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人間の始まりと終わりはよく似てる

30数年前に出産して子供を二人育てた。その頃はまだ布おむつが主流で、紙オムツも初期の段階のものだったかな?

次第に普及され、特売の日には紙おむつを買い出しに行ったものでした。

あれから、30数年経っても、やっぱり紙おむつの買い出しをしていた。

幼子ではなく高齢になった親と、子育てみたいな暮らしをしている。


乳母車が車椅子を押すことに代わり、食べやすい形に食事を整え、トイレの手助けも似たような感じで下着の上げ下げを手伝っていた。

歳を取ると子供に返ると言われるけれど、本当にそうだなーと思う。

不思議なことに愛情は幼子に注ぐものと同様に老いた親にも同じように注げるようになった。

世の中には、親の面倒を避ける人も居るし、煩わしいと険しい表情で向き合う人も居るんだと思う。

かく言う私も介護に明け暮れた時には、逃げ出したい。放り出したい。と思ったこともありました。

【フレイルの期間】って、若い健常な時期から少しずつ機能が低下していく

出来たことが出来ない。理解が難しくなる。忘れることも増えて不安になる。心許ない。そう言うものが蓄積されて、思い違いから、苛立ち、暴言へと繋がっていく気がします。

それを過ぎると、出来ていた時期のことさえ忘れてしまい、その場その場を暮らしていくことで【不安】が見えなくなってくるようになるのじゃないか??って、思います。

母が今、そんな感じです。老いていることに抗わない。今ある生きることにだけ目を向ける。だから目の前にあるものだけに関心を持ち、受けとめるだけで達成感もあるのです。

まるで幼子のようです。

だから、この頃は介護と言うよりも、子育て時代の感覚が甦っています。母の喜ぶことで私が幸せになる。

この気持ちの余裕は、完全な介護を手放したからですね。サービス付き高齢者向け住宅に入居が始まり、あっという間に2年近く経つ。

国の制度を使って、介護する側の生活の安定を確保することがどれだけ大事なことか思い知った。肉体的な疲労よりも精神的な疲労が人を限界まで追い込んでしまう。自分を見失わないように、他人の目なんて気にせずに、明るい気持ちになれる道を探し続けて。。

介護に苦労する家族にとって『負担』『枷(かせ)』のようなもので悩まされると、解放されたい思いがどうしても湧いてしまうかも知れないけれど、最後まで慈しめるような形に持っていくのも、生きる工夫のひとつに思う。

制度をうまく活用し、上手に向き合うことだと思う。

人間の誕生はお祝いをする。
終わりは、しめやかに見送るけれど、華やかに見送ることもいいのかな。と、最近思ったりしています。


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