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死にたい夜に効く話【16冊目】『フラニーとズーイ』J.D.サリンジャー著;村上春樹訳

本は毒にも薬にもなる。

これもう、大学に入る前からずっと思ってる。
自分自身、軽い気持ちで読んだ一冊が、その後の人生の転換点になっていたってことがあるし、それからの人生を左右するような考え方の基盤を変えてしまうきっかけになったってこともある。

それは、哲学書とか、自己啓発書とかに限らず、小説だって例外じゃない。むしろ、物語という形で伝えるからこそ、人間の奥深くの精神的な部分に、直接入り混んでしまうということだってある。

わたしが人生に影響を、とりわけ若者に影響を与えてきた作家と言ったら、最初に思い浮かぶのがサリンジャー。


サリンジャーといえば、数年前、新海誠監督の映画「天気の子」にサリンジャーが書いた本が登場して話題になったよなーっていうのが記憶に新しい。
はい、それがこれ。『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(以下『キャッチャー』)
…え、話題になってたよね?


「天気の子」に『キャッチャー』が出てくるらしいってことを知った時は、監督マジっすか!と思ったもの。
本が出てくる映像どっかにないかなーと思ったら発見。やっぱり作中では重要アイテムなんですな。


家出してきた主人公の帆高少年が、カップ麺を食べるシーンで『キャッチャー』が重しに使われていて…

なんちゅう使い方してんだ

カップ麺の上に…紙媒体だと…?
紙ふにゃふにゃになるやん。臭いつくやん。
いや、映画で使われているのは、ペーパーバック版で表紙がわりと撥水する紙質だったはずだから、大丈夫なのか?やったことないからわからん。(やる勇気もない)

このワンカットを見ただけでも、この主人公、かわいい顔していろんな意味で絶対ヤバい奴やんっていうのがわかる。
っていうのも、『キャッチャー』って作品、いろんな意味で「ヤバい」作品だから。

『キャッチャー』は、アメリカで出版されると当時の時代の空気というのもあって、若者たちのバイブルとして一世を風靡した。
ただ、その内容が当時の大人たちから教育的によろしくないとみなされ、大きな問題にもなる。学校で扱う、扱わないで問題になったり、法律で規制がかけられるほど。
そして、銃撃事件を起こした犯人が、『キャッチャー』の読者であった、ということが取り沙汰されたことは、あまりにも有名だ。

とにかく、サリンジャーって作家は、個人だけでなく、社会までも動かしてしまうほど、とんでもない作品を世に出してきた作家ってことだけ言っておきたい。


そういうわけで今回は、サリンジャーの名作『フラニーとズーイ』の話がしたい。まるで『キャッチャー』の話をするような流れだったけど、全ては前置き。

そう、わたしは『フラニーとズーイ』の方が好きなんです。



『フラニーとズーイ』は、一言で言ってしまえば会話劇だ。

『キャッチャー』と比べると、場面がどんどん展開していくわけでもない。それでもこの作品は、終盤へ向かうにつれて畳み掛けるような迫力で進んでいく。

『フラニーとズーイ』は、「フラニー」「ズーイ」の二部構成でできている。「フラニー」では、再会した恋人とフラニーの話。「ズーイ」では、フラニーの実家での話になる。
フラニーは才女の女子大生で、ズーイはフラニーの兄で役者をしている。(そしてよくしゃべる)

地元に帰ってきたフラニーは、すっかりメンタルがやられた状態だった。実家でのフラニーは、カウチの上から動かない。食事も取ろうとしない。ひたすらイエスへの祈りを唱えている。そりゃあ、両親は心配する。

フラニーの身に何かが起きたとか、そういう類のものではない。フラニーを苦しめているのは、人間のエゴについての問題だ。
エゴに塗れたこの世界に絶望している。富や名誉に執着する人々を軽蔑している。
彼女の苛立ちの矛先は、大学の教授や学生たち、はたまた大学という教育システムそのものに向かっていた。

知識というのは、より大きな叡智へと繋がっていくべきだし、もしそうでなければ、知識なんてただの無益な時間の浪費に過ぎないという、お座なりでも表面的でもいいから、ちょっとした仄めかしさえたまにあったならーたまにというくらいでぜんぜんかまわないんだけどー私もここまで落ち込んだりしなかったと思う。でもそんなものひとかけらもない!叡智が知識のゴールであるはずだなんて話は、大学のキャンパスではちらりとも耳にできないのよ。

J.D.サリンジャー著;村上春樹訳『フラニーとズーイ』新潮社、2014年、p.211

人間のエゴに対する問題というのは、スケールが大き過ぎて、一見、あまりにも自分とかけ離れた次元の悩みのようにも感じるけれど、フラニーの抱く、苛立ちや葛藤は、若い時に言葉にできないような、漠然と抱いていた感情と繋がるものがある気がした。

案外世の中には、フラニーの抱えた苛立ちのような感情に近いものを抱いて、社会へ嫌気がさしている人、さしてきた人はいるのかもしれない。それでも多くの人が、まぁ世の中そんなもん、と受け入れて生きてるんだと思う。

読んだ当時は気にもならなかったけれど、今読んで見るとフラニーの発言に、「うん、まぁそうなんだけどさぁ…」と思わないところがないわけでもない。ある意味、自分が物分かりのいい大人になってしまった、というところはあるかもしれないけど。


フラニーの悩みは、どうしたって解決できるような問題じゃない。
彼女自身が、落とし所を見つけない限り終わらない問題なのだ。


フラニーを救い出してくれるのは、兄のズーイだ。救ってくれる、とは言っても、生やさしいもんじゃなくて、ズーイはフラニーの発言に対して、理路整然と言い返してくる。

このズーイの言葉は、読んでいるこちら側もハッとさせられる。


学生時代から、誰にも理解されない苦しさの中、苦しい苦しいともがきならも、どこにも出口が見つからない日々を生きてきた自分には何か、自分の中で凝り固まっていた考えを、くるりと変えてくれたことは間違いない。

当時の自分に、一体、何が刺さったのだろう。初めて読んだ時から何年も経つけれど、うまく言語化することができない。

それでも、ここには、今の自分に必要なことが書かれている。
ということだけは、はっきりわかっていた。

読んだ当時、どれだけ自分に刺さる内容だったかは、本棚の奥から引っ張り出してきた文庫本に引いた線の多さでよくわかる。

例えばこんな箇所。

僕の記憶するところによれば、君はすべての座席案内人が天才でないからといって、がっかり落ち込んでいるように見えた。なあ、いったい君はどうしちゃったんだ?君の脳味噌はどこにあるんだ?もし君が普通じゃない歪んだ教育を受けたのだとしたら、少なくともそいつを活用しなくちゃ。そいつを逆手に取って使わなくちゃ。

同書、p.285

この小説が語ることの真意を、自分がどれだけ汲み取れているのかはわからない。
だとしても、やっぱりこの本が自分の生き方に影響を与えたことは間違いがない。読んだタイミングが良かったというのもあるかもしれない。(『キャッチャー』は読むタイミングが遅かったからか、あんまし響かなかった…)


この本は、読む人や、読んだタイミングによって、受ける印象は変わると思う。めちゃくちゃ刺さる人もいれば、なんじゃこりゃって思う人もいるだろうなぁ。


一つ言っておくとすれば、作中には、たくさんの宗教や文学の話が縦横無尽に入ってくるわけで、自分はすごくそういうのにワクワクするタイプだけど、宗教系の話にアレルギーがある人にはキツいかもしれない。(訳した村上春樹氏でさえ最初に読んだ時、宗教臭いと思ったようだし)

ちなみに、村上春樹訳の文庫には、文庫なら大体収録している解説的な文章はない。サリンジャーがそういうのを嫌がっていたということを踏まえてらしい。代わりに村上春樹氏の文章が載ったものがついてくるけど、新潮社の公式サイトで、そこには書き切れなかった部分も含めて公開しているので一応紹介。



それにしても、新海監督はメデイアでは、穏やかな雰囲気で話をする方だけど、これまでに世に出された作品を見ると、恐ろしくガンガン攻めてくる作家だよなと思う。
若者の心を掴んで離さない映画を作る新海監督は、ある意味、現代のサリンジャー的ポジションの作家なのかもしれない。

うーん、にしても帆高少年、ロックだ。嫌いじゃないぜ。


〈参考文献〉
J.D.サリンジャー著;村上春樹訳『フラニーとズーイ』新潮社、2014年