寿司_フラワー通り

明治の握りずし 華屋与兵衛の名声と残念な事件

 前回、握りずしの考案者である華屋与兵衛の時代には、わさびが半年間しか出荷出来なかったとする説を紹介した。華屋与兵衛がおぼろずしなど別形態のすしも発明していったのは、そうした理由もあったかも知れない。

 仮にわさびが通年で供給出来たとしても、夏場はネタが傷みやすく、苦労があっただろう。

 今回は、この問題へのひとつの回答と、松が鮨、與兵衞ずしのその後について考えてみたい。

江戸っ子は一年中すしを食べていたのか問題

 江戸前鮨は海鮮寿司と違い、ネタに対して〆る、漬ける、煮る、ゆでる、蒸すといった“仕事”をするものだと言われるが、もとは衛生管理上の必要性から発生したものだ。

 江戸時代の気温が全般的に低く、天保の大飢饉も小氷期の影響であったと言われているが、馬場弘臣氏(東海大学教育研究所教授)のブログ「江戸は寒い!―歴史気候学からみた江戸時代―」によれば、華屋与兵衛が店を開いた

文化・文政期は、厳冬ではあるけれど、夏は酷暑であった

 のだそうで、冷蔵庫のなかった時代にも真夏に営業が出来たのだろうか。明治に入って氷冷蔵庫が登場し、明治末には電気冷蔵庫もあったというが、通年営業が出来たのだろうか。

 というのも、明治期の新聞には、わざわざ夏季休業明けの広告を出す店もあったのである。

 それが実は、握りずしパイオニアの二大巨頭のひとつである松が鮨。次の写真は明治15年(1882年)7月23日の読売新聞の広告。店名表記に揺れがあるのは、以前の回で説明した通りだ。

暑中例年之通廿二日より休業来八月十五日より相始申候

 盛夏の時期に3週間の休みを取ることが毎年恒例だったということが分かる。その後も、明治15年(1882年)8月1日、明治16年7月22日、24日、明治17年7月29日、30日、31日、明治18年8月4日、5日、といった具合に頻繁に読売新聞に広告を出している。松乃壽司だったり、松壽司だったり、相変わらず表記の統一を見ない。

 また、与兵衛ずしも明治19年(1886年)の9月1日、2日の読売新聞に広告を出し、大暑中は休業していたが、9月5日から営業を再開するとしている。

 それどころか明治38年(1905年)年には11月14日の朝日新聞広告では、

土用中より引き続き座敷少々手入れ致し候ため休み居り候處十一月十六日より従前の通り営業可仕候間御愛顧奏願上候

 と、店内改装にも時間をかけて、かなり長い休みを取っていた。

 これらのことから、前回で検討したわさびの供給問題とは別に、暑さの盛りに長期に店を休むことは、通例化していたと考えるべきだろう。

コレラの影響か? 移転を繰り返す、その後の松が鮨

 ご覧の通り所在地の記載はないのだが、明治19年(1886年)7月18日、21日に出した広告では、「安宅松のすし」と表記がかわり、場所も隅田川の西岸へ移り、浅草区下平衛門町(台東区浅草橋一丁目、柳橋一丁目)へ移転したようである。

 そこから10年の時間が経って明治29年(1896年)8月12日に朝日新聞に出した広告では、再び「神田松壽司」とし、場所は神田川となっている。このとき初めて、登録商標と書かれている。

 以後、新聞広告上では松が鮨の消息は追えなくなってしまうのだが、なぜ転々としたのか。あくまで推論に過ぎないが、松が鮨が移転した年はコレラが全国的に大流行。明治19年(1896年)6月23日の読売新聞は、すし屋の客足が3分の1にまで減ったと報じている。

 明治19年(1886年)7月21日の読売新聞に出ている、京橋松田の休業広告が当時の深刻さを物語っている。

 明治期にコレラは繰り返し流行していたようで、明治15年(1882年)にも流行して寿司、天ぷら店に影響を与えていたし(7月18日 読売新聞)、明治28年(1895年)には、コレラが原因で吉原やすし店の営業時間が制限されている(7月26日 読売新聞)。

 こうしたコレラ流行が経営に影を落としたのかもと、心配になる。

 なお、それより前の明治21年(1888年)5月2日の読売新聞が

松のすし 浅草下平衛門町の松のすしと一体分身のすし店を此たび新富町三丁目に開きしに狂句に名のある村田梅丸といふ通人だけに山葵が目から鼻へぬけても萬事にぬけ目がないとの事

 と支店開業を面白おかしく紹介しているのでさかのぼって記録しておきたい。

博覧会ビジネスに乗って隆盛を極めた与兵衛ずし

 松が鮨には後ほど別の話題で再び登場してもらうとして、與兵衞ずしのその後を、新聞記事をもとに追っていきたい。

 1881年8月9日の読売新聞広告は類焼被害にあったが営業を再開したという知らせ。なぜかここに、「博覧会支店」という名前が登場する。

當春類焼後内国勧業博覧会支店営業仕候處今般本宅普請出来に付本月十日より開業仕候間賑々敷御来車の程編に奏願上候

 ここで言っている博覧会とは、明治10年(1877年)に内務省の主導で開催された内国勧業博覧会の第2回(明治14年)のことで、上野寛永寺本坊跡にコンドル設計の煉瓦造2階建の建物を建てて本会場にしたという。

 国の威信をかけた博覧会であるから、当然ながら誰で出展できるわけではなかった。明治23年(1890年)の出店ラインナップを朝日新聞(2月18日)と読売新聞(3月25日)が報じている。ことに読売新聞は

府下に老舗の聞えある飲食店に限り出店を許可されし

 としている。

 それ故だろう、同年3月17日の与兵衛ずしの広告は、囲み飾りも賑々しく誇らしげである。

本年四月一日より開場之上野公園内博覧會に付同場内博物館の西側にて農業輩の裏手へ出店仕御縦覧諸君の御便利を計り本店同様手軽を旨とし鮮魚を相撰み大勉強仕に何卒右観覧當日より握々敷御来館の程伏して奉願候
 猶同場内辻々に御案内札を建有之候

3月25日には出展店の連名広告を朝日新聞に出している。

 このようにして、与兵衛ずしが権威ある老舗としての名を高めていった。

 明治40年(1907年)には、日露戦争後の財政悪化により博覧会の運営が東京府に引き取られ、東京勧業博覧会として開催された。このときの賑わいの様子は夏目漱石の「虞美人草」にも描かれているという。

 与兵衛ずしがこのとき出店していたのか分からないのだが、「博覧会スケッチ」という記事で「新聞記者 実はすしやの出前持」というユーモラスなイラストが掲載されていたので紹介しておこう。

明治の与兵衛ずし主人は、今なら道場六三郎

 面白い記事といえば、明治38年(1905年)の朝日新聞が「角触前景気」という記事を書いていて、相撲人気に左右される両国の飲食店の様子が興味深い。

觸れ太鼓も宙宇の漂ふてゐる今日、待ちくらびれて困じ居るは回向院付近の茶屋小屋也、坊主軍鶏も與兵衞の鮨も須崎屋の蒲焼きも時節到来せば、金玉(かねだま)がうなり混むべき景気、今日此頃は天氣工合とただ初日とを気遣ふ許り也

 明治42年(1909年)の読売新聞「商店訪問記」は、与兵衛ずしの様子を伝える貴重な記録だ。

○「夏の納涼は両国の」と、唄に迄うたはれた、其両国の橋を、薬研堀の方から渡ってちょっと右にそれた細い路地の突當り。
○其處に、急に廣々とした家があって、露次の入口には、「與兵衞壽司」と書いた、昔ながらの旗印さへ出てゐた。
○これなん、著名な、江戸時代からの名物、與兵衞鮨小泉與兵衞が商店である。
○家は日本風の二階建、中は瀟洒たる小庭抔もあつて、如何にも洒落た作りだ。
○今日は此店へと行く。
○此店の特色は、今更云うだけ野暮だが、魚の季節のものを味はせると云ふのと、それに、職人と云ふものを一切使はず、主人並びに一家族で作る、これが評判である。
○主人曰く。「ドウも職人にやらしときますと、お客様の立込んだり何かした時には、ツイ、面倒くさいから好い加減でやれといふやうになりまして、従って、味も粗末にする様な事がありますから、手前共では、一切職人といふものは使ひませんのです」と。
○さういふ風だから、矢張ドウしたって他よりはウマイ。
○或人は、此店の鮨を評して、甘口だといふが、そこがツマリ好いのだ。そこが所謂江戸ッ子の氣に入る處なのであらう。
○それから、此店のやり方の、他と異つてゐる處を挙げれば、例へば、他では、魚がゐるとすれば、それを二つにしたり、或は開いたいりして用ゐるが、此店では、決してそんな事をしない。それをマルで使ふ。
○それと、他では、重箱の中に、笹で作つた、常盤津の紋や、何かを体裁に入れるが、此店では決してそんな事をしない。
○だから、一寸見は、野暮で、体裁もわるい。けれども、食つてみれば、實にウマイのだから、ドツチかと云へば其方が価値があらう。
○〓之、此店のやり方は、すべて其筆法で行つてゐる。体裁なんざドウだつて好いんだ。中味さへウマけりや差支へはなかららうぢやないかと云ふ。今の世には珍しい店だ。江戸ッ子が嬉しがるも無理は無い。
○此店の主なるお得意は左の如し。
小松宮、鍋島候、土方伯、松方伯、岩崎男、大蔵喜八郎、安田善次郎、高田慎藏

 初代与兵衛は派手好きでこんな実質主義の人ではなかったようにも思うのだが、当時の様子を詳細に伝える資料として貴重である。

 また、明治36年(1903年)10月30日から12月4日まで読売新聞で「簡便当季握り鮓」という連載を持ち、薄焼き玉子やヒラメの酢漬け、イカ、赤貝、クルマエビ、カジキしょうゆ漬け、のり細巻き、コハダ、オボロ、ミル貝、トリ貝、サヨリ、キス、タイラギ、カスゴダイ、マス、ハシラ、ゆで卵について解説している。

 それでもマグロを紹介しないのは、初代以来のこだわりであろうか。

 そしてついには、大正2年(1913年)9月14日の朝日新聞には、大倉書店が刊行した女子必読の良書として、與兵衞壽司主人著『家庭 壽しのつけ方』という新刊の広告が掲載されている。

 調理人としてカリスマなだけでなく、メディアに乗って調理法まで伝授していく。今の時代なら、道場六三郎さんのようなカリスマ性のある存在だったのだろう。

関東大震災で渋谷へ一時移転

 関東大震災(大正12年 1923年)といえば、両国の陸軍被服廠跡の横網町公園で多くの方が命を落とされた痛ましい事件が思い起こされるが、与兵衛ずしもまた被害に遭ったようである。

 大正14年(1925年)5月22日の朝日新聞、24日の読売新聞で、震災後に渋谷百軒店に出張営業していたが、両国で新築したので5月23日に開店すると広告を出している。

華屋与兵衛は2度投獄された

 昭和5年(1930年)に刊行された永瀨牙之輔の『すし通』は古今のすしの話題を広く網羅した重要な書籍で、与兵衛ずしについても深皿に盛られたすしと立派な門構えの店舗の写真に加えて

両国の「与兵衛鮨」。握りの鮨の元祖で文政二年創業。当主はその八代目でいまなお元老として鮨界に活躍しているのはめでたしめでたし。

 と書いている。確かにめでたいのだが、実はその翌年、名店にふさわしくない事件が新聞紙上を飾ることになる。

 昭和6年(1931年)6月28日の朝日新聞は「與兵衞鮨の主人収容 地代横領で」と記事を載せている。

 この記事の写真はあえて載せないでおこう。かいつまんでいうと、「與兵衞は資本金十萬円の株式會社與兵衞鮨の代表者小泉國太郎の父で實質上の経営者」だが、土地管理者として取り立てを頼まれていた付近の地代(昭和2年7月から翌年3月まで775円27銭)を横領してすし屋の営業費に使っていたことが発覚。検事の取り調べを受けていたが、27日に起訴、市ヶ谷の刑務所に収容された。
 当時いかなる事情があったかは分からないが、7月22日の朝日、読売は、21日に裁判所が懲役8月(求刑10月)の実刑判決が言い渡されたと報じている。

 第2回で紹介した墨田区の華屋与兵衛跡の案内板に「 昭和5年に惜しくも廃業しました」と書かれていた「惜しくも」には、このことへの含みがあるように思えてならない。

 これによって初代・華屋与兵衛の功績が薄れるものではないが、寿司の道を求めすぎたが故の初代に比べると、残念感がことさらである。記事に年齢は書かれていないが、業界の名士として栄誉を受けた人物の老後には、獄中の風はことに厳しかったのではあるまいか。

 さて、今回は大阪鮨まで行き着きたかったが、すでに時間が足りなくなった。

 次回こそきっと、握りずしの大阪進出、握りずしが全国へ広がる背景にあった、もうひとつのイノベーションについて書いて行きたい。



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