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ムクドリの不思議、意識の不思議

こんにちは!

昨日、翠野大地さんのムクドリ(とヒヨドリ)の記事を拝読してから、また人の意識のことを考えていました。ムクドリは大きな群れで飛ぶことで知られています。大地さんの記事にも「群れ自体が一つの生命体の動き」という一文があって、その不思議に心を掴まれました。

ローマ大学の物理学者、ジョルジョ・パリージ氏(ちょっとググったら、すごい経歴の学者さんでした)の研究によると、大群で一斉に飛んでいるムクドリの一羽一羽はネットワークで繋がったような状態にあるんだそうです。隣の仲間と息を合わせている…というようなものではなく、群れの一羽が向きを変えようものなら、群れ全体が瞬時にそれに合わせて動く、という同期状態。生物の世界ではなく、結晶の形成や雪崩が起きる時と同じことが起こっているんだとか。

WIRED の記事(日本語)。

英語の記事。

私、哲学講座の課題エッセイは「美に客観的な基準は存在するか」で書こうと思っていたんですが、結局、「人は“自由に”行動できるか。そしてそれゆえに行動の責任を負うか」というテーマで書きました。つまり、自由意志の問題です。今までnoteで書いてきたことや気になっていたこと、たとえばチューリング・マシーンとかベンジャミン・リベットの実験のこととか、全部詰め込んで、今までの伏線を全部回収した気分です。このエッセイを書くために、人の意識や無意識のことを年末年始、読んだり考えたりして、自分の中では、「多分、意識ってのはこういうものなんだろう」という答えがなんとなく出たような気分なんです。
意識が連続しているというのはきっと錯覚だし、私たちが認識している世界は生物としての生存に有利なように脳が作り出した物語。この世界がシミュレーションだという学者がいると耳にしたことがありますが、結構、本当かも。群れで飛んでいるムクドリはいわば「無我」の状態なのだと思うけど、人間だって私たちの意識が認識できないだけで、本当はそういう何か大きな動きの一部品として「動かされている」のかもしれない。そういうことを今、思っています。でも、世界がシミュレーションだとしても、心が幻想や現象だとしても、虚無的に生きる必要はないと思っています。その理由というわけでもないのですが、哲学講座を受けたおかげで、「Stanford Encyclopedia of Philosophy (SEP)」という素晴らしいサイトに出会い、そこでディヴィッド・ハートリーという哲学者のことを知りました。ハートリーは、人の心は脳の生理的な活動に付随して起こる現象だと考えた18世紀の学者です。彼の主張を自由意志を否定するものとして批判する人たちは当然いたのですが、そのことについて、リチャード・アレンさんという学者さんがSEPのハートリーの項で解説している内容が美しいというか、胸を打たれるというか…、この世界がシミュレーションであることや自由意志が存在しないことが、この先、科学的に証明されるようなことがあっても、こういう気持ちで生きていけばいいんだろうと思わされるような言葉なんです。

Hartley’s critics accuse him of reducing the human being to a ‘mere mechanism.’ But from a Hartleian perspective, the ‘mechanism’ […] is an achievement, not a given — and a necessary achievement, if one is to live a complete human life.
(ハートリーを批判する者は、彼が人間を単なる機械に貶めていると非難する。しかし、ハートリー的な視点から言えば、この仕組みは初めから与えられているものではなく、獲得されるものだ。さらに言えば、獲得されなければならないものだ。人が完全なる生を生きるためには)筆者訳

Richard Allen, “David Hartley” (Stanford Encyclopedia of Philosophy ) 

こんな短い抜粋では訳がわからないかもしれませんが、解説する気力が今日はありません。ただ、「私」≠「意識」であり、「私」=「個体全体」として、意識を機能の一つと考えると良いのかなぁと思います。ここら辺のことも課題エッセイに含めた(ような気がする)ので、元気が出たら日本語に訳してnoteに載せるかもしれません。

最後に、ついでながら、Stanford Encyclopaedia of Philosophy は、英語で哲学をかじってみたい方には本当におすすめです。読み応えのある記事が山ほどあります。


ありがたくいただきます。