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『君たちはどう生きるか』を待つ新年 - 丸山真男の『回想』が与える知恵と勇気

今年は宮崎駿の新作アニメ『君たちはどう生きるか』が劇場公開される。昨年12月に発表があり、今年の7月14日封切と報道された。制作開始が告げられてから5年、前作から10年ぶりとなる待望久しい長編作の上映となる。5年前、ジブリがこのタイトルで新作を出すと予告があった後、漫画本が出版されて話題になり、にわかに『君たちはどう生きるか』ブームが起きた出来事があった。その世上の動きに反応して、私も3本記事書いてブログに上げている。今年の日本のエンタテインメントの主役となる期待作であり、空前の人気を呼んで観客を集め、作品の評価が世界中で喧々諤々されるだろう。映画の物語はオリジナルで、宮崎駿らしい冒険活劇ファンタジーだと言う。今から待ち遠しく気分が高揚させられる。

本当に楽しみだ。吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』と岩波文庫版に付された丸山真男の『回想』、これこそ日本の学生が読むべき古典中の古典で、欧米アカデミーの『ソクラテスの弁明』に匹敵する永遠不滅の書だ。文系理系関係ない。マストの書。

12月の鈴木敏夫の会見の後、私は興奮してこうツイートした。そしたら、誰かが無神経なリプライを投げてきて、読んだけれど何も面白くなかったという冷笑的な反応を書きつけてきた。若い右翼だろうか。ネガティブな動機と執着から無名の「左派ブロガー」を監視し、嫌味を垂れて悦んでいる(ネットによくいる)一人に見えた。

■ 面白いと思ったのは40歳前

実は、私も若い頃、原作を読んで面白いと感じなかった一人である。この本の意義と価値を認め、珠玉の古典として仰ぐようになったのは、40歳の手前からのことであり、10-20代の当時はそうした神聖視の意識はなかった。正直に事情を言えば、岩波の丸山真男集の刊行が始まり、丸山真男の最期が近づき、96年8月15日が来て、追悼のHPを立ち上げて本格的に丸山真男研究を始めたとき、文庫本付録となった『回想』を再読して強い感銘を受け、そこから、私の『君たちはどう生きるか』への姿勢が決定的になった。真価の発見と覚醒に導かれた。だから、私のこの本への評価は、すべて丸山真男が書いた『回想』への感想が中身となっているのであり、私にとって吉野源三郎の作品本体と丸山真男の『回想』は一体なのだ。

『回想』を読み出すと自然に涙が止まらない。これは本当のことで、何度読んでも同じ体験(生理現象)が繰り返される。胸がこみ上げてくる。イントロから静かに盛り上げていく芸術的な筆さばきに息を呑み、そして、主題である認識論のくだりに至って魂が沸騰する。感情が昂まって、涙腺の堪えが決壊する。二つ目の主題の倫理論に及んでは、もう昇華と耽溺と諦観で宙空を舞っていて、感動に酔う自分を抱きしめている。読むたびに、年をとって読み返すたびに、その生理現象は熱さと激しさの度を増す。こういう経験は、映画やドラマでは誰にでも屡々あることだ。例えば、NHKの『大地の子』で、一心が妹あつ子の死に臨み、看取って号泣する場面など、何度遭遇しても感情移入して、上川隆也の迫真の演技と同一化して嗚咽してしまう。

■ 座右の書となって価値が重く重く

だが、映画やドラマでなく、詩でもない文章に接してこういう経験に直面すするのは稀で、他にはない。一般に、年寄りは涙もろくなると言われる。個人差はあるが、概ねその法則は妥当する。高齢者の身になり、次第にその意味が掴めてきた。なぜそうなるのか、何がそうさせるのか。要するに、その精神現象の正体は 自己愛 なのだ。若かったときの自分、歩いてきた道程を思い返し、愛おしさが溢れ、それを慈しんで憐れむのである。若き日に見て追いかけた夢、誓った野心、崩れた理想、裏切って逃げた仲間、荒れ果てて広がる現実、破滅の予感、ひたすら小さく弱くなる自分。そうした思いが感傷と悲哀を催すのであり、歯を食いしばって抗する強さがなくなるのである。丸山真男の『回想』は感傷的な文章だが、私の場合、それが自分自身の鬱懐と重なって、老いるほどに無念と悲嘆を増幅する。口惜しさに浸る。

丸山真男の『回想』を最初に読んだのは、前にどこかで書いたが、81年7月、数寄屋橋の旭屋書店で「世界」を立ち読みしたときだった。上京して忙しく働きながら、田舎出の若者らしく土日は都心を這いずり回り、お金もないので書店を見つけて新刊の専門書を読んでいた。丸山真男が「世界」に寄稿するのは何十年ぶりのことか。吉野源三郎の訃報より、丸山真男の消息の方に関心が向かった。このとき丸山真男67歳。私は20代前半。このとき、『回想』の内容に感銘を受けるということはなかった。追悼文に向かう私の態度は厳粛でも神妙でもなかった。時代はまだ戦後民主主義が育んだ空気の下にあり、吉野源三郎が(そしてE.H.ノーマンが)残した健全な体制に危機はなかった。私は凡庸で楽観的な青年で、このときの丸山真男の感傷を共有せず、いつまでも健全な日本が続き、将来の環境が保障されると信じていた。

■ 認識論 - 地動説

地動説は、たとえそれが歴史的にはどんなに画期的な発見であるにしても、ここではけっして、一回限りの、もう勝負がきまったというか、けりのついた過去の出来事として語られてはいません。それは、自分を中心とした世界像から、世界のなかでの自分の位置づけという考え方への転換のシンボルとして、したがって、現在でも将来でも、何度もくりかえされる、またくりかえされなければならない切実な「ものの見方」の問題として提起されているのです。もしこの転換が、たんに対象認識の正確さの増大とか、客観性の獲得とかいうだけの意味しか持たないならば、その過程に自分は -つまり主体はなんら関与していないことになります。

(略)吉野さんのアプローチはそうではありません。地動説への転換は、もうすんでしまって当たり前になった事実ではなくて、私達ひとりひとりが、不断にこれから努力して行かねばならないきわめて困難な課題なのです。そうでなかったら、どうして自分や、自分が同一化している集団や「くに」を中心に世の中がまわっているような認識から、文明国民でさえ今日も容易に脱却できないでいるのでしょうか。つまり、世界の「客観的」認識というのは、どこまで行っても私達の「主体」の側のあり方の問題であり、主体の利害、主体の責任とわかちがたく結びあわされている、ということ - その意味でまさしく私達が「どう生きるか」が問われているのだ、ということを、著者はコペルニクスの「学説」に託して説こうとしたわけです。(岩波文庫 P.315-317)

まさに丸山真男の哲学のエッセンス。方法的持論。丸山真男の山上の垂訓。戦後民主主義の叡智の結晶。至高の説得力の前に、いつも感服し、勇気を与えられる。反省を促され、そうだったと頷き、これが知識する者の心構えで、個々の知的生産を媒介する原動力なのだと思う。この『回想』こそが日本の『ソクラテスの弁明』だと確信する。丸山真男の言葉は常に人を勇気づける。年齢による知力の衰えの実感とパラレルに、この段落が御神体や御本尊様の関係になってくる。年寄りが、自分が信仰する寺や神社に何度も足を運び、熱心に祈りを捧げる姿があるが、よく共感できる。力をもらおうとしているのだ。力をもらってきたことに感謝しているのだ。けれども、私に残念なのは、昔はこの尊い御神体の前で手を合わせる者が多かったのに、今は閑古鳥が鳴いていることであり、ときどき、商売に利用するために信仰者のフリをして言説市場で稼ぐ者が多いということだ。

■ 倫理論 - 精神の弁証法

次の二つ目の主題の倫理論ではこう言っている。この部分も何度も噛みしめることが多く、ときどきツイッターに抜き書きして紹介する。ブログの記事でもよく引用する。仏像が好きな者が興福寺の阿修羅に会いに行くように、年に一度はこのページを開いて心躍らせて対面する。言葉が素晴らしい。

けれども、『君たちは・・・』の叙述は、過去の自分の傷口をあらためてなまなましく開いて見せるだけでなく、そうした心の傷つき自体が人間の尊厳の楯の半面をなしている、という、いってみれば精神の弁証法を説くことによって、何とも頼りなく弱々しい自我にも限りない慰めと励ましを与えてくれます。(略)自分の弱さが過ちを犯させたことを正面から見つめ、その苦しさに堪える思いの中から、新たな自信を汲み出して行く生き方です。(略)どんなに弱く臆病な人間でも、それを自覚させるような経験を通じて、モラルの面でわずかなりとも「成長」が可能なのだ、ということを学んだ点で、中学一年生のコペル君と、大学の助手の私との間には、あきらかに共鳴現象が働いたのです。(岩波文庫 P.321)

丸山真男は、ここで、中学生時代の習志野での軍事教練時に起きたバツの悪い体験を書き、自分もそのとき(コペル君と同じく)勇気がないばかりに級友を裏切って卑怯者になった事実を公開している。『回想』を最初に読んだ20代前半のときは、へえ、丸山真男にそんな体験があったのかという程度の感想だった。そこから20年ほど経って読み直した際は、こうした思い出せば羞恥心に苛まれる、心の奥にある苦い私的事件の記憶を、倫理を説得する証明材料として差し出せる丸山真男の教導の力に感じ入った。簡単にできるようで誰でもできることではない。当該事件について、果たして、この『回想』以前に丸山真男の関係者で他に知悉していた者はいただろうか。書きぶりから想像すると、初めての告白の印象が強い。いわゆるカミングアウトであり、本人からすれば、公表は精神的にヘビーな力業の挑戦だっただろう。

■ 67歳の力業 - 私的過誤の倫理的対象化

それができるかどうかなのだと思う。思い出したくない、恥ずかしい失敗経験は誰でも幾つも持っている。人を傷つけたこと、見栄を張って恥をかいたこと、軽率と欲望で暴走して周囲に迷惑をかけたこと。それらは、個々にとって「精神の弁証法」の「楯の半面」をなす素材に違いない。だけれども、丸山真男のように倫理教育の素材として応用できる者は少なく、また、「精神の弁証法」の人間的成長によく生かし得ている場合も決して多くはないはずだ。私は自信がない。私自身は、もうすぐこの『回想』を書いた丸山真男の年齢になる。20年前に思ったことは、自分が67歳になったとき、丸山真男のように過去の躓きを倫理論の素材として掘り起こして提示できるだろうかということだった。そういう勇気と能力を持っているだろうかということだった。それはすなわち、そういう条件を持っている自分になりたいという願望である。

今、悪意と誹謗中傷ばかりが渦巻くインターネット世界では、おそらく、無名で中途半端な実力と地位しかない者が、そうした挑戦を試みても、無駄で功を奏さない場合が多いだろう。単なる蛮勇と自己満足で終わって、逆にマイナスの結果に跳ね返り、後悔するだろうと怖気づく。機会と成算がなければ無理だと二の足を踏む。つまりは、この年になっても私は怯懦なコペル君のままなのであり、おじさん(丸山真男)に励まされても、「精神の弁証法」の倫理論は一般的教義として頭に入れているだけで、突破と行動のエートスにできない意気地なしのままなのだ。以上、5年ぶりに『君たちはどう生きるか』について - 丸山真男の『回想』を中心に ー 考察と感慨を記事にした。映画の公開を楽しみに待ちたい。身体が健康なままであれば、こうして5年に一度は同じテーマについて書き、5年前に書いたものとの変化を追跡したいと思う。

 

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