知識をリバウンドさせたい

 知識の代謝が恐ろしく早い。と、思う。

 最近の制作活動につき、ふと気付いたことである。というのも、楽曲制作には幾らかのマイブームや手癖が反映されるのだが、それらはどうしても使い慣れた技術や技法などの「知識」と切り離して考えることはできないのである。即ち、マイブームや手癖で使える手数が減ったり、或いは面白みに欠けたときに、私は知識の代謝が恐ろしく早い。と、思うのである。
 知識の代謝、と半ば必須な活動になぞらえて言ったはいいが、これはなかなかに深刻な事態である。腹回りに溜め込まれた脂肪や贅肉を燃やすのとは全く異なるのであるからだ。 
 知識の代謝は、言い換えれば物忘れや陳腐化という言葉になる。元々知っていた技術をすっかり忘れ去るか、その効用を取るに足らないものと思うようになるか、その二択である訳だ。それを洗練されていく課程と捉えても悪くはないかもしれない。自身の身の丈や作風にあった知識だけをふるいにかけて、大切にし続けるのは一定の価値や合理性があることだからだ。せいぜい頭部程度のサイズしかない生体の記憶領域にも当然残存ストレージというものがあるので、限られたキャパシティを合理化するために忘却するというのは致し方ないことではある。あたかも肥え太った後に改めて体を引き絞るような営みなのだ。

 それらを全て承知した上で、しかしこう思う。
 過去の知識の贅肉全てが惜しい、と。

 楽曲制作においてここ半年で得たものは数多く、特にコーラスの技術と音作りについては自身の新機軸を多く手にしてきた。とても実りのある時期だったと思う。
 他方で、これらは一年前の作品の感性とはまるきり異なる軸でもある。手札を増やしたはいいものの、昔からの手札の進化という形ではない。
 新機軸を得る代わりに、かつての手札を幾らかを喪失していることに気付いてしまったのである。そして、どうもそれを喜べない。

 具体的に検討すると、ある時点を境にしてぱったり使わなくなったり、影の薄くなった技法がある。
 例えばセカンダリードミナントと呼ばれるコード理論の技法である。その面影は微かにⅢ7という頻出コードに見られるのだが、その他の種類はめったに使わなくなった。
 また、編曲部分がなかなか致命的になりつつある。効果音類を用いた、ダンスミュージックなどの雰囲気のある楽曲は得意となった反面、ボイシングや接続を重んじた旋律的な編曲が見事におろそかになりつつある。こちらが特に顕著で、一年前の楽曲と比べると圧倒的にカウンターメロディや転回和音に欠けている。和声の柔軟さを忘れつつあるのだ。

 こうした知識の代謝以来、確かに作品の質だけを見れば上がったのかもしれない。だが、手数やバリエーションは根こそぎ無くしてしまったような感覚がある。かつて使いこなせていた技術を失うという退化の代償が余りにも大きいと思うのだ。
 よって、代謝してしまった知識たちを取り戻すには、幾らか当時の知識を再度取り込む必要がある。かつての食生活に戻り、リバウンドし無ければならないのだ。どうせまた知識は代謝してしまうだろうが、次こそはボディメイクを欠かすことなくいきたいものである。
 本当に必要な部分まで代謝してしまうのは、必要な筋肉まで失うようなものだからだ。

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