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死にたい夜に効く話【21冊目】『蜜蜂と遠雷』恩田陸著

数年前、話題になっていた頃はすごかった。
どこの本屋さんに行っても山積みで並んでて、図書館でも予約は数ヶ月待ち。

出版されて間もない頃、『蜜蜂と遠雷』からは「音が聴こえてくる」と話してくれた人がいたけど、その頃はちょうど、なんとなく「小説」ってもの自体から距離を置きたかった時期だったから、「へー」と聞くだけで終わってしまった。
だから、ようやく読み出したのは、文庫化してしばらくしてから。時代の波に乗れないのはいつものこと。


『蜜蜂と遠雷』

物語の舞台は国際ピアノコンクール。
世界中の若いピアニストたちが頂点目指してぶつかり合う。
物語の中心になるのは、4人のコンテスタントたち。

突如表舞台から消えたかつての天才少女。
亡き巨匠の弟子だという謎の少年。
優勝候補のイケメン若手の星。
家庭と仕事を持ちながら挑む社会人。

コンクールという舞台を密に掘り下げた、爽やかさあり、迫力ありの長編小説だ。

印象的だったのが、てっきりメイン四人の語りが中心になるんだと思いきや、語り手が次々と移り変わっていくこと。
友人、家族、他のコンテスタントたち、審査員、カメラマン…。ステージマネージャー、調律師、とコンクールを支える人たちにもスポットが当たっていたのもよかった。
一つのコンクールに対して、あらゆる立場の人の視点から語られることで、立体的な世界観になっていたような気がする。

出版された当時、何かと「最高傑作!」とあちこちで謳われているのをみて、「またまた大袈裟なw」と思ってた。
読んでみたら、確かに面白い。一気に読み終えてしまった。恩田陸作品の面白さを、ギュッと詰め込んだような物語。

主人公の女の子、その子の親友、主人公と関わりが深い男子、謎の少年。っていう人物配置は『夜のピクニック』っぽい。


コンクールという面で言えば、若い舞台役者たちのオーディションを描いた『チョコレートコスモス』と通ずるところがあった。


ところで、音楽を主題に扱った小説は山ほどある。
その中でもピアニストが出てくる小説と言ったら、個人的にはやっぱり『サマータイム』。


まだ読書に馴染みがない時に読んだ『アーモンド入りチョコレートのワルツ』も面白かった。


ピアノ繋がりでいえば、ピアノ調律師が主人公の『羊と鋼の森』もすごい話題になってたな。


とは言っても、ピアノコンクールを扱った作品と言ったら、どうしたって『のだめカンタービレ』が浮かんでしまう。(黒木くん好きだ)


だから、これだけピアノコンクール一本に絞って勝負してきた小説は、わたしにとっては『蜜蜂と遠雷』が初めてだった。


「音楽が聴こえてくる」と教えてもらった時、言いたいことはよくわかっていた。

だって、いい小説からは、音がする。

音楽を扱った小説は好きだ。
自分が普段から音楽を聴くのが好きだったり、楽器を弾くのが好きだったから、というのもあるかもしれない。

元になっている曲を知らないはずなのに、なんだったら、作中オリジナルの曲で原曲を知りようがないのに、なぜか頭に響いている感覚になれる小説がある。

小説と言うのは不思議なもので、文章だけで、ビジュアル、仕草、声のトーン、場の空気などを伝える。見えないもの、聞こえないもの、嗅げないものを読み手の頭の中に想起させるのだ。

小説ほど、受け手の能力に依存している表現方法はないんじゃないか?
音が出ない文章から、どうやってイメージを引き出すか。

聞こえないはずの音を、どうやって響かせるか。


明石が舞台袖で出番を待っている時のこと。

ふと、風を感じたよう気がしてステージのほうを見たが、扉は閉まったままだし、スタッフもじっとしている。
気のせいか。
明石はまた自分の手を見下ろした。
が、何か違和感を覚えてもう一度ステージのほうに目をやった。
回転扉の隙間と細長い覗き窓から光が漏れている。
明石は、奇妙な錯覚に陥った。
あの向こうに、おばあちゃんの桑畑がある。
不意にそんな予感を覚えたのだ。
今、その扉を開けたら、その向こうには、広い桑畑が広がっている。季節は初夏の、雨上がりだ。
明石には、その光景がはっきりと目に浮かんだ。
鈍い日差しが夏の色を帯び、熱っぽく辺りに降り注いでいる。

恩田陸著『蜜蜂と遠雷(上)』幻冬社、2019年、pp.382-383

このあと、リアルに桑畑の光景が描写される。
白昼夢のような幻覚のような体験。明石はその感覚を残したまま、舞台に上がった。

その時体験した情景は、演奏する曲へと繋がっていくのだ。音楽はピアノの前に座った時から始まるんじゃなくて、もっと前からすでに始まっている。

どの音を鳴らしているか、一音ずつ書き起こせばいいわけでもない。
曲自体の知識や技術的なところだけを解説しさえすればいいわけでもない。

曲自体の知識でも、演奏の技術でも、そこに登場人物たちの感情、物語が重なることに意味がある。
これまで生きてきた背景、思いや感情。その人を通して見える曲の世界観。

わずか数秒、数音の時間の中にある、細かな感情の揺れ動きを一緒に感じることで、演奏者の、時には観客の物語が、音楽と一体化することによって、まるでその音楽を聴いているような感覚が起きるんじゃないか。

その曲がどんな曲か知るのであれば、直に耳に届く映像作品の方が、各々が自由にイメージする音楽よりも「正確」なのは確かだ。

でも、そのある種の「不確定さ」が小説だからこそできる「体験」であり、小説ならではの面白さなんじゃないかしら。

『蜜蜂と遠雷』には、読者を引き込むだけの拡がりがあったのだ。
だからこそ、多くの人に響いたんだろうし、これからも多くの人に響くのだろう。

〈参考文献〉
恩田陸著『蜜蜂と遠雷』幻冬社、2019年



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