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蓮池家綱の歴史 ー 物語の奪い合いと郷土史説の競争、教育委員会の怠慢

吾妻鏡の第二巻に、蓮池家綱が源希義を討ち取った場面が描かれている。

壽永元年(1182)九月小廿五日癸巳。土佐冠者希義者、武衛が弟也。去る永暦元年、故左典厩の縁座に依て、當國介良庄于配流之處。近年、武衛東國に於て義兵を擧げ給ふ之間、合力の疑い有りと稱し、希義を誅す可し之由、平家下知を加う。仍て故小松内府の家人 蓮池權守家綱、 平田太郎俊遠功を顯はさん爲、希義を襲はんと擬す。希義、日來夜湏七郎行宗与約諾之旨有るに依て介良城を辞し、夜湏庄于向ふ。時に家綱、俊遠等吾河郡年越山于追い到り、希義を誅し訖。

この「蓮池權守家綱」の「権守(ごんのかみ)」をどう解釈するか、定説はないようだが、土佐市教育委員会は「土佐権守」として市の公式HPに説明している。郷土史家もこの説を採っていて、平氏の知行国となった土佐国において平氏勢力を代表する豪族であったと考証している。この時期は源平争乱の激動期で、中央の政治の激変に影響されて土佐国の政情も大きく動いた。在地の権力状況が一変した。治承3年(1179)のクーデターで平清盛が後白河法皇を圧倒し、院政権力が停止状態に追い込まれ、平氏の知行国が17か国から32か国へと倍増する。翌年(1180)、土佐国は平教盛の知行国となり、平氏の支配領域として編成替えが進む。従来の、藤原氏系列が守護に収まる退屈で安定した受領支配の時代が終わり、戦時体制の緊張した土佐国で、平氏が蓮池家綱を土佐国の権守に据えるのである。

平氏は、平治の乱(1159年)で介良庄に配流されていた源希義について、その厳重監視を蓮池家綱に命じていた。治承4年(1180)、兄頼朝の挙兵を受け、弟希義に合力の疑いありとして追討令が下される。希義はかねてより謀議していた夜須行宗の在所に向かったが、途中で蓮池家綱と平田俊遠の追捕を受けて誅殺された。平氏の支配領域となる直前の土佐国はどのような内部状態だったのだろう。七つの各郡に有力豪族がいて、律令制のの地域再生産体制が荘園化し、中央の権門勢家と結びついた平安武士に成長していたと想定されるが、具体的にどの郡領域を誰が支配していたのか。平氏が、支配統治の代行者として指名するほどだから、蓮池家綱の勢力が及ぶ範囲は高岡郡を超え、吾川郡や土佐郡まで広がっていたと考えておかしくない。もう一人の平田俊遠の勢力は、幡多荘全域に及んでいたのだろう。

荘園を意味する「荘」と「庄」は同義だと定義されている。平安末の幡多地域の政治情勢を検討するに当たって、私は、律令制下の単位での規模の再生産の共同体を「庄」と呼び、単位で中央の権門に丸ごと寄進されたものを「荘」と呼んでいる。広い幡多荘は鎌倉期に入って九条家の所領となり、窪川台地の東端(仁井田庄)まで含む領域となっていることが確認されるが、おそらく、これが平田俊遠の勢力範囲だったと考えられる。一方、夜須庄(香美郡)の夜須行宗は源氏方であり、当時の土佐国は東西で源氏方と平氏方に分かれていた状況が推察される。平田氏が討滅され、一族が記憶と共に完全抹殺され、広い幡多荘は全域が九条家の所領となった。そして一条家に伝領され、室町期を通じて一条氏の荘園支配が続き、やがて戦国七雄の一となる。中世の幡多荘は独立色が強く、中央と直結して運営されていた。

現在、Google 検索で「蓮池家綱」と入れると、Wiki に続いて「佐賀市地域文化財」のサイトが表示され、佐賀市蓮池町の歴史遺産として蓮池家綱が紹介されているページが出力される。史料の典拠情報はない。Google 検索の2番目である。 土佐市が蓮池家綱を説明しているページは、上から4番目である。佐賀市よりも下だ。佐賀市のページでは、もともと平氏の家人の蓮池宗綱がこの地(佐賀市蓮池町)にいて、蓮池家綱は宗綱の子であり、平家の押領使として土佐国高岡に派遣されたと虚構を書いている。蓮池氏の起源を佐賀市にしてしまっている。こうやって歴史は横取りされるのだ。ボヤボヤしていると、郷土の歴史を誰かに勝手に奪われてしまうのである。土佐市教委が真面目に歴史を発掘せず、真実の歴史像を構成する努力をせず、再現して説得的に広報する活動をしていないから、佐賀市に横取りされるのだ。

何も知らない一般人は、Google 検索の上位にヒットする情報が信用度の高い情報だと思ってしまう。飲食店を調べるときの評価や判断と同じだ。ネットに「中立のデータベース」が提供されていると思い、安直にその「信頼性」に依拠してしまう。Google 検索の2位にヒットする情報を、4位に出て来るものより優越性があると短絡的に認めてしまう。ネットで買い物をするときの大衆の行動パターンと同じである。かくして地域の歴史は奪い取られる。今日、地方自治体はふるさと納税等で熾烈な新自由主義の競争過程に生きている。まるで民間企業のような、潰し合いと生き残りの競争を強いられ、何でもありの世界に順応させられ、全自治体が弱肉強食のコードとロジックで動いている。そうした仁義なき環境下で、こうした歴史の横取りが横行する。土佐国の権守にまでなった英雄が、他国の出身者にされてしまう。

郷土に出た歴史的英雄と活躍は、当然、現在その地に住む人々の自信と誇りの基礎となるものだ。積極的なアイデンティティを構成する資源だ。蓮池家綱は、平安期の西国の在地における典型的な武士像を提供するキャラクターであり、荘園の歴史とは何か、家の子郎党から発生し実力者となる平安武士とは何かを説明してくれる重要なサンプルである。律令制(班田制)の公地公民から荘園制の私有地へと、古代地域共同体の内部が変容し転換する姿を、実に明快に教え、納得させ理解させてくれる、歴史教育のためにあるような教科書的な豪族だ。八幡神勧進の意味もよく読み解ける。だからこそ、彼は吾妻鏡に記載される武士となり、日本史に名を残す人物となったのだろう。土佐国を語る上で絶対に欠かせない存在だ。その蓮池家綱が、何故かくまで地元土佐市でぞんざいに扱われ、顧みられず放置されたままなのだろう。

私は理解できない。一般に、日本の荘園の歴史を教えるのは難しいと学校教育の現場で言われている。半世紀前の私の高校生のときの経験からもそれは頷ける。私が通った学校の日本史では、高校2年時に明治維新以降を教え、高校3年時にそれ以前の半分を教えた。荘園制については3年の2学期だったか。教師は苦心しつつ手抜きせず丁寧に掘り下げ、(文Ⅲに2名進んだ歴史好きの多い文系クラスでもあり)生徒たちは熱心に授業に聴き入った。おかげで蓮池家綱の歴史像がよく分かるし、逆に、高岡氏と蓮池氏、高岡庄(←高岡郷)と蓮池庄を例に示せば、教室で西国の在地の荘園制をよく説明できるように思われる。生徒の理解は早いだろう。そういう重要な人物が、いくら朝廷と幕府に逆賊とされ、一族滅亡され抹殺されたからとはいえ、現代において再評価され名誉回復されないのか。光が当たらないのか。残念でならない。

教育委員会の怠慢と歴史への知性と関心の薄さ、それこそ民度の低さの中身だろう。現在の高知県の人々は、なぜか源希義を手厚く祀って霊を慰め、その歴史を崇め奉っている。彼への追悼と鎮魂の行事を高知新聞で紹介し報道している。手厚く敬って顕彰すべきは、真の祖先である蓮池家綱と平田俊遠の方ではないのか。なぜ、自らの歴史を潰し消して虚構を押し付けた側の、中央の勝者の歴史にコミットするのだろうか。

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