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現世拒否とお笑い芸人 - 価値観の闘争、中世絵画とルネサンス

現世拒否という言葉がある。ウェーバーの『宗教社会学』を大学の政治学演習で読んだとき、この表現が幾度も登場した。何度も何度も繰り返し出てきた。この四字熟語については特に辞書に説明が載ってない。ネットで検索しても、weblio 等で語義を確認することができない。Wikipedia の記述もない。Google で調べると、ただちに関連情報が並び、この言葉がウェーバーの理論(のみ)で使われる特殊な用語であることが分かる。そして、大塚久雄・生松敬三訳のみすず書房刊『宗教社会学論選』に所収されている「中間考察」が、ウェーバーの現世拒否論を知る上で最も参考になるテキストである。社会科学を学ぶ者にとっては必須の古典だ。読み返して、知識人の詩的な内省の文章に感動させられる。年を重ねて読むと、さらにその真価の電流に打たれる。叡智の詩編。真理の森で瞑想する気分になる。

ゼミの時間、この言葉が出ると、ギリシャとか欧州の山岳地帯の崖の上にある修道院を想起し、厳しい戒律の下で修行する修道士の姿を思い浮かべていた。世俗から切り離された孤絶空間で、質素に徹した生活を営み、人生を信仰と祈りに捧げて終わる者たちをイメージしていた。現世拒否的態度とか現世拒否的倫理とか、そういう議論に文中で(実に頻繁だったが)接したとき、宗教的情熱に身を投じた特殊な人の奇特な生き方として理解し、自分とは無縁のものと捉えていた。まさか、現世拒否的な態度や心性が自分自身のものになり、現世拒否の精神傾向が自らの後半生の日常習慣になるとは想像もしていなかった。修道院には入ってない。宗教者にはなってない。だが、どう考えても、私はこの社会で現世拒否の人生を送っている一人であり、現世拒否を貫徹したまま世を去って行く老骸だ。

テレビでお笑い系の人間が出てくると、すぐにチャンネルを他に切り換える。その行動をずっと続けてきた。拒否してきた。脊髄反射の拒絶反応を続けてきた。20年ほど前は、チャンネルを切り換えて問題解決が可能だった。NHKの避難所に何とか逃れられた。その憂鬱と不満をブログに書き綴り、嫌悪と憤懣を渾身で訴えれば、それなりに人に読んでもらえる批評となり、一定の妥当性と社会的意味を保てた。共感してもらえる地平が存在した。だが、お笑い芸能人はどんどん増殖し、活動範囲を広げ、受信料で経営するNHKにまで侵出し、支配し、お笑いのないテレビ空間はなくなった。NHKのアナウンサーがお笑い芸人に媚びを売り、追従して持ち上げ、番組が進行している。どの番組もお笑い芸人が主役になっていて、今では何がバラエティ番組で何がそれ以外なのか区別がつかない。

いわゆる現代の「お笑い」には何の価値も意味もないと思う。全てを廃絶してよく、消去してよい。それは悪の文化であり、痴愚化の文化運動であり、精神と社会の荒廃を主導する文化へゲモニーだ。原理的に否定すべき汚物だ。私はずっとビートたけしを批判していた。30年前の感覚として、その思想闘争に勝つことはできなくても、どこかでイーブンに持ち込めるだろうと楽観していた。ビートたけしの「お笑い」は必ずどこかで減価償却が起き、限界を迎え、社会的多数に意味否定される瞬間が来ると願望を抱いていた。だが、その期待は全くリアルにならず、世間は逆方向に力強く旋回し、ビートたけしの子分たちがマスコミと政治世界を席巻する方向に突き進んで現在に至っている。したがって、正直に客観的に言えば、私の30年間は敗者の人生であり、少数派へ、異端へ異端へ追い詰められてきた人生だった。

現世拒否と言いつつ、拒否されたのは客観的に私の方だ。それは、自分から進んで異端的立場を選び求めたわけではなく、好んで修道院に飛び込んだわけでもない。思想闘争に負けた結果、自然にそうなった。20年前はお笑い文化の席巻に抵抗する者が少なくなかった。が、絶えて行った。要するに、私は頑迷に価値観を譲らず、時代の流れに身を合わせなかった偏屈な老人という位置づけになる。逆から言えば、相当に多くの者が、時代の価値観の変化に抗するのを途中でやめ、お笑い文化を受容し、積極的に肯定する流れに身を寄せて行った事実を意味する。その潮流は、日本の政治的右傾化と軌を一にしているし、また、左派が戦後民主主義の思想を棄て、脱構築リベラルの新境地に移った変節の過程と水脈を同じくするはずだ。政治学的に観察すれば、それは転向現象に他ならない。集団転向の雪崩の連続を止められなかった。

という次第で、実のところ私は松本人志のテレビを一度も見ていない。毒を口に入れる者はいない。高血圧の者が塩の固まりを口に放り込んだりはしない。生理行動として、松本人志や吉本興業のテレビは見ない。なので、お笑いについての知識がなく、週刊文春の記事を読むまでは、個々の芸人の顔と名前も全然知らなかった。松本人志や吉本興業のお笑い芸なるものについて、私には根本的な拒絶と否定の意識がある。一方、今の日本には、その逆に、彼らの活動に対する絶対的な評価とコミットがある。帰依と偶像崇拝がある。大衆の価値観の基準軸を見せるテレビ世界の、その中心にお笑い芸人が居座っている。彼らが現代日本の文化的指導性の中核だ。真善美の価値を作り出す主体だ。私は逆に、彼らを日本の劣化と堕落と自滅のエンジンと見做し、殲滅し一掃すべき害悪と考えている。彼らと私は不倶戴天の敵の関係にある。

松本人志の事件が始まって以降、様々なテレビ人が、松本人志がいかに偉大な天才かを語った。30年間の日本のテレビ界に君臨した最高指導者であると、古舘伊知郎や鈴木紗理奈が熱弁するのを聞いた。恰も、北朝鮮中央テレビのアナウンサーが金正恩を讃えるときの絶唱と同じフレーズを聞いた。どれもこれも納得できないし、理解に通じる回路と端緒がまるでなく狼狽えさせられる。管見では、松本人志は奇矯なヤクザ軍団の首領で、俗悪な反社会系の環境と磁場で成り上がったゴロツキだ。知性や教養と無縁な、粗暴で凶悪な、野獣的欲望と衝動と奸計だけの、闇社会的反知性主義のレッテルに相応しい勢力の頂点の人格である。テレビが公共の教育機関の機能と性格と責任を持ったシステムである以上、出演者として紹介すべきタレントではなく、むしろ排除が必要な対象だろう。山口組や稲川会の組長がテレビに出る図はあり得ない。松本人志についてはその総括で十分と言える。

昔から、高校生の頃からずっと不思議に思ってきたことがある。ヨーロッパの中世の人々は、何故、あのギリシャ・ローマの美しい彫刻や絵画を捨て、幼児が描いたような下手なプリミティブな絵で満足するようになったのだろうと。どう考えても芸術の作品性が劣化している。スキルとセンスが落ちている。デッサンの技術を失い、正確な写実が不能になり、美術的レベルを落としている。知性も退化している。そこにはそれなりの理由があり、宗教の精神的支配の影響があったからだろうと背景は想像できる。宗教・イデオロギーが悪い方向に作用すると、人間の創造力はこんなにも腐って衰えるのかと嘆息する。文芸復興運動が起きてよかったと思うし、古典古代文化が復活して、勝利の鬨を迎えてよかったと思う。長い中世の暗黒の間、ギリシャ・ローマ文化の方が優れていると、声を上げられなかった者もいただろう。

そんな声を上げれば、おまえは多神教の信者かと、すぐに捕縛されて異端尋問の宗教裁判にかけられ、悪魔に魂を売ったと断罪され、残酷な拷問の末に火炙りの刑に処されていたに違いない。だから、真実や正義の声は上げられなかった。沈黙せざるを得ず、支配的イデオロギーに恭順し雌伏するしかなかったのだ。中世は長く重く続いた。私は、この30年間ほどが中世の暗黒だと確信している。もっと続くだろうと覚悟している。知性はどんどん劣化し、人間の精神は退化して動物化している。脳下垂体が萎縮している。オーウェルの『1984年』の新語法辞書のように、語彙が減っていて、表現は即物的になっている。人の会話、テレビの説明、ネットの文章が、動物の唸り声や鳴き声のようなコミュニケーション仕様になっている。思考をしなくなり、推察や分析を面倒くさがり、「陰謀論だ」や「はい論破」の思考停止で済ますようになった。

ルネサンスがあるかどうかは分からない。だが、ルネサンスを待望し、必ず嘗ての知性や学問が再び勝利する日が来ることを信じることはできる。その思想信条を固持することはできる。そんな感じで、崖の上の修道院に暮らす孤独な居士のような現世拒否の毎日を送っている。現世拒否のまま死ぬだろうと諦観していた。そんな世を恨む庶民にとって、今回の松本人志性加害事件の文春報道は吉報であり、福音の到来と呼ぶべき出来事である。価値観の転覆を実現できるかもしれない。その希望を抱かせる革命の機会の出現だ。なので、事態の推移を熱心に見守り、スクープの続報に齧りついている。事件が示唆しているのは、30年間続いて時代を支配してきた価値観の動揺である。視界の先に見えるのは、日本人を長く拘束してきた誤った価値観の崩壊と、その価値観を守ってきた政治権力の没落の兆候だ。

その価値観の下で富み栄えてきた愚劣な一味一族の退散と消滅だ。お笑い文化のレジームの全面崩壊を祈願する立場で、興奮して、活力を与えられて新年の日々を送っている。


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