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ピータードイグ展/小説「正解の音、卓球の台」

ピータードイグ展に行きました。

自分がやりたかったことはこれだったんだなと、大変悔しく思いました。とても素敵な作品の数々だったので、皆さんも行くといいと思います。

細かくこの絵にはこう思ったとか、そういう感想を書こうと思ってメモしながら回ったのですが、そんなことをしても虚しいので、見た絵の一枚を元にお話を書きます。

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私は酒に酔っていた。

今日は私が留学に出る前の最後の集まり、もとい飲み会だ。まあ、集まった彼らのほとんどは私の門出云々というより単に酒を飲む機会を求めてきているのが見て取れた。というのも、私が話の中心に据えられていたのは初めの数分ほどで、すぐに各々が好きに会話し、席を替り、談笑していた。私がもっと話上手であれば、初めの時間を活用して空気を掴みずっと今日の主役でいられたかも知れない。しかし私はそのような超能力は持ち合わせておらず、やんわりと端の席に移動し会話を眺めていた。

盛り上がる会話の余波を受けて辛うじて同じ場を共有している感じは、考えてみれば小学生のころからよくあることだった。それでも私はこのようにサークルの人間たちと飲み明かすことができなくなることがむしろ大変に名残惜しかった。なぜ留学することになってしまったのだろうかと後悔した。何より心残りなのは彼女のことで、向こうは私がこの国を去ることをどう考えているのだろうかと考えていた。今日も私は彼女の隣に座ることはできなかった。

反対の端の席で、何人かがひと盛り上がりする音がした。そちらに注意を向けると、彼女と仲のいい人が、彼女についての話をしている風だった。そこで何かを聞いた男の「まじかァ、俺地味に気になってたんだけどナ」というわざとらしい大声がざわめきの向こうから聞こえたとき、ああ、そういう話か、と思った。そういうこと、あるね。

どうすれば、無限に思われる距離を乗り越えて彼女の隣に辿り着けたんだろうか。どれだけ私が走って追いかけても、その間に少し歩かれてしまう。私はアキレスより遥かに鈍足なはずだし、彼女は亀よりも速い。

いや、私ははじめから走ることさえ諦めていたかもしれない。どこに向かえばいいのか分からなくて。

私は普段、そこまでの大酒飲みではなかったが「前々からどんなものか気になっていたし、ここはいっちょ、記憶を失うほど飲んでやろうかな」と静かに決意した。自分の体が全てアルコールに置換されれば良いと思った。私が私であること自体を失いたい。そんな気分だった。

程なくしていつもよりハイペースに飲んでいる私に気がついた何人かが、今日は調子が良いね、などと声をかけてきた。私はこいつら片端からぶん殴ったら面白いかな、とか思う破滅的な気分に満ちていた。しかし私は人を傷つけるほどの勇気もないので、ただ目の前のグラスを空けることで自意識を破壊しようとしていた。

「お前も俺もいなくて良いんだぞ。覚悟せよ。」みたいな抽象的なことをずっと考えていた。ひょっとしたら実際に声に出していたかも知れない。


数時間後我々は駅前で解散した。

私は意識が朦朧とする中、誰にも見送られずひとり下宿に向かい歩いていた。そこで手を突っ込んだ自分のポッケに下宿の鍵がないことに気づいた。そのときようやく、下宿はすでに解約してあり実家に帰る必要があることを思い出した。「鍵、ねえじゃん」と呟いた。実家までは電車で2時間くらいかかる。今何時か調べずとも、終電をすぎていることは確かだ。

泊めてくれるかも知れない友人は一人しか思い浮かばない。私はとりあえず彼の家に向かってみることにした。

先にライン入れとこうかな、と解像度の低い画像のような、波打つ思考でスマホを探ると、それがないことに気づいた。どこかで落としたらしい。これは大きな損害だな、と一旦状況を確認した後、ぐらぐらと近くの公園に入った。

ブランコに腰掛けて、これからどうしようかとゆるい放物線を描く意識で考えた。

「なんで僕はこうも、何もうまくいかないんだろう」これまで脳裏をかすめても言葉にしないできたことが口から漏れ出た。涙が流れていた。

ふと地面に落ちていたボロボロの卓球ラケットが目に入った。ひどく傷んでいる様子だった。誰にも見向きもされずにここにずっと置かれているうちに傷ついて汚れたのだろうなと、自分を重ねて、拾い上げた。

顔を上げると今自分のいる公園が泊めてもらいたい友人の家の近くのものであることに気づいた。下宿のそばからそんなに歩いただろうかと不思議に感じたが、自分が酔っているからだろうなとこの時は思った。

一度公園を出て大きく回り込めばすぐそこに彼の住むマンションがある。しかし回り込まなくても、「この奥の林を突っ切って低いフェンスを越えるとだいぶショートカットできる」と前に聞いたのを思い出した。「半分の時間になるよ」と言っていた。

私は所々外灯が照らす木々の間をまっすぐ、酔った自分なりのまっすぐで歩いた。

人が歩くことを想定していないのか、だんだん外灯が減り、足元も見えないほど暗くなってしまった。しかし、気が大きくなっていた、というか判断力が落ちていたのでそのまま歩いた。途中で、「半分の時間になる」というのは前にみた夢の中での会話だったような気がして、振り返ると、もはや背後も真っ暗だった。そもそもその友人の名前はなんだったっけ? 

何も分からなくなってしまった私は近くの木にもたれるようにして座り込んで少し休憩することにした。そしてそのまま眠り込んでしまったらしい。


目が覚めると私は、朝の林の中にいた。薄く開けたまぶたの向こうに日の光を感じた瞬間二日酔いを覚悟したが、意外にも体は軽かった。そのせいか気分も昨晩よりはるかに良く、起き上がって早朝の空気を目一杯吸い込んだ。

晴れやかな気分を満喫していると、少し離れた場所からカン・コッコッ・カン・コッコッと音がした。なんの音だろうかと足を踏み出すと、自分の周りに草が伸び放題になっていることに気付いた。

なぜか「昨日もこんなに草が生えていただろうか」という疑問は少しも浮かばず、私は音のする方へ吸い寄せられるように歩いた。

それは卓球の音だった。モザイク?タイル?の壁の前に卓球台があり、人影がサーブしていた。人影は一つで、台の片側から、反対側に向かって、帰ってこないサーブを静かに、淡々と続けていた。人影の左手にはなぜか常にボールが握られていた。

目に映る全てのものが理解不能なはずだった。用途不明の壁も、こんな場所にある卓球台も、虚空に向けてサーブし続ける影も、何もかも。しかし私は、不思議と落ち着いた心でそれらを眺めていた。

不意に右手に重みを感じた。何かと思って見ると、私は無意識に昨晩の卓球のラケットを、人と握手するようにして握っていた。

そうか、そういうことか。私はここにいる意味がわかった。あの人影は私を待っているのだと確信した。卓球台に向かって踏み出す。初めて感じる気持ち。そこに向かって歩けば良いと感じながら歩くのは、こんなに楽で嬉しいことなんだ。

カバンを下ろしてさらに歩く。やっと、やっと、やっと自分がいて良い場所がある。卓球台の反対側はあいていて、誰かがやってくるのを待っていた。私はそこに向かう。その必然性を踏みしめて歩く。

私を待っていてくれた。



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