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キョウチクトウにサルスベリ、忘れちゃいけないノウゼンカズラ。

 夾竹桃に百日紅、忘れちゃいけない凌霄花。
 真夏を鮮やかに彩る原色の花だ。読み方は左から、キョウチクトウ、サルスベリ、ノウゼンカズラ。真夏到来、しかも亜熱帯と化した日本の真夏は、屋外であっても自らの呼気で水滴ができるのではと思われるほどに高い湿度だ。そんな苦しい駅までの道を歩きながら、呪文のようにこう唱えている。
「キョウチクトウにサルスベリ、忘れちゃいけないノウゼンカズラ」と。

 いずれの花も、真っ青な空に白い雲が浮かぶ背景にとてもよく映える鮮やかな色がいかにも真夏を思わせ、不思議と原色のビビッドな自然の色は気づかず心にそっと何かをチャージしてくれるように思う。栄養ドリンクのようなわかりやすさではなく、かといって漢方のように穏やかでもなく、真夏の原色群は出逢った瞬間に “プラス1ポイント入りました~(チャリーン)”、という感じで、たとえばその効能は「目に少しの力を」、「踏み込む足に少しの確かさを」、「濃霧のかかったような思考に少しの明晰さを」取り戻してくれる、そんな感じと言えようか。

 「キョウチクトウにサルスベリ、忘れちゃいけないノウゼンカズラ」。

写真だけでも力がある

 サルスベリなどは盛りを過ぎるとどんどん色あせていきながら、いつまでも花が木に残る。最初から色あせている木もあり、「これを待っていた!」と言えるような鮮やかな色の時期や株に毎回出合えるものでもない。さらにいえば、後方に背負う青空が理想どおりに真っ青、という千載一遇のケースとなったらさらに少ないかもしれない。その分、そのすべてがピタリと合ったタイミングで遭遇したサルスベリは、瞬時に心と脳内に鮮烈な像を結び、このときばかりは “プラス1ポイント” どころか細胞に確かな力として私のものになる気がする。これは本当に不思議体験だ。

 反対に夾竹桃と凌霄花については、ほとんどが後付けのノスタルジーに近い。たとえば夾竹桃においては、若かった両親が我ら三姉妹の誕生に合わせた当時住んでいた家に一本ずつ植えた。物心ついた頃には既に夾竹桃の木は大きく成長していて、毎夏濃いマゼンタ色の花をいくつも咲かせた。けれど当時、要するに家庭で養われていた少女の時代、私はこの花も木も好きになれなかったので、なぜこんな陰気くさい木を誕生時に選んだのだろう、と思っていた。

今見ればふつうにかわいい花なのに


 その慣れ親しんだ家を取り壊すことになったとき、もっとも胸が傷んだのはその夾竹桃の伐採だった。あの木は処分されたんだろうな。しかも、うちの庭にあった夾竹桃が以降見たなかでももっとも色がきれいだったと思う。

 真夏の小学生は忙しい。早朝に起きて数メートル先の幼馴染の家にいき、小さい子を集めてラジオ体操会場に向かう。その子の家に、鈴なりとも言いたくなるような見事に花を咲かせる凌霄花の木があった。子どもながら、この花が満開になると夏の到来を感じ、ジージーと鳴く蝉の声と相まって、もっとも平和で牧歌的だった時代の夏の記憶を思い出させるのだ。百日紅や夾竹桃と違って、鮮やかな色でありながら花の中心から外側に向かって濃淡のグラデーションが美しく、まさしく元気をくれる橙色の花だった。

蔓に重たくいくつもの花が咲く

 原色の花というのは、強烈な「静」の象徴でありながら、同時に命としては躍動している。この不思議さが神秘であり、真夏の弱弱しい人間にさまざまにして恩恵を与えてくれるのだと思う。

 

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