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近況

こんにちは、ご無沙汰しています。

すっかり寒くなりました。こちらはハロウィンが終わると同時にクリスマスまでのカウントダウンが始まるような感じです。まだ点灯はされていませんが、通りの電柱にはすでに役場の人によってクリスマス用の電飾が取り付けられていて12月に向けて着々と準備が進められています。
クリスマス自体は好きなんですが、あと一月半で今年が終わりだなんて!歳をとるにつれてどんどん時間が経つのが早くなっていくようで恐ろしいです。

さて、哲学講座、講義は理解できてもやっぱりうまく話せません。すごくたどたどしく喋っています。恥ずかしがりだし、日本語でもたどたどしいので仕方がないかな…とちょっと思ったのですが、たぶん発話の総量が足りていないだけだと思い直し、今はひたすら日本語と英語両方の本や論文を読みながら英語でツッコミ(独り言)を入れる練習をしています。

論文と言えば、私のような3ヶ月の短期講座受講生でも大学図書館がフルで使えるようになるので、今までならネット検索で気になる論文を見つけても「所属している学校・機関を通してアクセスしてください」と門前払いを食っていたのが、今はサクサクとジャーナル論文が見られるんです。すごく感動します。この図書館利用権のために何かしら短期コースを取り続けてもいいかもしれないとさえ考えているくらいです。オンライン図書館で読めるのは論文だけではないんですよ。本もたくさん電子化されています。なかなか図書館に直接足を運ぶことができないので助かります。最近はすごいですね!

コース修了のためのエッセイには「美は鑑賞者の目に宿るものなのか。芸術作品の価値に客観的な基準は存在するのか」というテーマを選ぶことにしました。
欧米のアカデミック・エッセイには日本よりもかなりかっちりした型があるようなので、この際に身につけてしまおうと思い、「エッセイの書き方」的なKindle本を買いました。採点者の視点が解説されていてなかなか良さそうです。人文系の学部生向けの内容です。

”Essentials of Essay Writing: What Markers Look For (Bloomsbury Study Skills)”      by Jamie Q Roberts

画像はAmazon.ukからお借りしました。

ちなみに「美は鑑賞者の〜」は英語では「Beauty is in the eye of the beholder」と言い、「何を美しいと思うかは見る人の主観による」、つまり「蓼(たで)喰う虫も好きずき」という意味で、英語圏では日常的に使われる表現です。

講座以外のところでは、最近、またウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』にはまっています。
この作品、中世イタリアの僧院が舞台で、政治・宗教事情の描写が難解でとっつきにくい印象があると思うのですが、その辺の細かい部分をさらっと読み流すと、いわゆる「なろう小説」みたいにも読めます。バスカヴィルのウィリアムとメルクのアドソという他所から来た師弟コンビが北イタリアの僧院で起こる連続殺人事件に当時最先端の科学技術(老眼鏡やコンパス)と卓越した推理力で無双する、的な。
ウィリアムはシャーロック・ホームズがモデルで、アドソはワトソンのもじりです。アドソはワトソンと違って純真な10代の修道僧見習いですけれどね。
2人とも漫画チックなぐらいキャラクターが立っていて良いです。特にウィリアムは14世紀としては先進的すぎるぐらいのフェミニストで頭が切れて、しかもお坊さん!お坊さんってカッコ良いですよね。少林寺のカンフーするお坊さんも大好きなので、まるで私のための主人公設定みたいなんです。若いアドソも愛らしいです。不審者を暗闇の中追いかけて、自分の僧服の裾に躓いて、「後にも先にも修道院に入ったことを後悔したのはあの時だけだった」なんていうような、クスッとするようなユーモアも随所にあって、エンタメ小説としても十分に楽しめます。

さて、先ほど「無双」と書きましたが、実は読んでいくと、そうでも無くなってきて、だんだん2人の葛藤が見えてきます。
ウィリアムには優秀な異端審問官だった過去があります。彼がその役から引退したのは、異端と正統の線引きが曖昧で恣意的であることに気づき、嫌気がさしたからでした。そんなウィリアムと行動を共にするアドソも、だんだんと大人の世界、信仰の世界のいろいろな矛盾に気づいて悩むようになります。

文明が発達し知識の集積が進むにつれ、合理的思考が育ち、そこから生まれた批判精神が、やがて自分自身の、あるいは世間一般で絶対的とされている価値基準への疑念に繋がっていくというテーマ、これはポストモダン文学の大きな特徴なんだそうです。
私はポストモダンという言葉が今までよく理解できなかったのですが、『薔薇の名前』鑑賞のために界隈を色々リサーチしてみて、ようやく腑に落ちた感じです。
でも、まだ疑問なんですが、ポストモダンの意味を理解できないながらも「ポストモダンはもう終わった」というような言葉をよく耳にしたものですが、モダン(近代)の後の、世界が多元化して社会が価値観の迷子になっている状態をポストモダンと呼ぶなら、現代社会はまだまだどっぷりポストモダンな気がするのですが、どうなのでしょうか。どなたかご教授いただけますと幸いです。

最後に、こちらの論文、ネタバレなので本作を未読の方にはお勧めできませんが、読んだことのある方にはとてもおすすめします。こちらを読んで小説を再読すると一層深く味わえると思います。

「モダニズムとポストモダニズムの共存 
ーーエーコの『薔薇の名前』の場合」
村上恭子

https://core.ac.uk/download/pdf/70325363.pdf


ありがたくいただきます。