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【桃の季節】は関係ない【アレルギー】【雑記】

実家から桃が送られてきた。それも結構な量だ。
早い秋を感じるありがたいものということはなく、処分に途方にくれる。僕にとってそれは比喩表現ではなく、毒であるのだ。

見えない毒

アレルギーになったのはそれはもう突然であった。
桃の皮を剥き、切るのは面倒くさいのでそのまま頬張った。
少し前にひいた風邪の影響か、飲み込み方が悪く繊維が喉の奥にからんだのか、違和感を感じた数分後すでに呼吸困難になっていた。
幸い救急車ということはなかったものの、40℃を越えるひどい風邪をこじらせた時のように、ぜぇぜぇぜぇして呼吸ができない。思いっきり握りしめた枯れ草を喉に押し込まれたような苦しさに襲われた。
その後、さくらんぼ、リンゴと症状が発生して体感的に判明したのは、バラ科の果物アレルギーということだ。アレルギーなんぞ、小さい子供や一部の人がなる特殊なもの程度の認識だったのだが、身をもってその怖さを思い知った。
それ以降、病院の健康診断でアレルギー欄に書くようになったし、結婚式の食事でもアレルギーありに丸をして特別な料理を出してもらっている。
まぁ、桃もさくらんぼもたまに食べたいくらいだけど、大好物というわけでなくてよかった。これがウィスキーやジンを一生飲めないからだになったら死ぬに死にきれん。
というか、飲めば死ねるわけだけれども。

うず高くつまれた例のあれ

ではそんなアレルギーの息子に何のために桃なんぞを送ってきたかというと、もちろん毒殺したいわけではなく、福島に行ったから嫁にも食べさせてやろうと送ってきたらしい。一応両親と嫁はそれなりに交流を持っており、昼ドラのように仲も悪くないのでこういうときは助かる。
問題はその量である。小さい託児所ならおやつに出しきれないくらいの量だ。
実家は田舎なのだけれども、どうも田舎の人間というのは「大は小をかねる」「おっきいことはいいことだ」根性が抜けず、量を用意したがるらしい。
二人いれば「たくさんもらっちゃって、今シーズンはもう桃いらないくらいだね」というもんだが、一人は桃を親の敵と思うほど憎んでいる人間である。というか食べたら比喩でなく死ぬ。
余らせるわけにもいかないので、会社の人間にいでも配ろうと思う。
ただひとつ問題が、私は自分で食べてもいないものを進めてくるような人間を信用できない。
合コンで知り合った子を食事に誘ったら「今日は家族が来るので」と断られたあとの「また今度ね」くらい信用できない。

はて、これはこのルール外においていいものだろうか。
眺めながら熟考したところで、それらは甘い香りを放ち瑞々しい素肌を僕に見せだけで手を出せない僕を小馬鹿にしたようにそっぽを向く。
同学年に小馬鹿にされた男子学生のようで実に口惜しい限りだ。

#桃 #アレルギー #死ぬほど食べたいは一口で

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