『天気の子』が賛否両論なのは音楽のボリューム問題なのではないか

『天気の子』が賛否両論なのは、難しい話ではなくて、音楽のボリューム問題なのではないか。
『天気の子』のクライマックス(銃が出たらそれは使われなければならないの法則で使われる後半のシーン)で、あの曲がいままでとくらべものにならないボリュームで流れ、壮絶なアニメーションと、壮絶な幻視のシーンへと突入する。
ぼくは、ここで「ノレて」、ここまで心に浮かび上がってきそうになった「小さなツッコミ」すべてを忘れて、ずっと泣き通しで見てた(嗚咽を抑えることすらむずかしいほどに)。

『天気の子』は、ここであきらかに「賭け」に出ている。主人公はモラルに欠ける行動を犯し、物語の理屈を突き破り、音楽は大ボリュームになり、キメの曲が流れる。「ここで泣け!」と映画そのものが叫んでいるし、強制しているし、そのようになるように総力を結集している。
*この「映画が泣けと叫ぶ」ことを、そのうちのひとつのテクニックを象徴として「音楽のボリューム問題」と呼ぶ。

ここでノレた人はおめでとう。泣ける。もう、何も関係ない。感情がそのように動く。理屈も、現実も、道理もふきとばして、感情が動く。泣ける。それはものすごく強い解放感だ。

だが、ノレなかった人には、コケオドシにしかみえない。モラルに欠ける少年が、何の理屈もなく無謀な行動をしたら、それが物語のご都合でうまくいきましたという展開を、泣けとばかりにボリュームを大きくした音楽と、アニメートで、見せつけられる。どっちらけであろう。ひとりよがりな男が泣きながら熱弁して、周りが熱狂している会場に、しらーっと佇んでいる、という気持ちになってしまう。

ノレた人は、あとから振り返っても、すべて許そうという気になる。というか、小さなツッコミ部分は、すべてその「大きな賭け」に勝つために必要な道具立てだったことが実感できる。
だが、ノレなかった人は、「大きな賭け」そのものが馬鹿げた茶番にしか見えないのだから、振り返っても振り返っても茶番の山だ。

だけど、フィクションはもともと、そういうもんだ(現実もな)。

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