ものなのです。それに対して、『夏の追憶と餞』は散々想起してきた郷愁を克服するための試みでもあり、それら郷愁の感情を想起させる憧憬に対して一歩引いたところから俯瞰することを第一歩としていました。間接的に郷愁を俯瞰し、ネオテニーを部分的ながら克服して呑まれないようにする(弔う)ことこそ終局的に意図していた部分なのです。究極的には、郷愁の根源を認識して、その感覚の程度をより希薄にすることが終着点で、その在り方は夏ものに見られるような強度の高い郷愁に浸かるものとは正反対の意図を持っています。

破壊的な変容は、先述の通りトラウマ、ストレス、洗脳、病的な要因によって、可塑性を超えた変質を引き起こすことで半ば強制的に感情発露の傾向を変化させるものです。こちらは先程論じた変容的な進歩と異なり、その傾向変化の速度が比較的早く、劇的なものであることが多いです。他方、ネオテニー的な基礎に対しての変化ではなく、こちらは後天的にその形状を強く変化させるもので、つまり基礎を残しながらも発露の傾向から幼少期の面影を払拭する手法といえるでしょう。それらは、ここで説明するまでもなく「不自然」な歪め方に他ならないため、極めて劇物的な手法であることも留意すべきです。
例として、洗脳のプロセスを取り上げます。洗脳には通常、価値観の破壊、刷り込み、再凍結の段階を経るものです。この過程においては強いストレスがかかると共に、より感情の抑圧と安定を恣意的に行います。カルト宗教などにおいては社会的な関わりからの分断を重要な要素としていますが、ここについては価値観判断における心の分野に踏み込むので敢えて論じないでおきます。こと洗脳において、より強い負の感情を与えることと安寧を与えること、その飴と鞭によって感情発露の傾向の破壊を試みます。その過程で、異常な環境における感情発露を適応させるのです。洗脳そのものは手段でしかありませんが、それは歴史的な経緯からも分かる通り「誰かの意図通り」にヒトの心を破壊する術としての側面があります。普通、ヒトの心は、ストレス的経験と安定の狭間でゆっくりと変形するもので、そのプロセス自体は極めて緩やかな洗脳の工程と似ています。ですから、その過程を急進的に図るという部分では、この手法にも一定程度ネオテニーを克服するヒントがあるようにも思えるのです。
ただ、これら破壊的な変容はその制御も難しく、その上当事者が望んで行われるものでもありません。また、その結果の殆どが望ましいものでないことは、誰もがぼんやりと理解しているでしょう。破壊的な変容は劇物であり、その正しい制御を見出し、実行する必要があります。謂わば、私たちの心が大人になるためには、「正しい絶望」に直面する必要があるのです。それについて、近いうちに形とするのが次回作品群『i'LL Project』でもあります。私たちがネオテニー的な感情発露を振り切り、全く異なる形の心へと至るための一手段として、絶望と呼ばれるものに言及する試みを行うつもりです。

総括、ネオテニー的性質への対抗

これらの手段を以て大人になることを試みます。
永続するかに思われたヒトの後悔・学習してしまった部分——総じて心の未熟さを除き、脆弱な在り方から進化することがずっと作品群の傍流として存在していました。かつて『A7CAE8 Project』において、ヒトの精神の停滞と逆行に裏打ちされた死への回帰を暗に示したことは先んじて述べた通りです。ヒトは幼さを内包するがために、波と円環の中に囚われ、生と死の境界を彷徨っています。見方を変えれば、それはヒトの生き様そのものなのかもしれません。幼さは、生と死の両極を媒介するものであったように、ヒトの感情もネオテニー的に由来する部分と後天的に影響されて形成された部分の混交であることを言及しました。その狭間で両者の比率を調整しているのは、ネオテニー的性質へ引き戻す可塑性です。デストルドー然り、可塑性然り、望むと望まないとに関わらずヒトはつくづく幼い頃へ引き戻すばねのような力によって揺れているのです。
そこから『夏の追憶と餞』では、ネオテニー的性質の感情へのアプローチを行い、郷愁を与える憧憬や幼少の頃の経験を見つめ直すことを提示しました。それは直接的には、ネオテニー的性質の補正をするものではありませんでした。しかし、郷愁という幼少期からの影響を多分に受けた感情を俯瞰し制御する試みとして、思い残しを清算する(過去を弔う)という形はまさしく停滞を解いて変容的な進歩の辿る道筋と同様のものです。構造上は同様のプロセスを経る、進歩の前段階的な試みだったのです。
更に発展し、『i'LL Project』においては、破壊的な進歩と「正しい絶望」を示す予定です。思い残しや学習という部分へのアプローチなく可塑性のばねを振りほどき、強烈な経験によって感情の発露を歪めることに主眼を置きます。かなり荒療治ではありますが、これもまた規定されてしまった精神性を振り払い新たな感情の傾向を得るという点では可能性のひとつには違いありません。

結論として、私たちの心は幼少期に獲得してしまった後悔や学習と決別し、大人へと変化することは可能だろう、と言えます。しかし、そのための手段やプロセスは未だに思索の途中であり、私たちが得てしまった呪いを解くのは容易ではありません。
呪われた私たちと、その根源を幼少期に求めるという在り方は、この傍流の中で繰り返し登場するモチーフです。『Namima no Iro』においては、息は呪い、未だ幼く蹲る、といった言及があることが直接的です。また、『A7CAE8 Project』においては、春という表現は繰り返し、思春期や幼少期といった黎明・未熟の比喩として登場しました。『夏の追憶と餞』においても、幼少期の面影やそこから沸き起こるノスタルジーを亡霊や呪いと捉えることが多々ありました。ネオテニー的性質を克服する試みは、これからも一層続いていくことでしょう。

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