何を面白いと思うか

インスタグラムの検索欄を引っ張ると無限に動画が出てくる。出てきたら出てきた分だけ開いて時間を消費して過ごす日々。

中には、テレビで"面白かった"部分を切り抜いて投稿しているものもある。そういった類の動画には必ず、"面白くない"という旨のコメントがついており、そのコメントに対して、"面白くないなら見なければいい"だとか、"これを面白いと思えない奴は、つまらない奴に違いない"とコメントがつく。この小さな争いを見ていると、すごくモヤモヤする。(わたしはインスタグラムでも、YouTubeでも、争いに巻き込まれたくないのでコメントせずに見ているのみである。)

まず第一に感じるのは、"これを面白いと思えない奴は、つまらない奴に違いない"というコメントに対して、それは言いすぎじゃないか?ということ。人はみんな違う。その違いはその人の面白味を産むと思うから、つまらない奴と感じるのはあなたがその面白さがわからないだけで、その人の中にある面白味が存在しないことの証明にはならないのではないか?と。

そして、"面白くないなら見なければいい"は、無理な話で、見てしまったから面白くないと感じているわけだ。多分"面白くないと感じたことをわざわざコメントするな"という意味であろう。だとするならば、その通りかもしれないと一瞬思う。自分が面白いと思っていることを、"面白くない"と否定されたら嫌な気持ちになるかもしれない。

しかしやはり、どんな笑いも"面白くないと感じている人がいること"を忘れてはならないと思う。人の体型や顔を蔑んで笑いを産むのは簡単なんだろうが、もう正直それでは笑えない自分がいる。
テレビやSNSは、「何を面白いと思うか」を決める上でとても重要な役割を担ってきたと思う。テレビで人を馬鹿にした笑いが良しとされていたら、その延長線上で私生活において対面でも同じことをする奴が現れる。そのとき「馬鹿にして笑うのはやめて欲しい」と伝えても、「面白いしみんな笑っているんだからいいんじゃないか」と言われてしまったら?「空気を読めないお前の方がつまらない」と言われてしまったら?

インスタグラムのコメントを見ていると、そんなことが不安になる。

逆に、自分が面白いと思って言った言葉で誰かが傷付いてしまったり、つまらないと思っていたら?自分一人楽しければそれでいいのか?わたしだったら"面白くないと感じたことをわざわざ言うな"なんて言えない。誰にも指摘されなければずっと同じことを繰り返すし、ふと気付いたとき周りに誰も居なくなっていたら?そう考えると、"面白くない"と教えてくれる人がいることがどれだけありがたいことか。

人を馬鹿にする笑いを面白いと思えなくなったからと言って、全てがつまらなくなったわけではない。人に冷笑されたくもないし、冷笑したくもないという、ただそれだけのこと。コメントで好戦的な姿勢を見せる彼らは、何と戦っているのだろうか。何がそうさせるのだろうか。

いろいろ言ったが、モヤモヤを産むこの討論があるからこそ新しい価値観も生まれてゆくんだと思う。時代や価値観の摩擦で爆発した何かが、人類の新たな基盤となるのだろう。


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