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自分に勝つ・・・・・おかしくないか

「自分に勝つ」
トレーングや勝負に関してはもちろん、人生について言われることがある言葉だ。それも、実績をあげている人や、一流と言われる人が言っておられたりする。

なるほどと、納得している人も多いと思う。
私も、うん、そうだと納得していた。
でも、考えてみると、おかしな話だ。

もう一度、誰が、誰に勝つのか考えてみる。
勝つのも自分、負けるのも自分。
ん?

この論理が成立するためには、「勝つべき自分」と「負かすべき自分」が存在しなければならない。

ええい、面倒くさいことを言い出すと思った方。
まあまあ、そう言わずに、少しお付き合いを。
損はさせないから。いや、聞かないとえらい損しますぞ。
なんて・・・

さて、「負かすべき自分」とは、一般的言って、勉強の時はもうしたくない頭がパンパンだとかいう自分の感覚だ。トレーニングの時は、もっと直接的に、苦しい・痛い・辛い等々を感じている感覚だ。これを「弱い自分」とも言ったりする。

「勝つべき自分」は、「負かすべき自分」の欲求・感覚に反することをやり続ける意思だ。これを、「強い自分」と言ったりする。
今後、用語を統一して、必要のない限り、「弱い自分」と「強い自分」と書くことにする。

「強い自分」の意思が貫徹されないと、文字通り負けた気分になり、情けなくなったり、自己嫌悪に陥ったりする。まあ、普通に経験することだと思う。

しかし、ここでもう一度考えてみる。
弱い自分は、本当に否定されるべきものなのだろうか。

「弱い自分」が、存在しなかったらどうなるか。
どれだけ勉強しても辛くならず、どれだけ負荷をかけたトレーニンをしても、なにも苦痛を感じなかったら、どうなる。

素晴らしい! それこそ理想だと思うだろうか。

いやいや、そんなわけにはいかない。
素晴らしなんて、能天気なことを言っていられない。
大変です。えらいことになります。

体、壊しますよ。
精神に異常を来しますよ。
下手すれば、死にますよ。

腕を捻じ曲げた時に発生する痛みがなかったら、どうなります。
そのまま曲げたらどうなります。
骨が折れるでしょう。

マラソンで、苦しくなる時に、苦しくならないからと、ずっと走り続けたら、どうなります。
倒れて、これも下手すれば死にます。

重労働をやって疲れているのに、その疲れを全然感じないからと、そのまま毎日延々と重労働を続けたら、どうなります。
そのうち、ぶっ倒れます。病気になり、死にます。

精神的に疲労困憊する状態なのに、全然それを感じなくて、延々と頭を使い続けたらどうなります。

やったことがないから分かりませんが、多分精神に異常をきたしますよ。
鬱なんて可愛らしいものじゃなく、多分ニューロンが萎縮したり、ねじ曲がったり(そんなことがあるのかどうか分かりませんが)して、脳の構造そのものが、破壊されるのじゃないかと思います。

弱い自分がいるから、我々は生きていられるのです。
弱い自分というのは、人類の体が、数百万年の試行錯誤のうえ、身につけた生き残るための仕組みなのです。生き残るための良識と言ってもいいかもしれない。

だから、弱い自分は否定してはいけないのです。
弱い自分の声を素直に聞くべきなのです。

だいたい自分と戦うなど、理論的にもおかしいのです。
勝てば深層意識、本能の負け。
負ければ、自我の負け。

勝っても負けても、負けですから、いいわけがない。
そう思いませんか。

ちなみに、弱い自分と戦った場合、長期的に見れば、ほぼ負けます。
相手は、数百万年かけて作り上げてきた感覚です。
消えることはもちろん、劣化もしませんし、強い自分と違って、心が折れるというようなこともありません。
戦うには、相手が悪すぎます。

戦うのではなく、弱い自分の声を注意して聞くべきなのです。
そもそも、弱い自分は、何かをするなとは言っていない
勉強するなとも、これ以上体を動かすなとも言っていない。

ただ、苦しいとか、痛いとかいう感覚を伝えているだけだ。
我々は、その感覚に反応して、やめたり、頑張らなかったりしているだけだ。

感覚=警報だから、それに対してどう対処するかということは、あっても、警報自体に挑んでも意味のないことなのです。
ましてや、その警報と自分を一体化して、勝ち負けを意識するのは、おかしいのだ。

人間の体・本能に備わった警報なのだから、本来は、この警報に従って、行動していれば上手くいく。
そうやっている限りは、快適で健康な生活を送ることができるのだ。

動物はみんなそうやっている。
だいたい、筋トレに励んでいる動物も泣きながら勉強している動物も見たことない。

つまり、痛い、苦しい、辛い等を感じた時は、やめればいい。というかそうすべきなのだ。

と、これを結論にしてもいいが、納得できない人も多いだろう。
ここまでの話で、うん、わかったと思う人と、何か屁理屈のように感じる人がいると思う。

屁理屈に感じる人は、現実に弱い自分と戦わなければ、勉強も運動も仕事さえ成果があげられないことがあるではないか、という現実体験からの違和感からだろう。もっともな感想だ思う。

なぜなら、我々人間は、社会生活を送っている。
この社会は、我々が自然に獲得する能力以上のものを要求することがあるからだ。

自然に獲得すると書いたが、この場合の自然は、現代社会生活における自然という意味です。

大体我々は、自分の能力以上のことはできない。
しかし、この能力が本来持っているものを出し切っている人は、あまりいない。

我々の遺伝子は、原始人の遺伝子のままだと言われる。
原始人が生きた環境で、生き残れるようにできている。

原始人の環境は、生きる事、生活すること自体が全能力を発揮して初めて成り立つ環境だった(どうして分かるかって、それは動物の生活を見ればわかる。)。だから、本来備わっている能力が自然と全開状態になっていたのだ。

ところで、弱い自分の基本戦略は、省エネだ
なるだけ、エネルギーを使わないで済む方向に働く。
飢えと隣り合わせの原始人、そもそも生物一般にとって、それが、生き残るために有効だからだ。必須だと言ってもいい。

これは何を意味するかというと、弱い自分は、楽な方へ働くということだ。
楽な方が気持ち良いという感覚になるということだ。
反対に、楽でない方、負荷のかかる方向は、不快・苦痛の感覚になる。

したがって、外部からある程度の強制が働かない限り、つまり、強制され、止むを得ず、やらなければならない限り、能力を使わないで済まそうとするのだ。

現代社会における生活は、原始人が生きた環境とは大きく違って、その持っている能力を全開しないと生きられないものとは違う。

そこで、現代人は、本来我々に備わっている能力を全開しようとすると、人為的に、この原始人環境に身を置くトレーニングをしなければならない。

これが、弱い自分に勝つということの構造だ。
じゃあ、やっぱり自分に勝たなければならないのじゃないかと、思うかもしれない。

そうではない。
弱い自分は、警報装置だと言った。
警報装置である限り、警報は鳴る。

それに打ち勝つのではなく、警報を吟味するのだ。
警報の、どのあたりまで、負荷をかけても問題ないのか、注意して、負荷をかけるようにするのだ。

車のスピードメーター、潜水艦の深度計、ボイラーの圧力計みたいなものだ。計器のメモリーを見ながら、どこまでスピードを上げていいのか、どこまで潜ってもいいのか、どこまで圧力を上げてもいいのか、判断するようなものだ。

そうやって、体と心が壊れないような程度まで、負荷をかける目安にする、それが弱い自分との付き合い方だ。

この、弱い自分=警報装置・計器という捉え方をすると、苦痛等から、自由になることができる。

と言っても、苦痛を感じなくなると言うことでは勿論ない。
苦痛はあるが、それは警報・計器の目盛と考えると、一応「自分」から切り離して捉えられるようになる。

言ってみれば、苦痛を感じ苦しんでいるのは、自分ではなく、単に警報音が聞こえているのと同じだと思えるのだ。

あとは、この警報を聞いて、どの程度まで負荷をかけるかを自分が判断すればいいだけだ。どのような判断をしようと、それはまさに判断の問題で、自分が勝った負けたの問題ではなくなる。

したがって、自分が傷ついたり、めげたりすることも無くなるし、負荷をかける時も、痛みや苦しさに影響を受けずにかけられる。

といっても、ある程度の慣れが必要であるが、それでも、弱い「自分」と距離を置くことができるようになるので、痛みや苦しさもある程度以上、コントロールできるようになる。

まあ、お試しあれ。

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