河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと

I couldn't ever bring myself to hate you as I'd like
(Stone Roses, "I Am the Resurrection")

早いもので、将棋界の語り部、河口俊彦七段(死後、八段追贈)が亡くなって五年が経った。

河口俊彦老師の代表作である『大山康晴の晩節』ちくま文庫版解説を書いた縁で、その刊行直前の2013年12月の夜に老師の話を伺う機会に恵まれた。老師が亡くなるおよそ一年前になる。

『大山康晴の晩節』の担当者である筑摩書房の伊藤さんの計らいで老師とお目にかかるのが決まったはいいが、その日が近づいてくると自分だけでは心許ないと怖気づき、ピースオブケイクの加藤貞顕さんにお声がけさせてもらった。

加藤貞顕さんというと、今では「2000万人が集う“開かれた表現の街”の立役者」として知られるが、この2013年には名人戦第一局の観戦記者も務めており(後述するが、これはすごいことである)、cakes で梅田望夫氏と「「観る」将棋の楽しみかた」という対談を行うほどの愛棋家である。

恐れ多くも老師に渋谷までご足労いただいたのだが、名刺をいただいた後も(恥ずかしくて yomoyomo 名義の名刺は渡せなかったと思う)緊張で震えるワタシに老師がかけた最初の言葉は、「オレ、アンタみたいにオレの文章読んでる人嫌いなんだよ」だった。これにはワタシも震えたまま笑わずにはいられなかった。今思い出しても最高である。

老師が先制パンチを繰り出したのには訳があり、ワタシの『大山康晴の晩節』解説を読んで、以下のくだりが気になったらしい。

人一倍プライドが強い大山は、はらわたが煮えくりかえる思いだったはずだが、表情を変えずその終わってると言われた場面を並べ、記録係に声をかける。しかし、記録係も気持ちは宴席のほうに向いており、生返事をするだけだった――「こういうところで河口三段の将来は落ちこぼれと決った」と著者は断じる。大山と盤を挟んで一時間でも研究する気持ちがあれば、もうすこしましな棋士人生になっていただろう、と。河口俊彦の著書において何度か描かれてきた情景は、まさに当時の河口青年の実体験だったのだ。大天才の将棋が当人も意識しないところで周りに刻印を与えることの恐ろしさと、それを刻まれる側の哀切には心打たれるものがある。

このくだりに、老師が同じ話を使いまわしているという含意を感じたようなのだ。それは違います、とワタシはすかさず否定した。老師の愛読者は「使いまわしている」などと感じてはおらず、その微妙な筆致の違いまでを楽しんでいるのです、と。

例えば、老師は長年、将棋の神様は米長邦雄を(加藤一二三がそうだったように)一度は名人にすると書いてきた。しかし、時にその書きぶりが少し変わるときがあった。例えば、谷川浩司が最年少名人になったとき、芹沢博文の「可哀相だが米長はもう名人になれない。一人ならともかく、二人に抜かれたら、もう抜き返すことは出来ない」という言葉を引いて肯定してみせたり、そうした揺れまで含めて、何度も老師の文章を味わってきたのだ。

実際、伊藤さんとワタシは老師の文章を半ば暗記しているものだから、この日もある話題が出たときに、「老師はあのときこう書かれていました」と宣言して、伊藤さんとワタシで老師の文章を二人で声を合わせて暗唱したくらいで、このときばかりは老師も、カンベンしてくれよ、という表情であった(はずである)。

席に着き、ワタシが最初に話題にしたのは、昭和の頃の「対局日誌」を読むと、将棋界は家族的というか、何より対局後に棋士同士よく飲みに行かれてましたねという話で、老師もそれを懐かしがっておられた。面白いのは、その老師自身はまったくお酒をたしなまないことである。

ワタシ自身は、お酒は強くはないが間違いなく好きである。だが、何か事情があって職場の飲み会にアルコールを口にせずに参加した経験が数度あって、これが実に詰まらないのである。好きな酒が飲めないことも大きいが、それ以上にシラフで酔っ払った人間の話を聞かされること自体がはっきり苦痛なのである。それを考えると、老師が下戸でありながら酒席にしっかり付き合い、棋士たちのやり取りを書き留めてこられたことに感謝したい気持ちになる。

この日にしても老師を除く三人は飲むわけだが、特にワタシは老師に対面して貴重な話を聞ける感激でワインを飲みすぎてしまった。老師はざっくばらんに将棋界や棋士について語られたが、その中には「これは書いては駄目だよ」という前置きの後で話されたものもあり、これまで老師に伺った話はほとんどどこにも書いていない。しかし、そんな宝石のような思い出も、参加者の記憶にだけ留まるのでは、それはやがて消え失せてしまう。雨の中の涙のように。

今回、没後五年の区切りというわけではないが、老師から伺った話を少し書き留めておこうと思った次第である。しかし、前述の「これは書いては駄目だよ」もあるし、現役の棋士についての話を公開の場に書いて、彼らに迷惑がかかってはいけない。そこで既に亡くなった棋士についての逸話を中心にしたい。具体的には、ワタシがかつては「人生の師」とまで仰ぎ、その後いろいろあったが、なんだかんだ言って未だにその将棋が最も好きな棋士である米長邦雄永世棋聖の話である。

昭和の家族的な将棋界の話で少し緊張がほぐれたところで、もうこういうのは最初のうちに聞いておいたほうがよいと判断して、話の流れを切って老師に質問をさせてもらった。

老師は長年「小説新潮」で連載していたが、確か1998年のはじめのある回で、将棋の歴史上最強の棋士を十名選出している。現代の棋士では、木村義雄十四世名人、升田幸三実力制第四代名人、大山康晴十五世名人、中原誠十六世名人、米長邦雄永世棋聖、そして羽生善治(当時四冠)を選出していたと記憶する。

これを覚えているのは、毎月「小説新潮」の老師の連載だけを本屋で立ち読みしていた読者のワタシにとってもいささか唐突に思える企画だったこと、そしてその時点で既に永世名人(十七世名人)の資格を得ていた谷川浩司(当時は竜王名人)を差し置いて米長邦雄が選ばれていたからである。

以上を踏まえ、ワタシは老師に質問した。「あのときに将棋史上の天才十名に米長邦雄を選んだのは、当時A級順位戦で降級の危機にあった米長さんを応援する気持ちがあったからではないでしょうか?」

すると老師はこともなげに「それはないよ」と即答された。ワタシの仮説は空を切ってしまった。しかし、老師は続けてこうも言われた。「あの後、ヨネさんから礼を言われたよ」

ワタシが「小説新潮」の件の回を米長の応援だと考えたのは、棋士が念じ、祈るようにして他の棋士を密かに応援する様子を老師の文章で何度も読んできたからというのがある。老師からはあっさり否定されてしまったが、ワタシが祈りと解釈したものが、ちゃんと米長邦雄に伝わっていたことも分かる。

「小説新潮」連載の最後期の文章をまとめた『盤上の人生 盤外の勝負』における米長邦雄についての章で、彼が件の1997年度のA級順位戦で4勝5敗の星ながら降級となりフリークラス入りしたあたりから目立って容貌が変わりはじめ、気安いところがなくなったこと、そしてそんな姿を語るのはいささか辛い、と老師は書いている。

だからというわけではないだろうが、米長邦雄が2012年末に亡くなったとき、その追悼号となった「将棋世界」2013年3月号に老師は追悼文を特別寄稿しているが(『升田幸三の孤独』に収録)、正直に言うとそこまで気持ちの入った文章に思えなかった。その感想を老師に伝えたところ、どう答えられたかは覚えていないが、老師はそれを否定しなかった。

その流れで、この「将棋世界」の米長邦雄追悼号はなかなか異様だったという感想が老師を除く三人の口から出た。昭和と平成の棋界を代表し、日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った大棋士なのに、内藤國雄九段の文章がその代表だが、追悼号でそのダークサイドをここまで書かれた棋士は他にいないというので三人は一致した。

追悼号として見ると、羽生善治(当時三冠)をはじめとするタイトルホルダーの面々が寄稿して故人の功績を称えており、格好はついているものの、ライバルとして共に時代を築いた中原誠永世十六世名人は寄稿しておらず、かわりに(と書いてはいけないのだが)林葉直子さんが寄稿している。さらに書くと、米長邦雄門下で出世頭だった先崎学八段(当時)は書いておらず、かわりに(と書いてはやはりいけないのだが)米長の下で連盟理事として働きながら、彼に理事会を放逐された中川大輔八段が、その一件以降師弟は絶縁状態であり、死の床でも和解ができなかったことを書いているのは恐ろしいことである。

それは米長邦雄が、引退後も日本将棋連盟会長として将棋界において強烈な存在だったことのあらわれとも言える。

「なんで先崎さんは書かなかったんですかね?」という疑問が出たのに対し、先崎学が米長の見舞いに行ったときの「ちょっといい話」を老師は教えてくださった。凡人であればこれ幸いとそうした話を披露しそうなのものだが、その話を先崎さんは書かれていないと思う。これは当方の完全な推測だが、それをあえて書かないことが文筆家としての先崎学の矜持なのかもしれない。

基本的に老師は米長邦雄と一貫して友好的な関係であったと思っていたのだが、あるとき老師は米長に対し腹を立てることがあり、老師の「対局日誌」連載において、一年ほど米長の将棋を一切取り上げなかった時期があるのを老師から教えていただき、驚いた。その期間、取材日に米長が対局していてもその将棋だけは「対局日誌」で言及がないことになり、その異常に気付いた内部の人もいたかもしれない。

残念ながらそれが起きたのがいつ頃かは聞きそびれたのだが、記録マニアの方は「対局日誌」とそれに書かれた日付の対局一覧を突き合わせて、その冷戦期を特定できるかもしれない。

これは一種の観戦者側からの観戦拒否であるが、米長邦雄が名人戦で中原誠名人に挑戦した際、当時名人戦の第一局の観戦記を書くことが通例だった作家の山口瞳の観戦を拒否したのが、将棋界における対局者からの観戦拒否でもっとも有名な事件だろう(つまり、加藤貞顕さんは山口瞳クラスの重責を担ったということだ!)。

山口瞳は『血涙十番勝負』において、青年時代の米長邦雄をユーモアを交えながら終始好青年として描いており、何より中公文庫の解説を担当したのは米長である。観戦拒否は、何より山口瞳自身釈然としないものがあったろう。

将棋界には「と金タブー」という言葉があり、こうした棋界内の事件についてゴシップが書かれることを好まない。この一件についてはっきり書かれた文章を読んだことがなく、どういうつもりで米長邦雄が山口瞳の観戦を拒否したのか分からないと不満を口にしたところ、老師は「名人戦を戦うとなると、まず名人が一番で挑戦者が二番になる。しかし、米長からすると、山口瞳さんがいると山口さんが格的にその場の二番手になり、自分が三番になってしまう。それが我慢ならなかったらしい」という趣旨の説明をされた。

棋士という人種を知らない方にこの説明で通じるか分からないが、やはり一流の勝負師ともなるとどれほど穏やかそうに見えても圭角があり、神経質なものだ。そのあたりの気質については、米長邦雄が最晩年に著した『われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る』を読んでもその一端をうかがうことができる。

青年期から人間性を「さわやか流」と評され、一方で将棋は「泥沼流」とも言われたが、各界の多くのファンに愛され、棋界随一の人気者だった米長邦雄だが、名人位を羽生善治に奪われた後、日本将棋連盟の理事選挙に出馬して落選したことが彼の後年に影を落とす。

選挙で過半数の票をとったにもかかわらず落選したのは選挙の制度自体が米長が勝てないように仕組まれていたからだが、選挙に際して米長を応援した老師は思いもよらない現実を目の当たりにする。『盤上の人生 盤外の勝負』から引用する。

 選挙戦になってみると、一般の棋士の反応は意外に米長に冷たかった。理事会側のしめつけも強烈だったが、米長を嫌いだ、という棋士も多かった。
 米長を支持した私にすれば、若い頃を思えば、みんな米長に恩義を感じているはず。一票を投じるくらいは当然ではないか、と思った。(中略)しかし、形勢は米長に好転しなかった。あらためて、米長アレルギーの強さに驚かされた。何があって、そんなに恨まれているのか、私には理解できなかった。世間の人が見ている米長と、将棋界内部の者が見ている米長は、まるで別人のようなのである。

老師が受けたショックが伝わる文章だが、この夜も老師は「なんでそんなにヨネさんが仲間に恨みを買っていたのか分からない」と不思議そうだった。

自分が周囲にどう見られているかに神経質な米長もショックを受けたろうし、そのショックが数年後の50代半ばでのA級陥落につながったとワタシは考えている。

余談になるが、話の流れで老師は「花の55年組で最後までA級にいたのは誰だい?」と問いを投げかけた。もちろん誰かは分かるのだが、老師は「彼は気骨がある」と、件の理事選のときにその棋士がとったある行動について話してくださった。話を聞いた我々も「そ、それはなかなかできることではない」と思ったし、その棋士の立場は老師と異なるからこそ、「気骨がある」という評にも説得力がある。ただ、現役の棋士について事実関係に相違があることを書いてご迷惑をかけてはいけないので、これ以上の仔細は書かない。

1990年代後半は、中原誠十六世名人のスキャンダルもあり、中原・米長時代を築いた両雄が泥にまみれた形である。中原誠もそれが影響してであろう、気持ちよく勝てなくなり、米長邦雄の数年後には50代前半にしてやはりA級から陥落してしまった。結局、中原も米長も日本将棋連盟会長になるのだが、特に中原誠はそれまで「棋界の太陽」と言われ、名実ともに第一人者として棋界で人望と尊敬を集めていたのが、たった二年で連盟会長の座を米長に明け渡すことになったのは、米長の強烈な権力志向もあるだろうが、やはり件のスキャンダルの影響は否定できない。

そして中原誠の後に会長となったのは米長だが、その理事会に前会長の中原が副会長として残ったのも一般の感覚からするとおかしな話で、スムーズな政権禅譲でなかったことが推測される。2016年に中原誠は日本経済新聞の「私の履歴書」を書いているが、ある回で当時について触れており、将棋連盟の理事会でともに働くにあたり米長といくつも衝突があったことを、あのときばかりは「さわやか流」とはいかなかった、といった表現を使っていた。

日本将棋連盟会長としての米長邦雄については毀誉褒貶があり、というか追悼号での書かれようから容易に分かることだが、厳しく評価する人も多い。瀬川晶司氏のプロ編入試験のような明るい話題もあったが、名人戦の主催紙移管問題にしろ、女流棋士の独立問題にしろ、職員のリストラを含む日本将棋連盟の公益社団法人化に伴う組織改革にしろ、トラブルは多かったし、米長邦雄の存在自体をトラブルメーカーととらえる向きもあった。

しかし、プロ棋界が漫然と新聞社だけをスポンサーにしていては未来がないことは明らかで、米長会長がリスクや批判を伴うことを承知で断行する行動力を期待された有事のリーダーだったことは間違いない。一方で、青野照市九段は「将棋世界」2015年4月号(奇しくも河口俊彦老師の追悼特集がある)のインタビューで、米長は自身の幅広い人脈を活かして新たなスポンサーを引っ張ってこれるという自負があったが、彼が連盟会長になる頃には縁のあった財界の人たちはほとんど引退しており、思うようにいかず無念だったのではないかと語っている。その分析は正しいだろう。

そのような満たされなさを抱え、また将棋界で自分がかつてのように好かれていないことを米長邦雄は自覚した上で、日本将棋連盟を、その内部の一部を敵に回す勢いで振り回していたように見えた。その苦闘は、河口俊彦老師が書くように米長の晩年の容貌にあらわれたように思う。

しかし、彼は人生の最後になって、再び将棋の表舞台に立つ機会を得る。将棋電王戦におけるボンクラーズとの対局である。悪鬼のごとく権力に固執する日本将棋連盟会長ではなく、何より勝負師としての米長邦雄にとってピンとくるものがあったのだろう。コンピュータ将棋がいずれプロ棋士を実力で超えることは見えているが(事実そうなった)、今であれば自分にもコンピュータ将棋に勝てるチャンスがある。今コンピュータ将棋のトップに勝てば、将棋史の1ページにさらに自分の名前が刻まれる。

もちろん、それは引退済の棋士にとってとても高いハードルだったが、何より米長邦雄は将棋史において十指に入る大天才なのだ。その才能をもってすれば、なんとか勝負に持ち込めるという目算はあったろう。そして彼は、二手目6二玉という彼らしい奇策も用意していた。

しかし、将棋の神様は彼に最後に勝者として歴史に名を刻むことを許さなかった。それを予言し、こともあろうに米長邦雄本人に伝えた人が二人いる。一人は『われ敗れたり―コンピュータ棋戦のすべてを語る』に書かれるように彼の妻だが、もう一人は誰であろう河口俊彦老師であった。第2回将棋電王戦第4局の観戦記より引用する。

 一昨年の暮、戸辺誠六段の結婚披露宴があり、招かれて控えの間で宴会が始まるのを待っていると、米長が来て「今度、コンピュータと戦うんだ。その対策は十分に考えてある。」と熱っぽく語った。そこで私は「大天才の真価が見られるね」と言ったまでは良かったが、その後がいけなかった。「だけど、あんたが負けるよ」言ったとたん、しまった!と慌てたが、彼も私の真意を察してか、不愉快な顔もせず、その場はすんだ。
 あの頃の米長は、周囲と戦いつづけて疲れ切っていただろうし、体調も辛くなっている様子が見えた。だから、必勝形にはなるだろうが、どこかで大ポカが出てしまう、と思ったのである。しかし、「負けるよ」はなかった。こんな失敗を長い棋士生活中に数知れぬくらいくり返し、その度に反省しているのだが直らない。困ったものだ。そういう事があり、ボンクラーズ戦は、米長が勝つよう祈っていたが、ポカが出て負けてしまった。ただ、だからといって米長の名声が落ちたわけでなく、そこはほっとした。それと共に、コンピュータもここまで強くなったか、との感慨もあった。

とにかく相手をただ良い気持ちにはしないという将棋指し気質を老師の失言に読み取ることもできるし、長年の「対局日誌」連載に代表される著作の数々を可能にした老師の気骨とも言えるだろう。米長邦雄はボンクラーズに対し、「必勝形」とはいかなかったものの明らかに優勢な場面を長く維持していたが、疲労に起因すると思われる読み抜けがどうしても出てしまい、老師が予想した通りの展開を経て敗北した。

しかし、それは悪いことばかりではなかった。老師が書くようにそれで米長邦雄の名声は落ちることはなかったし、敗局から間もなく刊行された『われ敗れたり』は、勝負に打ち込むことで米長邦雄がダークサイドから棋士として一種の清廉さを取り戻すドキュメントにもなっている。そして彼はその年の暮れに、奇しくも大山康晴十五世名人と同じ六十九歳でこの世を去った。

その指し盛りに名人戦で何度も中原誠に苦杯をなめさせられながら、彼は堂々と強かった。米長邦雄が多くのファンに愛されたのは、言動の面白さもあるし、有名な「米長哲学」をはじめ、「兄達は頭が悪いから東大へ行った」の逸話をはじめ、自らの伝説化に長けていたのも大きいだろう。それらの逸話に将棋の地位を向上させたいという意思を読み取る必要もあるのだが、ともかく何より彼が強く、そして負けても美しかったからではないか。米長邦雄は人生最後の勝負においても敗れた。けれども、それにより彼は美しき敗者としての自らを取り戻した。

『大山康晴の晩節』の解説の中で、「人間の将棋とコンピュータの将棋は共栄共存してほしいし、それは日本将棋連盟会長のまま鬼籍に入った米長邦雄が将棋界に遺した宿題であろう」とワタシは書いた。そしてコンピュータ将棋が人間を凌駕した後に、「古い情報と見なされていた昭和の人間臭い将棋にもう一度脚光があたる日がくるのではないか」とも書いたが、その中に米長邦雄の将棋が多く含まれると信じている。

その夜はさんざん楽しい時を過ごした後お開きとなり、店を出て老師をお見送りした後、ワタシは加藤貞顕さんと渋谷のバーに入り、お酒を注文し、そして……二人で将棋を指した。どうしようもない。将棋が好きなのだ。

別れ際に老師には「今度は美味しい店に連れて行ってあげるから横浜においで」とのお言葉をいただいたが、いろいろと忙しくて当時福岡に住んでいたワタシが次に上京したのはそのおよそ一年後になってしまった。今さら特に用事もないのに押しかけるのもなと遠慮したのだが、それから間もなく老師の訃報に接し、それならとにかくお声がけだけでもすべきだったと伊藤さんと悔しがったのだが、これこそ後の祭りである。そういうものだ。

老師には(芹沢博文の遺志を継いだ)「木村義雄伝」連載を完結してほしかったのもあるし、何より『羽生世代の衝撃 ―対局日誌傑作選―』あとがきで名前を出している藤井聡太七段のプロ入りを見届けてほしかった、将棋史に名を残すであろう新たな天才について書いてほしかったという心残りがどうしてもある。

もっともそれが実現していたら、その前には将棋ソフト不正使用疑惑騒動と呼ばれる、三浦弘行九段というトップ棋士の棋士生命を殺しかけた極めて不愉快な冤罪事件も体験することになるわけだが。

三浦弘行九段冤罪事件では、当時の日本将棋連盟会長の谷川浩司、島朗常務理事が辞任しただけでなく、青野照市専務理事、中川大輔常務理事、そして片上大輔常務理事の三人が臨時総会において解任されるという前代未聞の騒動となった。当時、米長邦雄が会長だったらこんなみっともないことにはならなかったという声もいくつか読んだし、そうかもしれないとも思う一方で、米長が剛腕を発揮した結果、現実の世界線よりも数倍破壊的な事態になった可能性も容易に想像できるだけに難しいものだと思う。

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