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「エマニュエル・トッドの思考地図」を読む

本書は日本からのオファーを受けてトッドが書き下ろしたものなのだそうで、日本でしか出版されないものなのだという。オファーしたのは出版社の筑摩書房だということなのだろうか。そもそもなぜこのテーマなのか。これについてトッド自身は今の社会はどんどんアトム化がすすみ社会の現状を正しく理解することが難しくなってきている。これは社会というものの形そのものが失われつつあり、自分たちの社会の歴史の意味すら失われつつあるからだ。だからこそ、思考のプロセス、思考そのものについて考えることをテーマにしているのだと言っているのだと思います。

日本には今日もなお、伝統的にしっかりと組織された家族構造があります。直径家族と呼ばれる構造で、それは強い集団的な価値観や社会的な規律を伝達してきましたし、今もしっかりと存在しているでしょう。それは最近の新型コロナウィルス禍でも再確認されたことです。しかし、規律正しい社会であるにもかかわらず、そこには別の種類の「無」があるようなのです。それは共同プロジェクトの不在です。

精神的な観点から社会を考えてみましょう。するとまず国家の存在が浮かび上がります。そこにはナショナリズムも含め、それを超えたかたちの能動的な帰属意識のようなものがあり、それが集団に目的を与え、歴史の中で、未来に向かって進んでいるという感情を与えてれます。
一方で、集団の受動的な社会心理の原則というものもあります。こちらの原則に基づいた社会では、人々は共通した習慣を持っています。そしてある一定の期間においては、比較的効率よく社会が機能します。しかしそれだけでは個人間の関係を超えた部分で、人々が何か大きなプロジェクトに参加しているというような意識を持つことはできないのです。
今日の日本には、この受動的なかたちでの集団心理はあっても、前者の能動的な意識が欠けていると言えるのではないでしょうか。フランスのような社会にも政治的にもめちゃくちゃな国から日本へ行くと、そこは非常に秩序正しく、すべてがうまく回っているかのように見えます。しかし根本を見てみると、人口減少という問題が横たわっていて、これこそがまさに共同プロジェクトの不在を説明するものなのです。
要するに、日本そしてドイツのような国というのは非常に巧妙かつ特殊な集団の溶解という問題と向き合っているのだと思います。日本が特殊なのは、未来へ向かう集団意識の崩壊がある一方で、日本人としてどうあるべきかという態度も無傷のままそこにあるという点でしょう。しかし、思考するために何が必要なのかという問題に戻ると、やはりそれは能動的な意識の方なのです。
そうすると、結果的にはフランスも日本も、思考ということについて困難な状況に陥っていることが見えてくるのです。

トッド自身の思考プロセスや思考の進め方について踏み込んだ内容も書かれているのですが、ある意味、そこにすごい特殊な、独自な方法がある訳ではありませんでした。とはいいつつもこれを職業にしている訳なのでその実践力というものは我々凡人が真似してできるようなものではないと思います。

しかし、それよりもやはり驚かされるのは彼の着眼点というか切り口にあると思います。そしてどうしてそこに気がついたのか、という点でも地道にひたすらデータ・情報を蓄積し続けていくことで、ある日突然降ってくるというような感じで、それはご本人が隠したり謙遜している訳ではなくて本当の事なのだろうと思うのだけど、比類のない才能としか言いようのないもので、やっぱりこの本を読んでも得るものはない 感じでありました。

もちろん本書がツマラナイとかなんの役にも立たないなどというつもりはありません。非常に考えさせられるとても良い本でした。単にトッドの真似は読んだからといってできるものではないということが解ったという話です。そして本書はむしろ思考プロセスや思考地図といった話よりもそのトッドが冒頭で語っていた社会が形を失って行っているその現象そのものを見つめる目線にこそ読みどころがあったと思います。

私は社会から集団的な枠組み(思考や信仰など)が消滅すると、経済活動や社会活動といった集団的活動がより困難になると考えています。これまで集団的枠組みというのは一種の制約であって、それが崩壊すると個人はより自由になるということがさんざん言われてきました。それに対して私は『経済幻想』のなかで、逆にそのことが個人を縮小してしまったと指摘したのでした。私はこの一人の個人というのは賛美されるような存在ではなく、か弱い存在であると考えています。集団的な構造が崩壊することで個人は混迷し、模倣しているだけのような存在となり、自分が置かれた環境のプレッシャーに押しつぶされてしまっているのです。
同時に、集合的な信条が崩壊することで起きた個人の縮小が、思考の能力低下を招いているのではないかとも考えています。というのも、一人で何の枠組みもない、つまり「無」のなかで思考するというのはナンセンスだからです。歴史に対して何一つビジョンを持っていない人が歴史を、そしてその延長線上にある現在や未来を思考するというのは、非常に難しいです。不可能だと言っても良いでしょう。

トッドの主張を繰り返してしまうようですが、日本も日本人としての文化を持ち続けている一方で「日本人」としての共通の価値観などはとうにどこかに失われてしまっていて、能動的な帰属意識などというものを失っていること自体にすら記憶がない状態にあると思う。

それは気候危機に対する真っ当な打ち手が打てない、福島第一原発は問題が解決するよりも寧ろ後退しているように見える、コロナ禍における非常事態の対応も口先ばかりで効果的な施策を実行できない日本政府があり、そこでリーダーとして率先すべき政治家たちは利権に踊り、時代錯誤の世界観で海外から嘲笑され、そしてなお自身の息子が務める会社が組織ぐるみで政府の高官たちを接待漬けにしていることが明らかになり、社長が辞任する事態となっているのに、官庁の高官は減給止まりでその親の菅は辞任する気配すらないというこの状況にあって僕ら納税者が帰属意識など持ちようがないだろうというものだ。生理的に受け入れがたいほどの異物感がある人達と共通認識に立てる訳がない。そしてその結果現在や未来を思考するというのが難しくなっているのだというところまで考えが及ぶというのはやはり慧眼というかさすがとしか言いようがないところであります。

また、本書ではグループシンクという考え方にも触れられていました。

それは、同じような考えをもつ人々ばかりが集まり、その中だけで議論をしていくと、いつしかそれが現実世界とはまったく乖離したものになってしまうという現象でした。これは極端な例ですが、社会には多かれ少なかれ相違というものが存在します。ある社会に所属している人間は、限定された支店から社会を眺めているということです。 この話は特段あたらしいものでなく、私が大きな影響を受けてきたマルクス主義からきているものです。そしてルカーチによる社会のどこにかに属する一人の人間なのです。その哲学者は上流階級、中流階級、下流階級のどこかに所属している存在です。ある社会で皆が同じ場所から観察することはできないのです。山の頂上か中腹か麓にいるかによって、見える景色は違うのです。ですから、社会構造、あるいは社会生活や歴史を、自分の社会的な所属抜きで考えるのは非常に難しいのです。
マルクス主義には、社会やその構造に関する認識というのは対立する視点、あるいは自分が所属する場所によってゆがめられるものだという考え方があります。マクロンに投票した人々やジャーナリスト、自営業や上流管理職、知的専門職などの人々は自分たちのことを「勝ち組」と認識しています。他方でマリーヌ・ルペン率いる国民連合に投票する人々のことを、社会の下層にいる「負け組」だと認識しているのです。

自民党の政治家の人たちの激しい世間ずれは正にこれだと思うし、JOCの森の辞任を前後して登場してきた人たちもみな同じ穴のムジナみたいなものだった。これらに批判的なSNSなどの流れをたどると必ず行き当たるのは極右やヘイトを粘着質に続ける人たちの存在なのだが、彼らもしかりだ。とどめは愛知トリエンナーレに端を発する名古屋市長の辞任を求める著名偽造事件に関係する人物たちだ。SNSで見かけるほど実は人数が多くないのだということは薄々解っていたけれども、極少人数でも意見を同一にする人たち同士で繋がり正しいと信じこんで発信を繰り返すことで大勢いるように見せかけている訳だ。彼らもグループシンクの罠にはまり込んでいるのだというように理解することができたというのも本書のお陰でした。

そしてコロナ禍について

これから明確になるだろうことは、このウィルスの影響が文化圏によって異なっているという点です。もちろん、その国の文化というのは、家族構成につながっています。たとえば、産業を自国に残した国、ドイツや日本、中国や韓国という国々は、グローバル化の流れで自国の産業を手放したフランスやイギリスなどの国々よりも、少なくとも現時点ではこの状況を比較的うまく切り抜けているように見えます。一方でフランスは、人工呼吸器、マスク、薬などの生産が追い付かず、後進国のようになってしまいました。
このウィルスが明らかにしたことの一つは、グローバル化というのは社会発展の単なるステップではなかったということです。つまり、それは卑劣な金融の思惑であり、西洋社会の一部を後進国状態にしていしまったのです。こうして自国に生産チェーンを保持した国々というのは、ドイツ、オーストラリア、日本、韓国、つまり直系家族の国々なのです。私にとってそれは悲しくもすばらしいことです。そしと最も被害が大きかった国々を見てみると、フランスというのはドイツよりもイタリアやスペインに近い状況です。また驚くべきことは、人口10万人あたりの死亡者数でイギリスがフランスを抜いてしまった点でしょう。アメリカについては、これからいろいろとわかってくると思います。

単に死者数などの推移をみれば西欧諸国に比べれば非常に少ないですが日本がコロナ禍に対して上手に対応している訳ではないというのは正直な感想です。日本がどうして少なかったのかという点についてはまだ誰も説明ができていませんが、フランスが大変大きな被害を受けた背景にはグローバル化があったというのは、これまたなるほどでありました。同様のことがおそらくイギリスでも起こっていたということなのでしょう。

そして人口動態について先日読んだジャレド・ダイヤモンドの「危機と人類」のなかでは著者は日本について人口減少が必ずしも悪いことではない、前向きに考えることもできるだろうという趣旨のことを書かれていて、なるほどそんな風に考えることもできるのかと若干そこには額面通り受け入れにくいところがあるなーと思っていたところでしたが、トッドはソ連の崩壊を予測した時と同様出生率の低下について非常に重要視していて日本の出生率低下に対して強い警戒感を示していました。日本の合計特殊出生率2019年は1.36で人口減少の傾向は1974年から拡大傾向にあるにも関わらず日本はそれに対して有効な打ち手を打てていないというのが大きな問題だと述べていたのもとても印象深い話でした。子供や若者が育てられない社会や会社は滅びるしかないと常々自分でも思っていることだったので非常に腹落ちするところがありました。

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