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アフリカで継承される初代キリスト教会の伝統


五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒行伝第2章1節〜4節)

1983年〜1993年まで約10年間アフリカのウガンダの宣教師として前任地の香港から妻と1才になる娘と私の3人で赴任した。ウガンダ共和国は東アフリカにあり丁度赤道直下に位置する。海のような大きなビクトリア湖を囲んでケニヤ、タンザニア、ウガンダがある。また北にはスーダン、東にはコンゴ民主共和国(旧ザイール)、ルワンダとも国境を接している。とても信仰熱心な国で国民の約85%がカトリック、聖公会、諸派などキリスト教徒、約12%がイスラム教徒、約3%がヒンズー教、バハイ教、ユダヤ教、土着宗教などである。そんな中キリスト教の統一、諸宗教の調和統一という大きな目標を掲げて入国した。

まず驚いたのが日曜日には殆どのお店が閉店してしている事だ。空き家になっているからではない。クリスチャン達が日曜礼拝に参加するためだ。日曜日にはデパートなどお店が賑わう日本での光景を見てきたので驚きだった。日曜日にお店が開いているのはイスラム教徒の店だ。彼らは金曜日にモスクに行く。首都カンパラにあるカトリック教会やチャーチ オブ ウガンダと呼ばれるイギリス聖公会系の教会などの本部教会では早朝、10時、午後1時、午後3時、夕方の5回に分けて礼拝が行われ信徒は自分の都合に合わせていずれかに参加する。また地方のどんな小さな町や村に行っても規模は小さいが教会が建っている。信徒に聞くと何年もかかって信徒からお金を集めて自分達の教会を建設していったという。教会やモスクが彼らの生活の中心だ。様々な宗教が混在しているが、互いの宗教を尊重して共存していた。それは長い歴史がそうさせてきたのだと思う。また学校でも宗教教育の時間があって、キリスト教やイスラム教など主要宗教の核心部分を全ての生徒に教えるので、それもお互いの宗教を理解しているので共存の助けになっていると思われる。それ以上に宗教教育は子ども達の人生にとって良き指針になっている。

それから既存のキリスト教会に満足しないセーブトクリスチャンと呼ばれる神霊集団はあちこち存在し、大きなテントを張ったり、集会所に数十人集まり太鼓の音と共に大きな声を張り上げて徹夜祈祷が頻繁に行われていた。その様子は丁度初期のキリスト教がイエス様が十字架で亡くなられ、死後霊的に復活されて蘇られ、使徒達の前に霊的姿を現わされ、使徒達を再び呼び集められた時に似ている。初代教会では屋根裏に120名集い熱心に祈っていると、イエス様の復活から50日後五旬祭(ペンテコステ)に聖霊が降臨し、使徒達は異言を語り力を得て伝道に出かけて行った。アフリカでは、そのような霊的復興が盛んであり聖霊の降臨とキリストの再臨を待ち望んでいた。

私達はその再臨のみ言を携えてアフリカに行ったのであるが、当初はなかなか受け入れてもらえなかった。あるクリスチャンから何故あなたは東洋の仏教国日本からアフリカまで宣教に来たのか、私達が日本に宣教に行かなければならないのにと言われた。日本での伝道は神様の存在を信じない人が多いので、まず神様の存在から説明しなければならない。しかしアフリカでは神様は皆んな信じているし聖書も読んでいる。その点、伝道し易い。しかし聖書の知識を十分に持たなければ彼らに説明できない。何故なら彼らはすぐ、それは聖書のどこの何章何節に書いてあるかと聞いてくるからだ。

アフリカでの宣教活動は各国での経済的自立が宣教本部の基本方針だった。伝道活動に加え経済活動も重要な活動の1つだった。この経済活動をしている時、町の長老と言われる有力者に出会った。その方は統一原理を受講され感動された。そして町のキリスト教会の牧師達やイスラム教の指導者や町のリーダー達を数十名集めてくれて、キリスト教会内で統一原理のセミナーを開いてくれた。ISUM (Introductory Seminar for Unification Movement)と呼ばれる1日セミナーなので全部は紹介できないので、統一原理の主要な部分の創造原理と堕落論と復帰歴史の3大原理を紹介したがリーダー達は熱心に聞いてくださった。講義後熱心な質疑応答があった。

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