エンデの『はてしない物語』

 エンデの『はてしない物語』を読んでいて、ふと「これは空虚さを描き続けているのだ」と気付いた。

 自分の心の中にある「何もないところ」「埋まらない空白」。それゆえに、生まれ続けていく物語の話。

子どものころに描くお話が、情報の充溢や自由な心から生まれているのだというのは、大人の視点であって真実かどうかはわからない。

 むしろ知らない事、満たされない事、不自由な現実から、物語は生まれるのだということが、すでにバスチアンの置かれた境遇から指摘されている。

 そしてそのことを私たちは疑問視せず、彼の、万能なる物語の創造主である地位について、違和感を持たない。
そして彼が、自分自身のコンプレックスや境遇を忘れ始めたとき、まともな想像力を発揮できず、物語が彼の手から離れていくさまも、ストーリーとして受け入れる。
 バスチアンの描く理想の自分を、「はじめからこうだった」と認識すること。それは理想の実現であったはずなのにどこかで何かが足りない。大事な友人も「君らしくない」と言う。望みが叶うこと、叶えてくれるアウリンも良いものの筈なのに、誰も変化を喜んではくれない。


 物語はつかの間の自由を与えてくれる。現実を忘れて没頭し、今の自分のありのままを無かったものにも、思わせてくれる。けれどそれは、現実を変えてくれる力ではなく、自分を見失い続ける、新たな喪失の旅路となる。

 本当に欲しいものは、本当に願うものは、そんなに多くはなかった。おまけの欲求がいつのまにか、中心を占めていることに気付いてぞっとする。お互いを認め合う友人、帰る家。欲しかったものは、他の誰もが望むものではなく、自分だけが望みの形を知っているものだけ。


 自分は孤独であると認めること。人気者でも万能でもなく、愛情に飢えても、求める方法が分からず、帰るべき家を見失っている。

 自分が求めるものが本当は何なのか、物語が欲しいのはあくまで表面的な、物語の住人たちの欲求であって自分ではない。満たされない虚無は消えてなくなったのではなく、そこにあり続けるもの。


 バスチアンが初めに虚無にしたことは、それに名前を付けること。虚無があると認めることだった。あると認めたからこそ新たな物語世界が生じた。「僕には永遠に”無いもの”が有る」。 


 満たされないから、満たそうとする。持っていないから、手に入れようとする。初めから与えられている者であれば、望もうとしないようなものが、心から必要だ。


 「幼心の君」とは、バスチアン自身のこと。追い詰められ非力で、力なく横たわっていながら、生きることをあきらめず、光を求める意思。

純粋な原初の自分自身は、すでに出来ないことだらけだった。彼女は「生きよう」としこそはすれ、それ以上のこと、それから先のことを示してはくれない。

 はじまりは、始まりにすぎず、それからを描くのは、僕の仕事なのだということ。アウリンを握りしめながら、そのことに気付くのも時間がかかる。

 願いの力は、虚無から生じている。でも、物語の中で願いが叶っても、満たされない。本当の僕は、現実を生きなくちゃいけないからだ。

 物語を介して、生きる気力と願いの本質を知ることは出来る。その力を持って帰り、生きることにつなげられればいい。いや、つなげなくちゃいけない。物語から、「帰ってくる」ことの重要さ。そこまでが描かれる物語を、他にあまり知らない。

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