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「あきたびじょん」とやら

 ちょうど1年前のこの時期に、用があって秋田へ行った。散策ついでにぶらぶら歩いていたら秋田県庁の前を通る。大抵どこの県庁も横断幕で、その県のスローガンなんか掲げていたりするが、秋田の場合は「あきたびじょん」。厳密に言うと「ょ」がすごく小さくて、遠目に見ると「あきたびじん」と読めるようになっている(写真参照)。これを見たとき私は正直なところ「秋田美人は色々背負わされて大変だな」と思ってしまった。秋田に女に生まれなくてよかったなと思う。それくらいに秋田美人への期待感をどことなく感じた。 

 それでこれから書くことの前置きとして私は秋田に縁のないよそ者で、こんな問題提起は当事者がどう思うかが最重要であって、当人が「それでいい」と思うなら、それで済む話なのである(ただ「わたし秋田美人なんですけど~」というのは言い出しにくい気もする)。とにかく、私のは余計な心配をしているにすぎない。是非、戯言としてお読みいただきたい。 

 もちろん秋田美人には良いところもあって、例えば美人が2人いたとして、片一方が秋田美人だと印象に残りやすいような気がする。例えは悪いが、同じくらい美味しい牛肉を食べて、片一方が松坂牛だと知るとより美味しい感じがするようなマーケティング的な利点はもちろんあるだろう。 

 この手の美人でよく挙がるのは「京都美人」とか「博多美人」とかもあるが、問題はこれが一体だれが作った「価値基準」「ものさし」であるかである。言うまでもなく男社会のなかで男性目線で一方的に生み出された産物なのである。 

 さて、女性側が男女平等をどれくらい進めたいのか知らないが、こういうちょっとしたひずみが人間に画一的に「女性らしく」生きることをひそかに強いているわけである。男女平等、つまり「男」「女」での区別を越えたひとつの「人間」としてカテゴライズするレベルまで持っていきたいと考えたとき、この看板は非常に邪魔くさいと思いませんか? 

 いくつかやり方があって1つは女性側が物差しをつくる。例えば「秋田イケメン」とか「博多イケメン」とか(いずれにせよ私には縁がないが)。もしくは、これらを一旦全部捨ててなくすかである。過去の産物のいいとこどりでは、中途半端な結果を招く。そこにはやっぱりひずみが生じるからである。 

 「あきたびじん」の横断幕が変わる日は来るのか。散々書いたが、変わらないなら変わらないで、それが総意なのだからそれでよいのである。 

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