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言葉と意味についてのあれこれ


その昔、演劇青年だった。高校の頃から演劇部に所属し、飽き足らず別劇団も作り、大学に入ってからもいくつかの劇団で舞台に立った。一時は没入してそのために大学を中退したくらいだ(まぁ、演劇のためだけじゃないんだけど)。
結局才なく、当時所属していた劇団の解散とともに演劇関係から足を洗ったのだが、まぁ、そんなことは詳しく書いてもつまらないから端折る。

僕が演劇を始めた当時、日本の演劇界を席巻していたのが野田秀樹率いる「夢の遊眠社」だった。野田秀樹は演劇青年だった当時の僕のスターだった。
台本から徹底的に「意味」が剥奪された舞台は衝撃だった。
鍛え抜かれた役者たちが弾丸のように喋り、走り、跳ね、野田秀樹や円城寺亜矢演じる「少年」が縦横無尽に熱を放ち、心揺さぶった。熱い熱い芝居だった。・・・なのに、台本には「意味」がなかった!

意味のない台本で、野田秀樹は自在に観客の感情を手玉に取った。
みな野田秀樹の戯曲を「言葉遊び」だと評したが、僕はそんな言い方が嫌いだった。言葉遊び? 何をヌルいことをほざいているのか。
夢の遊眠社時代の野田秀樹の凄いところは、台本から「意味」を抜き去っても「演劇」は成立する、という壮大な実験を続けたところだと思う。

ドラマに意味なんか要るか? と野田秀樹の哄笑が聞こえた。ひたすらかっこよかった。
結局、文学や演劇やそんなものが太古の昔から追求してきたドラマツルギーというものが、意味などなくても成立する「仕掛け」なのだということを軽やかに立証してみせたのが夢の遊眠社の舞台だった。
演劇性とは何かを問う演劇。演劇とは何かを問う演劇。

『野獣降臨(のけものきたりて)』や『小指の思い出』といった代表作を、劇場で観られる時代に演劇青年だった幸運を噛みしめる。
あれだけ胸を熱くして、まなじりを濡らして観た舞台の台本を、さて活字で読んでみる。舞台を観たことがない人には、さっぱり意味がわからないはずである。なのに、舞台は涙無しで観られなかった。今流れているこの涙のメカニズムじたいに考えを向けさせられる。人間の感情の仕組み自体をもう一度確認したくなるのだった。

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ところで。
ひらがなの文節の連続で書かれたとある日本語の、各文節の内側の言葉を適当に崩しても、案外言葉は人に伝わる、という実験を何かで読んだことがある。

ひがらなの ぶせんつの れぞんくで にんほごの うがちわの てときうに

案外人は言葉の前後端だけを目にしてあとは類推で文章を読んだりしている、と。
たしかに、上のひらがなは
「ひらがなの ぶんせつの れんぞくで にほんごの うちがわの てきとうに」
とちゃんと読めてしまう。
音としての言葉と文字としての言葉は微妙に乖離している。

「ことば」とはかくも不安定なものである。

我々が操るのは一字一句概念通りの言葉ではなく、言葉がユルくまとう色味、のようなものなのかもしれない。
「ひらがな」が「ひがらな」でもかまわない程度のユルい色味のようなもの、その羅列で出来上がる混色の連続、くらいの感じで人々は全体のぼんやりした意思を疎通している。っぽい。

野田秀樹がやっていたことは、結局この言葉がまとう「色味」の部分だけで何らかの疎通が可能であるという検証でもあるのだ。これを言葉遊びと言うならば、言語という仕組みの根っこまでいじる遊びだ。そもそも言語に意味など必要だろうか、というところまで切り込む話なのかもしれない。

J-POP系の歌を聴いていてもよくあるけれど、歌の歌詞というのは、みんな聴いてるようで聴いていないもので、単語として馴染んだ言葉が飛び込んでくるから安心して聴いているだけであって、それが日本語として意味をなして頭に入ってくるかどうかは別問題である(そして作詞家たちはそんなユルさを利用して、過剰に意味に乗りすぎない、「意味ありげ」な言葉だけで曲を完結させる手管に長けている)。
英語がわからない人が英語の「泣ける」歌を聴いてもそれなりに「泣けて」しまうわけで、人は別に歌詞の意味にいちいち感動しているわけではない。
ビートルズが「レリピー、レリピー」と意味不明の言葉で歌っていても、伝わるべきものは伝わってしまう。逆に「あるが〜、ま〜まに〜♪」とか歌われてもな。逐語訳であるからこそ阻害される何かがある。ほら、言葉は意味を欲していない。

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なんでまたこんなことを書いているかというと、最近音楽に関して、凄い体験をしたからである。
知る人は知っているが、僕は35年来の戸川純ファンである。

『戸川純全歌詞解説集 疾風怒濤ときどき晴れ』
戸川 純
Pヴァイン

まぁファンの言うことだから「あー、はいはい」みたいな感じで聞き流してくれてもいいのだが、まぁ、とりあえず聞いて欲しい。

最近、戸川純が過去の代表曲のセルフカバーを収録したアルバムを発売した。
その中でカバーされている「Men’s Junan」という曲に、ファンである僕も、一聴、ぶっ飛んだんである。

「Men’s Junan」という曲は1991年発売のヤプーズ(戸川がvocalを務めるバンド)のアルバム『ダイヤルYを廻せ ! 』に収録されている曲だ。
好きになった男に迷惑をかけまくるイカれたストーカー女子(職場にまでついていって受付嬢の髪の毛に火をつけたり暴れまくったり、隔離されていた場所から逃げ出したり、死ぬと騒いだり)の歌だが、現実離れしたぶっ飛んだ歌詞なので、歌詞の内容に共感して聴くタイプの歌ではない。まぁ、突飛な行動を楽しんで、懐の深い彼氏とのストーリーを笑って楽しめばいい感じの曲だ。
当時「ぶっ飛んだ女」と見られていた戸川純が、まぁ過剰なサービス精神で作った自虐曲という感じでもある。

それがセルフカバー・ベストとでもいう今回のアルバムに何故入っているのだろうと訝しんだのだが(もっと重要な曲があるだろう)、聴いてみたら、おおおお、唸ったのである。
以前はその天才的な、テクニカルな歌唱が、ヤバイ女の子の奇行を軽やかに歌い飛ばしていたが、戸川純は今回はド・ストレートに歌唱テクニックを捨てて「こんな女の悲しみ」を歌いきり、懊悩を爆発させていた。

言葉の意味に乗っかったのである。

同じ曲で、言葉が意味に寄ったり離れたり、ここまで変幻自在に歌えるものなのか。
怪我のこともあるし(戸川純は10年ほど前に交通事故に遭い足腰に重症を負ってまだリハビリ中である)自由に動けなくなった変わりに、彼女の中で何かスイッチが切り替わったようなのである。
彼氏の会社に乗り込んで受付嬢の髪にライターで火をつけ、隔離病棟から脱出して日本刀を振り回し自殺すると騒ぐ女が眼前で叫んでいる。可哀想にと抱きしめる男の腕の中で、男の愛の尊さに爆涙する。それはもはや「愉快な曲」などではなく、ヘッドホンのつい向こう側でまさに起こっている咆哮だ。

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結局言葉にとって『意味』とは何だろう、という話である。
言葉は言葉としてそこにあり、野田秀樹は言葉の上っ面を弄びながら、その実、言葉なんか関係がない部分まで演劇性というものを掘り下げて舞台を作る。
いざとなれば彼は、オノマトペだけでさえ、もしかしたら「あいうえお」だけであっても、舞台を作ってしまうかもしれない。言葉と意味が、かならずしも強固にリンクしているわけではないということを彼の演劇は証明している。

先程の「ひがらなの ぶせんつの れぞんくで にんほごの うがちわの てときうに」が、正しい日本語として「読めて」しまう話は、音としてのこれを読めばまるで意味が通じないことを考えると、言葉の「実体」のようなものは、どうやら文字よりは音に宿っているらしいと考えられる。
なのに、音で言葉を扱う演劇でさえ意味は言葉をすり抜ける。
読み間違いではない、聞き間違いでもない言葉を、人は意味を離れてでもやりとりできるのだ。

戸川純は新旧ふたつの「Men’s Junan」で、歌を言葉の意味に添わせたり乖離させたり、自由に行き来させられることを教えてくれた。
言葉に意味など必要ない、とまでは言わない。ただ、僕らが思っている以上に言葉は意味から自由である。
言葉は意味に乗ることも、離れることもできる。

とまぁ、なんだか言葉と意味との関係性/無関係性について、いろいろ考え込んでしまう今日このごろなのだった。

(シミルボン 2017.1)

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