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小澤征爾の死に思うこと

小澤征爾の死が報じられたNHKのニュースで、ウィーンの市民が悼む言葉を発する映像が流れていた。品のよい高齢の女性で、いかにもウィーン市民らしい、音楽をこよなく愛し、人生を音楽と共に生きてきた人の、確信を持った言葉の響きに聞こえた。小澤征爾は世界中の人々から愛され尊敬されていたが、とりわけ、クラシック音楽をよく知り、音楽への造詣が深く、すなわち違いの分かる人ほど、小澤征爾への評価が高く傾倒が強かった印象がある。音楽に無知で素人の私は、カラヤンが指揮するベートーベンの交響曲とフルトベングラーが指揮するそれとが、どう解釈と品質が異なるのかよく判らない。シェリングのシャコンヌとクレーメルのそれと、差異は感じながらも、どう違うのか関心が及ばない。天満敦子と千住真理子と、甲乙をつけるほどの耳がない。

だが、音楽をこよなく愛する欧州の人々は違っていて、楽団に参加するエキスパートが一つに纏り、楽器を受け持つ個々が最高のパフォーマンスを発揮しつつ、全体が見事なハーモニーに結晶する小沢征爾の創作の見事さを知っている。譜面が完璧に頭に入り、その芸術的再現を追いかけて最高の極みへチームを導く、小沢征爾の技術力を知っている。達人ぶりを認めて愛している。そして、自分たちの伝統文化をここまでよく理解した日本人がいるのかと、そのことに感嘆して惜しみない賛辞を送っている。それは、ヨーロッパ古典音楽の普遍性と至高性が証明された瞬間でもあり、自らの文化の自信を深めた喜びに通じる覚醒だ。日本人にとって小澤征爾は日本の宝であり、日本の誇りであると同時に、世界の人々にとって小澤征爾はかけがえのないコモンな文化的財産でもあった。

クラシックと呼ばれる西洋古典音楽は、人の趣味や教養において重要な要素であり、人物の品格の基準を提供する一つのアイテムである。それへの造詣と嗜みをどれほど持っているか、資質を備えているかは、その人の一般的評価を左右する問題だ。欧米社会に暮らす人々でも、そこには差があり、程度と水準に格差があり、習得が深く博識が香り立つ人ほど他から尊敬を受けられる対象になるだろう。その意味で、クラシック音楽は万人の憧れの領域であり、名誉に繋がる世界であり、誰もがその上質な世界の住人になりたいと願う小宇宙に違いない。そして、それにはお金が必要で、教育投資が必須で、楽器のテクニックのマスターには忍耐を伴う持続的訓練の時間が求められる。したがって、否応なく、経済的に豊かな境遇の者ほどその才能や素養を身につけやすく、そうでない者ほど手に入れにくい。

寅さんのシリーズで、リリーが最初に登場した回だったか、さくらが満男のためにピアノを買って習わせたいと騒動する場面があった。結局、ピアノは買えず、寅さんのドタバタ劇で北海道へ旅に出る話に進むが、この一件が、後に満男が高校で吹奏楽部に所属する物語全体の伏線となっていることに気づく。音楽を習わせたい、音楽のある人生を持って欲しい、音楽を通じた人間関係で幸せになって欲しいという、我が子を思う母親の願いが、こんな形になって展開し、満男は泉ちゃん(後藤久美子)と出会うのである。このさくらの思いと願いは、作品上映から半世紀経った今日でも何も変わらず、親となった者の我が子への教育態度として標準的に続いている。否、半世紀どころか一世紀前も同じであり、一世紀後の親と子も基本的に同様だろう。子どもが3歳になったらピアノかバイオリンの教室に入れようとする。

ピアノかバイオリンが演奏できる人間に育てようとする。スポーツと同様に投資を図る。音楽を人生の一部にする人間に成長させたいからだ。子どもの才能を花開かせて、職業音楽家の世界に羽ばたかせる夢を見る親もいるかもしれないが、大概は、情操教育としてそこに入門させるのであり、楽器の技能上達と古典音楽の修養を通じて豊かな人格を養うことを目的にしている。それを身につけた者と身につけてない者では、大人になったときに違うからだ。そして、子どもを受け入れる音楽教室は、才能のある子にもない子にも万人に対して開かれていて、情操教育の意義を掲げ、そのポリシーを事業の前提としている場合が多い。教育基本法の第2条第1項には教育の目標が謳われていて、「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと」と書かれている。

その音楽教室の先生は、個人差はあるけれど、一般的な表象として、小澤征爾を小さくしたような指導者が多い。クラシックの楽器演奏の教育者には標準的な範型があり、小澤征爾こそがその頂点に立つ理念型と言っていい。日本各地で子どもを教える諸先生にとって、まさに小澤征爾がお手本でお師匠であり、自らも小澤征爾に近づくべく研鑽を積み、子どもを指導しつつ楽譜を読む勉強を重ね、門下から天才を輩出することを夢見て職業に勤しんでいるに違いない。そこには知性と教養の高さを追求する姿勢がある。文化的水準への責任感覚がある。そこに子どもを入れれば、楽器の技能だけでなく、礼儀や品性も身につくだろうという期待感がある。西洋古典音楽の末席に加わり、その世界を崇敬し、探求と修養のエンジンを持つ大人になることは、国際社会で外国人と仕事する日本人にとって、自己の評価を高め、成功に繋がる条件になり得る。

さて、問題は松本人志とお笑い文化である。どうしても信じられない現実として、日本の今の親たちが、子どもたちに松本人志やお笑いのテレビ番組を見せている問題がある。ピアノやバイオリンの教室に通わせ、大金を払って情操教育のコースで人格形成に努めながら、その子どもに松本人志と吉本興業の「文化」の毒を与えている。テレビが撒き散らす有害な「笑い」を肯定し、有意味化して子どもに虐待思想を感染させている。子どもの内面に摺り込んでいる。このことが不思議で、私には理解できない。何の意味もないではないか。大金も努力も無駄になって腐らせるだけではないか。体力低下した高齢者が、サプリを飲んで健康維持に気を配りながら、一方でアルコールを流し込んで消化器系を壊しているのと同じだ。矛盾している。クラシック音楽の世界は、吉本芸人のお笑い世界とは対極にあるもので、まさに真逆の価値観と道徳基準を持つものだろう。

ここまで、クラシック音楽の世界の特質を人間教育との関わりにおいて説明しようとして、人格と教養の意義を強調し、上質とか品性とか品格という言葉を並べてきた。説得のために動員してきた。この1か月ほど、ずっと松本人志の事件を論じているが、そこで「お笑い」を説明する際に動員してきた言葉は、下劣とか下品とか卑劣とか狡猾とか、痴愚とか低俗とか粗暴とか凶悪とか、汚物とか害毒とか邪悪とか野蛮とかである。6本記事を公開したが、もっと大量の熟語を並べて軽蔑し、渾身の批判をしてきたかもしれない。今後も辞書から追加の熟語を探し出して投入しそうだ。これらのネガティブな二字熟語は、松本人志とお笑い文化を言い当てるに適当で的確な言葉であり、本質的性格を表現する言語群だろう。古典音楽の素養と美学を人格の一部とする欧米のエリートが、松本人志と吉本興業を見た感想はどうだろうか。きっと、私と同じ二字熟語が口から出るに違いない。

オックスブリッジを出てBBCで仕事する英国の報道記者が、今回の日本の事件に注目して特集を構成するときは、まずは上の二字熟語群の反応と嫌悪
を起点とすると思われる。小澤征爾に戻って思い返せば、90年代前半頃、まだ「お笑い」がテレビを席巻・支配する前だが、筑紫哲也が金曜のNEWS23でバレエやオペラの話題を紹介していたことがあった。ご記憶にあるだろうか。筑紫哲也は週一の文化特集を「私の書斎」などと気取って呼んでいた。筑紫哲也の高慢なひけらかしは鼻についたが、その時代、確かに日本はそういう上質な芸術志向の空気に覆われていたのである。それだけ経済が豊かだった。丸山真男の『金龍館からバイロイトまで』を読むと、1984年のバイロイト音楽祭では観客全体の5分の1が日本人だったと書いている。いさかか世界に対して気恥ずかしい過去の成金趣味の一幕だが、ヘドロ同然の「お笑い」の風靡と常態化よりはずっとましな光景だろう。

日本の文化は、小澤征爾と村上春樹と宮崎駿と山田洋次でなくてはいけない。「毒」の文化で子どもを洗脳・感化してはいけない。「お笑い」は子どもの人格の成育を阻害し、知性の発達を萎縮させ、道徳の破壊を促進し、精神を俗悪化し凶暴化させる有害物質だ。テレビという公共教育機関の性格と機能を持つ情報インフラで配信してはいけないコンテンツである。「お笑い」でテレビ空間を埋めるのではなく、次のような格調高い特集番組の企画と制作をお願いできないだろうか。①小澤征爾と村上春樹、②小澤征爾とボストン(カラヤンとバーンスタインと60’アメリカ)、③小澤征爾とウィーン(ヨーロッパのオペラ文化)、④小澤征爾と松本(音楽する者の指導と教育と師弟)、⑤小澤征爾と中国、⑥小澤征爾とN響問題、⑦長野五輪の小澤征爾(『合唱』五元生中継)、⑧小澤征爾と日本の音楽家たち(武満徹、、)。各60分編成で。視聴率が取れると思うので挑戦していただきたい。

あらためて、偉大な小澤征爾に心からの感謝と敬意をこめて合掌。

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