見出し画像

植物は考えている

「樹木たちの知られざる生活」という本を読んだ。
本の中にはものの見方が変わるというようなものがある。その中でも、世界観が変わるというような本も、滅多にないがある。

この本がそれだ。

木を我々は、ものとして見ていいる。
もちろん、木も植物であるから、生物であるとは認識している。
しかし、木に対するイメージは、水をやれば生き生きとし、太陽が照れば成長するくらいにしか考えてないと思う。

つまり、生物ではあるが、自然に対して機械的に反応するだけの生き物だと思っているのではないだろうか。

意識はもちろん、記憶も感情もなく、考えるなんてことはしていないと思っている。

違うのだ。
木にも記憶はある。
感情はどうかわからないが、友情のようなもの、つまりは好き嫌いもある。

互いに助け合ってもいる。
結果として助け合っているように見えるとかいうレベルの話ではない。
病気の木、あるいは、切り倒されて切り株になった木(自分ではもはや生きられない)に、周りの木が何百年にもわたって、根を通して栄養を分け与えて支えていたりする。

当然のことながら、お互いにコミュニケーションを取り合っている。
見方によっては、子供(若木)の躾までしている。
コミュニケーションの手段としては、危険を知らせるために芳香物質を吐き出したり、根を通して電気信号を送ったりしている。それ以上に、会話(音声)さえしている可能性が出てきたらしい。
等々。

ところが、これは自然林の話で、人工的に植林をした人工林では、この能力が失われているらしい。

私は、これを読んでから、それまで静かな存在だと思っていた、植物界が恐ろしく多量な情報が行き交っている、えらい騒がしい世界に思えてきた。その上、動物界と違って、即物的な情報ではなく、数年場合によっては数十年単位の戦略を決める情報のやりとりだ。

森は、深く慎重にものを考える賢人が静かに佇立しているようなイメージに思えてきた。

前に上記の記事を書いて、主に動物の存在意義について考えてみた。
しかし、地球の主役は、植物かも知れない。




サポートしていただけるなんて、金額の多寡に関係なく、記事発信者冥利に尽きます。