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わびとさび

「" 侘び・寂び "っていいよね。」
数週間前、友人とそんな会話をしたことを思い出していた。

わたしが雰囲気で言った言葉に、相手はどれほど心を震わせたのだろう。
返された「いいよね」について思いをめぐらせる。

そんなことを考えながら、境内をぐるっと一周り。

あの時、安易に持ちだした" 侘び・寂び "という言葉。
境内で目に入るすべてが、自分の器では受けとめきれない" 何か"に思えた。

ただ言葉だけを知っていた" 侘び・寂び "。
あの時の自分を恥じた。

わたしは" オーガニック "が好きだ。
" 好き "というのも変な表現だが、そういうものに触れていると" 心が喜ぶ "。

だからたまに出会うファッションとしての" オーガニック "に違和感を覚える。

" オーガニックだからいい "のではなく、" ○○○だからオーガニック"。
オーガニックの真髄は後者だと思っている。

なんだかかそれと同じようなことを " 侘び・寂び " に感じた。
だからかな、「いいな」という単純な言葉ではなく、「触れたい」と思った。

なにも知らないわたしが、" 侘び・寂び "の中に佇んでいる。
無知でも感じる、清らかさと緊張感、そして安堵。

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銀閣寺からの帰り道、わたしの心は「癒し」と「トキメキ」で満ちていた。
ひとりで来たからこそ、新しい" 何か "に出会えた気がした。

この旅は " 自分との対話 " 。
それは、、1泊2日とは思えないほどの" 気づき "があった。
「旅は長さじゃない、自分の心なんだ」とひよっ子ながらに思った。


道ばたで猫と出会った。
足を止めてみたけど、一向にこっちを向いてくれない。
けれど別にいいじゃないか。「キミ、とってもいいよ」。

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わたしは共感と承認の世界に溺れそうになっている。
SNSの恩恵に与り、日々いろんな人の考えや表現に触れ、また自分の考えや表現を発信する。

そんな毎日では、無意識のうちに共感を求め、承認を望んでしまう。
つまりそこには常に「他」がいるのだ。
" 他から見る自分 "である。

けれどこの旅を通して、自分は自分の中にだけあって、それは誰にも束縛できないフリーダムな世界なんだって思えた。

「いいね」をもらうと人は嬉しい。わたしだって嬉しいし、なにより活力になる。
けれどそのために" する "と、自分が迷子になってしまうような気がした。
もちろんそうじゃない人もいる。あくまでもわたしの話だ。


帰りの電車に乗るために、数時間ぶりにスマホを手にする。
電車の時間を調べると、家につくのが予想以上に遅くなりそうだ。

駅には人がたくさんいた。
車窓を覗くと、漆黒の世界にキラキラとたくさんの光が埋めいている。

「来てよかったな」
そう思いながらも閉じそうになる目をパチパチと瞬きする。


最寄駅に降り立ったわたしは、疲労の中にもなにかホワっとしたオレンジ色の光がお腹の奥深くで灯っている感じがした。

昨日の朝とまったくおんなじ部屋。
たった1泊なのに、なぜだが無性に愛おしく思えた。

「ただいま、わたしのお家」



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