独善的でありたい創作

 作品を制作するにあたって、各々の動機がきっとあると思う。
 勿論私もそうなのだが、その動機に置いては特にすっからかんで浅はかなものであると自負している。またそれらが引き起こす形容困難な申し訳なさも含めて、ここに書き置くことにする。

 

 非生産性、時間の浪費


 大前提として、私の創作理念は大きく二つに大別される。
 ひとつが、人生の創作化......と言えば少々大袈裟かもしれない。目的が創作であって、その他一切は副産物であると考えてもらった方がより平易で明快なニュアンスで受け取ってもらえるのだが、そう純粋な物とも言い難い。
 創作以外に何も出来ないから、半ば消去法的に創作にのめり込んでいるという負の側面が確実に存在しているのだ。他にもあらゆる行動や経験が存在していて、それらを自由に選べる中でさえ創作に全てをつぎ込むという行為。これに対して、正と負の側面を映すように二つの所感が発生する。
 楽しく幸福な時間が半永久的に味わえることへのこの上ない感謝と充足感、正の側面。対し、他に選び取れるはずの選択肢や可能性を潰して非生産的な時間へ時間をただただ投入する愚かしさへの罪悪感、負の側面があるのだ。
 とにかくとして、創作という行為自体が動機そのものですらある、というのが第一の理念である。その動機によって生じたのが、時間のトレードオフの関係性による罪悪感である訳だ。

 二つ目が、自身の生成する創作物一切に対しての価値を過小に、或いは殆ど無とする前提に立つこと。
 私の作品そのものに対しての愛や思い入れ、良さとはまた別次元のものである。作品愛は人並みにあり、また妥協無く制作すれば相応に自身の作品には良いものとして評価する。それは主観的評価として揺るぎなく、また認識可能な範疇にある感性だからだ。
 しかし他方で、他者にとっての存在理由については一切考慮していないとも言える、極めて独り善がりな特性を持つことも事実だ。創作動機は自身の満足の為にあると言って差し支えないし、まして他者へ向けたメッセージもなく、コンテンツとして成り立たせるためにリスナー層や市場を意識した制作を殆ど行わない。始めから他者評価を得ることを前提にしておらず、自己完結性から発生した作品である為、客観的な評価や市場価値の類を一切期待しないで作られることが大半という意味が含まれる。
 これは、作品を評価されたいといった動機を持つことが多数である現インディーズ音楽シーンにおいては冒涜的とさえ取られかねない思想でありそうな気がする。作品を公開した時点で自己顕示欲の現れである、という言説はほぼ定説であるし、自身もその通りであるはずだと考えて居る。その点から検討すれば、他者評価を期待しない、というこの主張が真っ向から食い違うために信憑性が著しく低い、大雑把に評価を加えれば強がりのように映るのであろうか。ナンセンスな仮想の当たり屋を想定すれば、他者評価を期待しないならば今すぐ動画投稿を辞めろと言い出し言行一致をさせてくる者もいるのだろうが、それらの私的は少々自身のスタンスを否定するには軸がズレたものであることを説明しなければならない。
 他者評価を期待しないことと、それらを拒むことは明確な差がある。私の作品に下された反応や評価の数々は言うまでもなく他者評価の現れであって、私はそれらを否定することはない。但し、投稿時点、或いは制作時点ではそれらの反応が皆無であることを想定しており、なおかつそうであっても期待外れではないという事を指す。満足できるラインがとりわけ低い、とも言い換えられる。
 本当はナンセンス仮想当たり屋の言う通り、即座に全ての公開作品を削除し、このアカウントの全てを消滅させても構わないのだ。勝手に自身は創作を続けるだろうし、そもそもこの夜風見名義を始めるずっと前からごく小規模な身内と作品を交流させることだけで十分な満足感を得ていたのだから。寧ろ今現在、自身の想像をずっと超えてしまった場所で、全く見知らぬところで評価されてしまってることがこの身のキャパシティを遥かに超える幸福なのだ。
 傲慢に現状の感想を述べるのならば、もっと評価が少なくても構わないしもっと矮小な存在でありたいとさえ思っている。

 

 創作産業廃棄物


 前者が動機、後者が作品観なのだが、この相互作用が生み出す自己認識として「産業廃棄物の生成」というフレーズに現れる。
 ひたすら時間を浪費すると形容した制作時間の大量消費、そして客観に対して市場価値を一切考慮・期待しない消費者皆無を前提とした作品たち。これらを乱雑に、しかし自己認識の最も適切なところを抜き出し表現するとこのようになる。産業廃棄物とは、無論自身が制作した数多の作品たちに与えられた肩書に他ならず、よって楽曲投稿はまんま自己観念に言わして「不法投棄」に値する。
 特別そうした、作品を産業廃棄物と捉え、他者が見向きもしないであろうという期待を込めて制作されるシリーズこそが「我楽多音響」そのものである。同時に我楽多と命名したのは、私自身がひたすら愛し、楽しむための音楽形態としての意匠を字面に表すためでもある。また、創作産業廃棄物という命名は、平沢進氏の所属していたバンドP―MODELのアルバム名「音楽産業廃棄物」をリスペクトし、オマージュし、盛大にパクったものである。
 実際に、ツイッターやニコニコ動画などのタイムライン上に氾濫し陳列された作品の数々を多くの人々は素通りし、もはや消費物としてすら認識されないまま捨てられていく。それらを、創作の大量不法投棄とも呼べるかもしれない。私たちは、余りにも増えすぎてしまったコンテンツの我楽多山の中でも、とりわけ質が良く目につく山のてっぺんの産業廃棄物をひたすら消費するスラムの人間なのだろう。多くの廃棄物は山の中にあり、陳列さえもされない作品たちがそこかしこで土台を成して広大な敷地を作り続けている。私の作品は、その大地を人知れず広げる側にあればそれでいいのだ。そうした観念が前年のボカコレ参加録にも見られる。その当時から一貫して大地を広げることを、「肥やしになる」と表現している上、その際の投稿作品「DowKeshi」の概要欄にも我楽多の山という表現が用いられている。あの楽曲における、メタ的かつ私表現的な面の答え合わせの一つとして、こうした無価値前提論の表明があった訳だ。詳しくは次の記事を参照のこと。


 広がりすぎた夜風見


 世間的に売れた、人気となったというには余りにも小規模だが、他方夜風見個人の活動の想定規模としては恐ろしい程大規模になってしまった。毒にも薬にもならないような、誰一人の琴線にも触れないであろう作品を展開してきたつもりではあるのだが、世間の懐の広さをつくづく見誤った結果見事に恩恵に浴している。自身の作品を愛している反面、他人の理解や好感獲得が存在していることについては酷く懐疑的な姿勢を持っているため、今の評価量ですら余りにも現実味がない状況が続いている。
 今まで丁寧にハッシュタグなどを使用してきたが、そろそろニコニコや新曲告知のツイートを限りなく必要分に絞り込むことで、衆目に晒されることへの抑止をしようかとも考えている。自己認識を曲げない為の消極的な判断ではあるが、その方がよりディープかつ安定的に横ばいでいられると思っている。タグはせいぜい、ボカロタグ(実にUTAUに対してこのタグを用いるのは大きな論争の火種となるのだが、ここは広義での使用を世間的に容認されている点から使用させてもらう)と、テトさんタグの二種類で完結に。告知も、VocaloPostのタグ程度に収める予定である。
 また、私が曲を自薦するときに必ず加えているフレーズがあり、それは「世界一暇になったら是非」というものだ。これを過度な謙遜と捉えるかどうかはそれぞれだが、この言葉を使うには明確な意図がある。そもそもコンテンツが氾濫する現代において、究極的に暇な時間などは一切ないと評しても過言ではないだろう。必ず余剰な時間には、何かしらのコンテンツに触れ、またそれらは次から次へと供給されるために、積み残しが延々と増えていく。その状況下においてもっとも楽しむために、言い換えれば質の高いコンテンツをより長く消費する権利が誰にでもあるだろう。果たして自身の作品がその質の高いコンテンツであるか? また他のコンテンツを差し置いてまで、消費することを強く薦めるに値するのか? と言う点において、言ってしまえば一切の信用が存在しない。飽くまでも消費者の裁量に委ねはするのだが、自身のスタンスとしては極めて重要度の低いものであるという旨を明確にするためのフレーズである。
 

 懐疑と打算


 ここまでで散々強調してきた点は、「客観的評価に対して非常に懐疑的であること」に他ならない。
 勿論のこと、評価は有難いものであるし、与えられれば嬉しいものであるし、いくらあっても困りはしない。
 その上で、常に相対的な評価において過剰評価を恐れている。もっと矮小でありたいとさえ願っていることを明らかにしなければならない。それ程までに自身の創作性を肯定されることにおいて、こちら側はその評価通りの質を担保することは不可能であるし、それに対して応えることもまた不可能だ。自己評価ではあるが、一般のボーカロイド楽曲と比べても音質やセンス、着眼点は凡庸の一言に尽きると考えている。信用に足らないのは、リスナーの言葉ではなく自身の作品そのものなのだ。
 何が良いものなのか、また何が評価されているのか、それらを突き詰め、作品に反映させ、どれだけの評価に繋がろうとも、無価値を前提とする点は恐らくすぐには変わらないだろう。やはりそれは、どうしても自分ではない誰かの作品の山々の中に、更に素晴らしいものが眠っているからだ。それらと比較して、自身の作品の品位を下げたところで何も変わりはしないのだが、上げれば上げるほど苦しくなるものがあるならば、いっそ下げておいた方が得だ。そうした処世的打算の上にも成り立っている。満足する水準を低く保っているうちは、不足による飢餓はないのだから。
 故に、私は基本的に多くを持つこと自体が余り好きではない。得ることは速乾性の幸福に繋がるが、失うことは長く留まり続ける不幸に繋がるからだ。人間関係や物質も含めて、余りに多くを与えられすぎればそれらへの返答に値するものを与えられない。余りに多ければ、喪失時のダメージも大きい。作品を介した贈与を、遠回しに受け取らないでいるためのフィルタとしても機能している。外見上は、評価を拒まないというスタンスだと言ったが、内心ではある程度ブロックしているのもまた事実だ。これはこれで冒涜的かつ傲慢なのだが。

 与えられる恐怖、受け取れない罪悪感

 創作動機から作品観まで、かなり多くの部分が自己の中で完結し、同時に外部からの干渉を排除するようになっている。
 自己防衛としての価値観は極めて穏やかかつ安定的な生活や心情の在り方を実現してきたが、同時に多くの良心を犠牲にした上での平穏であることも理解している。私自身のとても脆い性質がここで露見しているのだが、あらゆるものへの信用や信頼を限りなく薄くし、またあらゆるものからの信用や信頼を見ないようにして、謂わば心の貸し借りを少なくすることによって安寧を保っていたのだ。処世術に酷似した思考ツールが創作にも表れているのであって、故に与えられるものが増える度にこの思考の脆弱性を刺激されて苦しんでいる節がある。
 最初から他人のために始めた活動ではないが、それとは裏腹にどんどんと他人の意図や感性が干渉する。創作物を通して返せるものがないと考えているが、かといって創作物以外の媒介物がないためずっと借りとして残り続ける。もしも自身の作品を提供した対価である、と捉えることが出来たならば貸し借り無しと捉えることも出来なくはないが、そこには信頼と責任が共存し始める。どのみち、何かしらの反応によって私たちは何か抽象的な対価のやり取りが発生せざるを得ないため、なにひとつのやり取りも期待しない(或いは一方的な発信として借りをなんとしても作らないでいる)理想形は一気に瓦解する。必ず与えられることによって生じる返報性の原理由来の恐怖が、それ以前に素直に贈り物を受け取れないでいる罪悪感が、私の創作活動に付きまとい始めている。

 浅はか

 なんとも浅ましいことに、私は創作活動においてごく小規模の評価(少なくとも、DowKeshi以降の評価量は軒並み自身の閾値を超えている)で供給が間に合っていると言える。どこまでも享楽的な創作の在り方は、故に目標も存在せず、他者へ必死に訴えるべきメッセージも存在せず、ただ自己の為に全てのギミックや表現が仕込まれている。仁義なき創作とでも言えばいいだろうか。半端者なのである。より真摯に音楽と向き合っている者達よりも、ずっと次元の低いところで活動をしているに過ぎず、よって自身は余り好んで作家という肩書を使うことはない。まして、ボカロPと自称することも余り好きではない。やはり一介の創作人であり、それは決してこのような薄弱の覚悟をしたものがせめて同界隈を汚さないようにとの意図を込めている。
 その上でまこと勝手に、浅はかにだが、私に向けて「そんなことはない」と言うかもしれない不特定の誰かに向けて述べることがあるとすれば、その言葉すらも私の信じられる世界のキャパシティを大きく超えてしまっていることだ。大きすぎるものを抱えてられるほど大きな器量をしていない、言葉通りに浅い人間性だろう。

 

 29.5について


 多くを与えられすぎて、もはや返せないことを憂えて書いた歌が一つある。「29.5」である。
 元々は実際に会った人にのみ無料頒布する、名刺的役割を想定して組まれたアルバム「月旅行」の最終トラックとして制作される予定だったのだが、徐々に忙しくなってしまい製作が滞ったために急遽形にして投稿された。
 多くの言葉を背負っていくことは出来ないし、まして与えられたものに対してなにも返せない。そのうち、きっと互いの姿さえ分からないところへ行ってしまうだろうことは確実だという悲しさを主軸に、なるべく少ない言葉数で形にした。かなり異例なのだが、ノンフィクションな上に、誰かしらが聞くであろうことを予見して書かれた曲である。
 どのみちこの不摂生では長生きは不可能だろうことも含めて、ひとつ遠い死と円環の象徴としての月をモチーフに据えている。出会いと別れ、浮き沈み、与え奪われ、その全てを月の満ち欠けや陰り光りに喩えて、全体的な自身の象徴にも当てはめている。月のモチーフは、活動当初から用いているロゴマークにも当然のように現れている。
 気にしないで欲しい、という言葉でさえ「これ以上の贈り物はもはや受け取れないこと」を包括的に表した言葉である。
 この記事に目を通すのは余程一部の人間であろうから、楽曲に対しての答え合わせを躊躇な書き連ねている。しかし、これは飽くまで作者の勝手な解釈なので、無論各位が聞いて思った所感も一つの正解であるし、寧ろ私はそれらを肯定したい。

 

 作品に値段をつけること、私に価値を与えること


 つい先日のボーマス50において早々に破られてしまったが、自身は基本的に己の作品に値段その他を含む市場価値をつけないことにしている。技術料や手間賃の分ですら、一銭たりとも受け取る気になれないのである。その姿勢で無償依頼を受ければ、当然ながら市場の価格破壊を引き起こす。そのため、私は余程の事が無い限りはどの作品にも値段をつけることはないし、代わりに依頼を受けることもない。例え同人頒布だとしても、余程の事情がなければ参加しない。何かしらの形で作品を提供、また技術支援をするのは一種の縁故によるものしか承らない。また、限定品を制作するとしてもそれらは非売品であり、全て無償配布という形になる。
 金銭を受け取るのは、他人の作品もまるごと介在し、もはや自身だけの価格設定では不合理である場合に限られる。それこそコンピレーションアルバムなどがその例であり、そこについては自身の作品含めて適正な価格設定でないということは信義則に反するだろう。
 乱雑な表現としては、まさに私の作品が売るに値しないから、と言う他にない。破滅的に自己評価が低いと言われれば、私はそれを否定することはないだろうが、かといって自身の作品の需要についてごく限られた一定層にあることも把握している為に意味がないとまでは言い切らない。単純にこれも元を辿れば、何かしらのやり取りを好まない性質から派生したものである。やり取りはなく、一元的或いは一方的な送信でありたいという極めて明快な動機上で殆どが説明可能だ。

 

 終わりに


 ここでは説明上必要としていないため書いてはいないが、私はなんだかんだずっと幸福だし、大きな考え方の一つにどれだけ幸福で満ち足りていられるか、がある。その為に多少の取捨選択をした結果、捨てる側に置いたものが今更になって真綿で首を絞めに来ている。
 いずれ色々と移ろっては変化していくのだろうし、その中に自身の一切合切のものが含まれる。何を大切にして、何を犠牲にして、その末に本当に納得の行くものを掴めるのか、その全てを未だ探しているばかりである。ただ実の無い作品を生み出し続けることによる実感の数々が、徐々に綻びを露呈しているということは、また一つの転換と変容の時期を知らせる予感に思えてならない。最初から千鳥歩きをしてきたが、これからもやっぱり千鳥歩きをする。その愚かさと浅ましさを、どうかいっそ笑っていて欲しい。或いは、やっぱり気にしないで欲しい。

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