見出し画像

欲しいのは考え抜く力

バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』、ようやくカントまで辿り着きました。
古代ギリシャのあたりは世界史みたいな内容で、カルタゴとか西ゴート王国だとか、国や民族の英単語が分からなくて苦労したけれど、時代が現代に近づくにつれて「哲学」っぽくなってきて読みやすくなり、スピノザ、ルソー、カントと来るとかなり面白く感じるようになりました。

他の用事をしている時は「哲学の本読むの面倒だなぁ」と思うのですが、読み(聴き)始めると刺激を受け思考が促され、引き込まれます。

ルソーの社会契約説、そう言えばレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』で触れていたなぁと思い出したり。彼が、ルソーがもはや現代人である自分たちには時間を遡って確かめることができないと書いた原始の社会契約の発生現場を自分は目撃しているのかもしれない、とブラジルのアマゾンで思う場面があります。でも、私がそれを思い出しながら考えていたのは、人間以外の生物でも高度な社会を作る生物はたくさんいるということ。「契約」というとき、言語の存在が前提になると考えますが、言語を持たない生物が複雑な社会を作るというのはどう考えればいいんでしょう。
私は、人間を含めた生物の自己保存欲求が社会の諸々のルールを作る動力となっているのではと思います。初めにルールを決定するのは人の意志ではなく環境や生物の身体構造で、言語(意識)は将来的な利便性のためにそれに遡及的に説明を与えているのではないかと。

私がこんなふうに考えるのは、人の意識が行動を引き起こしているのではなく、行動が先にあり、意識は後から告知を受けているだけなのに、それにも関わらずあたかも意識の決定によって行動が引き起こされたというように錯覚するような作りに私たちの脳がなっている、という説が科学的に裏付けられつつあると目にすることが増えたからです。

この「自由意志は幻想」説は実生活レベルでも、かなり納得できる気がします。
例えば、私たちの普段の生活は無意識的な行動にあふれています。まるで体がオートパイロット状態で意識は蚊帳の外、という時間がかなりを占めているのではないかと思います。「意識」は将来のために有用であると「意識以外のどこか」が判断した場面でだけ稼働するようになっているのかも、とも思えます。

意識の謎に関連して、以前に出会ったライプニッツのモナド論にも再度興味が湧いています。「なぜ自分は自分の世界にとって特別なのか」ということと、「なぜ、物理学的には特別な意味を持たない『現在』が、私たちには過去や未来と違って特別に感じられるのか」という問題は繋がっていて、モナドロジーはそれを解くヒントになるかもしれないと感じているからです。

今の私にはこんなふうにばらばらに頭の中に散らばる着想を論理的にまとめ上げる能力がありませんが、哲学講座で論理を突き詰める能力を鍛えることができれば、自分の考えを先に進めることができるんじゃないかなと楽しみにしています。


ありがたくいただきます。