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石のようなもの

 今年で最後、そう決めていることを彼らは知らない。知る由もないので来年、そしてまた次の年も、その誘いがなくなってふと「あ、そうか。なくなったんだ」と思うのかしれないし、あるいは無くなったことすら気が付かないのかもしれない。できるなら後者がいい。そんなふうに終わりたい。
 なにもそんな大仰な話ではまったくないのだけれど。

 数年来声をかけて年に1度、集まる会がある。これはメンツのうち1人の子の初めての就職を祝うため、2人だと気まずいので指導対象者のもう1人に声をかけ、3人で始めたものだ。もう3,4回を数える。今年、唐突にもう今回で私から音頭を採るのをやめよう、とふと思ったのだ。にもかかわらず、心ひそかに最後と考えていた今年の会当日に私はインフルエンザになってしまったので実質もう終わってしまったのだが。

 そういうふうにして、いくつかの続けてきた集まりを今年で最後にすることにした。別の言い方をすると、いくつかの恒例としている集まりはさらに継続していきたいと希望していることに気が付いた。これは、必要だとか不要だとかで分けるものではなく、その集まりを私が主体的に欲するかどうかだ。いずれの会も集まれば楽しいのだが、不思議と役割を終えたような気もする。私が声をかけたら断れないかもしれないし、それならばいっそ「これで最後」とも宣言せずにしゅうっと消えていくのが望ましい。

◇◇◇

 先日、20数年ぶりにかつてたびたび訪れていた懐石料理の店に人を伴っておとずれた。この店を私はおそらくもっとも愛しているのだが、それゆえに20年足が遠のいた。なぜなのか、考えてみても理由がよくわからないままだ。でもひとつには、そこはメニューがなくお任せコースのみなのだが、非常な量なので最後に訪れたときに食べきることにかなりの労力を感じ、一緒に連れて行く人を選ぶな、と思ったのはたしか。健啖家でない限り食べ切れる量ではないのだし、食べ残されるのは最悪であるし、一方で酒ばかりで食べない人ではもったいない、など考えていたら選択肢から消えていった、という側面があった。

 今年自分はいろんなことを正面から見据えてみた1年だった。わりとそれまでは止まることを許さず、とにかく走り続けることでスピードさえ上げてしまえば目に映る景色すら音速で過ぎていくので形などおぼつかなくなる。色の帯だけが後ろにたなびいていくことで、いろんなものをごまかしてきた気がする。ごまかさないと、恐ろしくて止まるしかなくなるような気もしていた。

 期せずして自分にいろんなものの正体を見ることを強いてみて、とてもよかったこととして「あきらめる」べきものをいくつか見出すことができたと思う。それも、若いころのようにしぶしぶ泣く泣く、未練がましくあきらめるのではなく、すーっと煙になって天にのぼっていくかのように私という肉体からそれらは離れていった感覚がある。煙が空にむかっていくにつれ、大気と溶け合っていつしか肉眼で見える実態を失ったとき、自分のなかでそれら一つひとつの物語の扉が閉まったのがわかった。
 それは音もなくぱたり、というふうに。

◇◇◇

 いろんなものの本なんかでさ、だれかが体験して得た教訓めいたことがあるもんじゃん。そんで本当に愚かなことは、自分で体験したことしか認めない人です、先人の教訓から学ぶべきなんです、みたいなことも書いてあるもんだ。

 けど自分にはそういうのホントに無理だったと思うよ。結局、ぜんぶ自分で強く望んだことはやってみないとだめだった。痛い思いしない方がそりゃいいよ。でも痛い思いしてからやっと自分なりの答えになるってこともあるんじゃない。なんだかそんな気分だよ。

 たくさんの「べき」論を携えて、自分という人間を語り、つくってきたと思う。だって語ることばが自分をつくる、これは真実だから。
 
 どういうわけか季節の風向きなんでしょうか、それら総点検の1年だった。手放すとかそういうんでもなくて、さんざんしつこくねぶり倒したら役目を終えて煙になって天にのぼった私の欲望や煩悩たち、それとあまたの傷みや驕りの結晶の数々。

なんだってこんなに浄化されちまったんでしょうね、と思ったりするけれど、それだけの傷みを味わってきたようにも思う。川底で幾歳月も行く水の流れにさらされて角を失い、やがてまるくなっていった石のようなものかもしれない。

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