見出し画像

降り積もる広島 (連載「写真の本」 6

『川はゆく』
藤岡 亜弥
赤々舎

写真の読み方というのに決まりはないと思っている。写真家が意図したとおりに見られる必要はないし、自分が撮った写真でいうならば、見た人が撮った僕の思いもよらない方向から写真を意味づけしてくれることもある。

昨今の写真はわからないとよく言われる。
ある辛口(毒舌に近い)有名書評家が書評本の中で長島有里枝や佐内正史やHIROMIXたちの写真を「写っちゃったってだけの写真でしょ」と切り捨てているのを読んでびっくりした覚えがある。彼女ほどの洞察力をもってしても昨今の「写真」はデタラメに見えるのか、という驚きと、いや、文字の世界で生きてきた人特有の感想かもしれないな、ということと。

写真は「わからない」。
では「わかる」写真とは何なのか。
そもそも「わかる」とは何なのだろうか。

わかるというのは、ざっくりと要約するならば、言語化される、ということである。
目の前に「猫」がいる。「猫」という言葉を知らないと、目の前の毛で覆われた動くものが何であるのか理解ができない。
その猫を「好きだ」と思うとする。「好き」というのは今まで経験的に蓄積されたとある感情の流れを「好き」という言葉で名づけたものだ、という来歴を知らないと、この感情が何なのかはわからない。

人は目で耳で、さらには嗅覚や触覚でも、周囲の世界を感知する。
しかし感知精度でいうならば、おそらく目から入るものが一番多様で多量な情報を載せているだろう。
前にソシュールのアナグラム論のことを読んでいて(残念ながら原著ではなく、それを紹介した内田樹の本で)、人が眼前の事象を見、その事象を言語化して認識の棚に並べるとき、実はその認識された事象よりもはるかに多くの視覚情報を一瞬でスキャンするように取り込んで認識(言語化)の材料にし、使われなかった膨大なスキャンデータは言語化されずに消えていく、ということを知った。一つの事象を認識するために、その裏では常に膨大な情報が集められては流れて捨てられていくらしいのである。

『街場の文体論』
内田 樹
ミシマ社

その「言語化以前」の情報を拾うことが出来るのが写真の特質だ。
写真は写真機が撮る。人の意志とは違う絵も拾うことができる。言語化へ収斂する意識の流れに逆らった絵を取り込むことができるのが写真の面白さである。

写真機は機械だから、完全に人間の生理感覚と一致しては動作しない。機械としてのズレが必ず生じる。シャッターを切る直前に見ていた光景の、言語化というプロセスを完了する流れからズレて動作するのが、むしろ当然なのだ。鋭敏な写真家はそれを感知できる。見ていたはずなのに見たこともない光景が写る、そのズレを許容し受け入れる能力も写真家の才能の一部である。

それを「写っちゃったってだけの写真でしょ」と言ってしまうならば、たしかにその通りである。そこまで踏まえて書いているならばその書評家は正しいかもしれない。
だが「写っちゃった」の価値を馬鹿にしてはいけないと思う。「写っちゃった」と思える写真を、じゃあその書評家さんも撮ってみればいい。写真とは、そうは都合良くは「写っちゃった」りしないものである。

・・・・・・

写真は「わからない」。
それは、優れた写真の多くが、言語化(=認識)以前の混沌をとらえているからだ。
「わかる」の一歩手前を相手にするのが写真なのだから、わからないのはむしろ当たり前である。

たとえば広島を写した藤岡亜弥の写真がある。『川はゆく』、最近発売されたばかりの写真集だ。
これは特に難解な写真集ではないと思うけれど、たまたま買ったばかりで印象が新鮮なので、この写真集について考えてみることにする。 

広島出身の藤岡亜弥が広島を写す。
広島といえば原爆の悲惨な歴史があるけれど、もちろん何も原爆だけが広島ではない。生まれ育った土地としての広島、一度国を離れ、外から見つめた故郷という視点もあるだろう。写真機はあえて他者の視点からそこを眺めることも出来る。原爆なんて知らない世代の目にもなれる。

原爆の上に降り積もった、さまざまな層の広島がある。
言葉の多数決に収斂される前の多重層な広島が羅列される。一点透視の構図では描けない広島を見せる。
一見とりとめもなく連ねられた写真群の流れの中に、それでもやはり土地の記憶のようなものが通底しているのが見えてくるかもしれない。
広島に降り積もる時間を描いているが、時間の堆積のしかたはてんでにバラバラだ。
この写真集は特に何の結論も語りはしない。別にそれでかまわない。
作者の藤岡亜弥に聞けばいろいろな「読み解き」のキーワードを語ってくれるかもしれない(近々トークショーがあるので楽しみにしてはいるが)。でもわざわざ聞かなくても、写真は言葉以前のところで屹立している。言葉でなく受け取ればいいのだと思う。

写真は真を写すと書くけれど、だったら「真」って何なのか、という問いをまず通過せねばならない。
結論から言うと、写真は「真」は写さない。むしろ真を疑うことを求める。真という言葉の解体を求める。
結局、世界とか、正しさとか、言葉とか、すべては多層的に振る舞う世界の、ある一面からの景色にほかならない、ということを写真は語る。
むしろ「真」の多層性を示せること、これが写真の重要な特質だ。

(シミルボン 2017.8)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?